Angels With Dirty Faces 7 ★
今日は一日走ってばかりだ。朝から昼から夜。そして現在進行形でヴィンセントは薄闇の中を疾駆していた。レオナの策に乗るのは不安ではあったが、エリサを五体満足で取り返すには彼女の作戦が確かに的を射ていたのも事実。なにより他の選択肢と時間が無かったのが最大の後押しとなっていた。
にしても、レオナの撃合い好きには困ったものである。ムカつく奴がいれば殴らずにはいられず、常に苛ついている。付き合うには慎重な対応――ヴィンセントが実戦出来ているかは怪しいが――必要で、爆発物を扱うぐらい神経質にならなければならない。無論、今回は彼女の趣味によるものではないと十二分に理解していても、それでも毎度毎、レオナ基準の無茶に度巻き込まれているヴィンセントにしてみれば堪ったものではなかった。
感覚の……特に身体能力に関する認識のズレは確かにあるわけで、意識の違いを埋めるつもりがなければ、溝はいつまでも溝のまま。馬力あるレオナに振り回されるようにしてなんとかヴィンセントがついて行ってるのが現状で、レオナの可能はヴィンセントにとっての無謀であることが多多あり、今回もそこに含まれていた。
生きるか死ぬか。しくじれば谷底へと真っ逆さま。文字通り死活問題である。
勇敢と無謀は似て非なるもので、それは二人の線引きも大きく異なっている。ヴィンセントは追撃に入ってきた誘拐犯達に気付かれることなくコンテナヤードから逃げ出していた。走りながら背後に耳を傾ける。まだ、静かだった――。
「おい、見ろよオイ!」
コンテナの下から引っ張り出した毛皮を手にして、一人が血相変えてアントニオに駆け寄る。ヘッドライトの光に照らされれば、その物体が腕の形をしていることが判る。
だが、それがどうしたという話で、獣人の餓鬼の死体を見つけても仕方がない。諸共血煙に変えたのだから、探すべきは、晒すべきはヴィンセントの首だとアントニオは怒鳴った。
「ちげぇ、違うんだアントニオ! 便利屋じゃねェ!」
「だからそいつの首探して来いってんだ、餓鬼の腕なんざいらねえッつう――」
「そうじゃねえんだって、餓鬼じゃねえよッ!」
男が灯りの中に放ったのは肩からもがれたヒトの腕、白い毛皮で覆われていて人間のものではない。しかしそれは、獣人のものでもなかった。致命傷だというのに傷口には赤い染みの一つさえなく、ただ白い綿がはみ出しているだけだ。
「やるじゃないかマイキー」「射的屋も店終いだぜ」「景品にその腕持って帰れよ」
あれだけ弾をバラ撒いた結果が人形一つである。仲間にからかわれた射手が「うるせえ」と怒鳴り返すと、また笑い声が巻き起こった。だが、その笑声の中にあって正しく事態を受け止めていたのは、アントニオと腕を持ってきた男だけだった。
アントニオが彼等を黙らせるのが少し早ければ、コンテナの谷間に反響している足音に気付いたかもしれないが、もう遅い。金属を踏み鳴らす音が途絶えた時にはもう遅い。
「上だァッ!」
上空に人影。アントニオに反応した誘拐犯達が振り返り、銃口を上げざま銃爪を引く。が、コンテナの上から跳躍したレオナは既に中空にあり、銃弾は落下していく彼女の上を通り過ぎていくだけだった。
テクニカル目掛けて跳んだレオナは真下に向かって二発発砲し、それぞれで50・Calの射手と運転手を脳天からケツまでブチ抜く。そのまま音も無く着地した彼女は、手近な男に豪腕を振るい全力で殴り飛ばした。
縦に割れた眼光はあまりに鋭く、果たして言葉が通じるかどうか。正に化物、正に狂獣。殴られた男はコンテナに激しく頭を打ち付け、拳の威力を受けきれなかった彼の頭蓋は異様な形に凹み、片目が飛び出していた。
一瞬にしてコンテナヤードは静まりかえり、押しては寄せる漣だけが空間に響いていた。アントニオの震えた声は波音にさえ圧し負けそうだった。
「何なんだてめぇ……、いったいテメェは何なんだよォッ!」
「ご立派な質問だな人間。肩に乗ってンなァ、そいつぁ南瓜かい?」
ぞろり、レオナの悪魔じみた視線が人間共を射竦めた。
「ヘイヘイヘイ、一体全体どうしたんだい、えぇ? どいつもこいつも舌を無くしたみたいに静まりかえっちまってさ。続きは? どうした続けなよ、ようやく獣人を殺せるんだぜ。嬉しいだろうが、なぁ人間。楽しい時ってなァ笑うんだよベイビー、ほれ……笑えや……!」
こうするのだと、レオナが嗤う。牙を剥いた満面の笑みは決してヒト科の生き物が讃えるものではなかった。馬鹿デカい銃を携えて人間を殴殺し、鏖殺するのみ。微塵の容赦も同情もなくただひたすらに鏖殺す。非道な笑みが欲するもの――それは死。
獣人? 獣の人だと? 否、あれは人ではない。あんな化物が人であってたまるか。
「な、何してるお前等……撃てェ、ぶっ殺せェエえェェ!」
アントニオが叫び、狂獣の眼差しに凍り付いていた男達が我を忘れて銃を撃った。火花を散らす無数の弾丸、慄く人の叫び(たけび)。テクニカルのフロントガラスは砕け散り、タイヤが潰れて膝を着く。それでも足りず、彼等は銃身が焼け付くまで銃爪を引き続ける。
レオナの眼を見て彼等は悟ったのだ。これから起きるであろう事柄を。
銃撃が始まるや後ろへ大きく跳躍したレオナは、テクニカルを踏み台に更に後方へと跳び、今や車両の影に身を隠している。だのに、誘拐犯達は恐怖に駆られるままに撃ち続けていた。そして遂に、唯一の光源であったフロントライトまで破壊してしまう。
闇の帳が舞い降りても、一心不乱に彼等は撃ち続けた。無論、銃には装弾数というものがあり無限に撃ち続けることは叶わない。光を失った今、乱れ放たれた弾丸の行方すら判らないというのに、それでも銃爪から指を離すことはなかった。この反動を感じている間は生きていられると、どこかで理解していたのだろう。やがて――
「……殺ったか?」と誰かの声が静寂に染み出す。硝煙の臭いが鼻をつき、赤熱した銃口がまるで蛍のように闇の中を漂っていた。
「黙れ、静かにしろ」「何も見えねえぞ、畜生」「あの化物はくたばったのか」
否定も肯定も、いや、どんな言葉も出てこない。喉が渇く。アントニオは唾を飲み込んだ。
ヘッドライトに眩んだ目では自分の手さえ目視出来ない。黒々とした闇にいくら目を凝らしてもレオナの姿は認められなかった。只でさえ人間には少なすぎる光量だというのに、縮みきった瞳孔でなにを見る。仲間がそこにいるはずだが、乱れた呼吸音が聞こえるだけ。
はたしてあの獣人は死んだのか。拳銃を構えたままアントニオは摺り足で歩を進める。爪先に何かが当たればそれが死体だ。
と、ひゅるり――。そっと触れるように、ぬるい風が彼の頬を撫ぜた。
背後で鈍い打音、次いで悲鳴。錯乱した銃声が響く。
「クソぉッ、くたばってねえ! あのケダモノ野郎生きてやがるッ、どこ行きやがったッ⁉」
レオナの拳には頭蓋を砕いた感触がまだ残っている。狼狽する男達の姿を、彼女は同じ暗闇の中にあってもしっかりと捉えていた。見当違いの方向に銃を向けて怯えている姿のなんと滑稽なことか。彼女は残った誘拐犯達の真ん中に立っているというのに。
滲んでいるような視界にアントニオは息を詰まらせ、ようやく彼は理解した。追い込むつもりで誘い込まれ、攻守は完全に逆転していることにようやく気が付いたのだ。今や自分は目隠しをされ壁の前に立たされているのも同然なのだと。
闇の目隠しによって遮られた視界。瞎の恐怖は徐々にアントニオの精神を蝕んでいく。虚ろな皮膚感覚が心臓から拡がっていくようだ。ひたすらに瞼を開いてこそいるが視界は暗闇が拡がるばかりで、自分の感覚が信じられない。全てが曖昧。
だがそれなのに、底冷えするような恐怖だけは毛筋程も鈍らないのだった。
悲鳴に向けて銃を撃つアントニオ。当たったかどうか? 知るわけがない。狙って撃っているわけではないのだ。瞬間見えたのは血に横たわる何か――仲間を呼ぶが――……。
連中が、どうなったかなど知れていた。彼の奥歯がガチガチと音を立てる。耐えられない。獰猛な獣が潜む暗闇にアントニオは一人取り残されたのだ。野獣と同じ檻に一人、独り。最早、彼を囲むものは皆無。足さえ動けば逃げ出せるのに腰から下が石化したかのように動けず、両手で銃を握る姿は祈りに似ていた。震える拳銃が巡る、ケダモノは一体どこだ!
戦々恐々。そんなアントニオを嘲笑うかの如く、周囲のコンテナが固い音を立てる。
カン、カカンカン――
虎視眈々。アントニオを狙う猛獣が戯れにコンテナを鳴らしているのだ。足音代わりに、ここにいるぞ、と。獲物を追い込むレオナの足音は彼の周囲をゆっくり、じっくり回る。この恐怖を、その焦りを、その後悔を嗅ぎ分けるように。
そして、唐突に静まりかえるコンテナの谷間。アントニオは血眼になり、なんとかレオナの姿を見定めようとする。まだ足音が聞こえていた方がマシだった。ケダモノに首を食い千切られるなど考えたくもない。しかし手にある拳銃は余りにも矮小で、一頭の猛獣の前に立つ人間の無力さを感じさせた。それでもアントニオは藻掻く。今度はブーツの音が彼を囲い込み徐々に近づき、かと思えば遠ざかった。その足音が本物か、それとも幻聴か。判断など付くはずもなく、感じ取れる気配が移る度に銃口を向ける。
「くそ、くそ……! チキショウッ化物めェ!」
遂に緊張に耐えきれずアントニオが叫べば、
ガチリ――と。
背後で鳴る、無機質な機械音。
終わりを告げる無慈悲な音色は、これまで幾度も聞かせてきたが、アントニオ自らが聞く側に回ったのはこれが初めてだった。炙るような熱気は硝煙の香りと共に彼に未来を見せる。
「……あ、あぁ…………」
死の宣告に身を引き攣らせ、アントニオは嗚咽を漏らす。
銃爪に掛ったレオナの指に数㎏の力が加われば、アントニオの命は終わるのだ。詰んでしまえば意地は砕け、膝が笑い始める。骨肉相食まんばかりの殺気に気圧され心折れた彼は、促されるよりも先に銃を捨ててしまった。
「ひ、へへへ……参った、降参だ」
諸手を挙げて降参の意を示し、アントニオは恐る恐る振り返る。無明から発せられる重圧、視線で彼は貫かれていた。縦に割れたレオナの眼光だけが、熱された刃のように禍々しい光を孕んで浮いていた。その眼差しに比べれば、一面を覆う暗闇など小春日和に思える。
「見逃してくれ……頼む…………なあ? カタはついたじゃねえかよ、これでアンタの勝ちだ。あ、ガキは返すしもう手は出さねえ。そいつが目的だったんだよな? 連れて帰りゃいい、それで満足だろ。お互いハッピーてなもんだ」
「…………」
「も、元通り、ハッピーだ。そうだろ?」
「――だから、何だってのさ?」
「いや、わ、判るだろ」
「散々っぱら弾いてきて番が来たら命乞いか。テメェは大勢獣人と会ってきたはずだウジ虫野郎。同じ事を言ってきたアタシ達をアンタはどう思ってた? そいつ等に何をした」
「待てよ聞いてくれ、それは重大な誤解ってやつだ。不幸な、な。酒でも吞みながら話せば分かり合えるってもんだぜ。そもそも用事があったのは便利屋だけで、あんたやあの餓鬼んちょに用はなかったんだ。そ、そうだ! ストライプ! 縦縞スーツの野郎がいたろ、アイツに嵌められたんだッ! そうさ、俺はガキ攫うのなんざ反対だったんだぜ? なぁ? 殺るならアイツを殺してくれ、それでチャラだ。勘弁してくれ」
「都合のいい話じゃないか……、アンタはなんて呼んだっけ?」
質問の意味が分からず、アントニオは口を開閉させるだけだ。
「アタシの事さ、なんて呼んだ」
口にすれば殺される。アントニオは擦れた声で他の言葉を求めたが、喉はベッタリと張り付いてロクに話すことさえ出来なかった。
「『ケダモノ』と、そう言ったんだよ」
「…………い、いやそれは。違う違うちがう、待ってくれ!」
「人間の言葉ァ判ンなくてさ」
「待っ――――……ッ!」
瞬く銃口炎が照らすのは剃刀のような瞳と鋭い牙――
それが、アントニオが見た最後の光景だった。




