Aces High 11 ★
妙な息苦しさで目が覚めてしまった。
エリサの白い体毛は淡い暖色の光を浴びて毛色を変えている。暖かなオレンジ色は、攻撃的なレオナのそれとは異なり、包み込むような柔さがあった。眠たい目をぐしぐしこすって彼女は緩慢に身体を起こす。
そこはエリサの自室だった。といっても彼女の持ち物はほとんど置かれていない。子供らしい玩具の一つさえなく、備え付けの家具の他には壁掛け時計があるだけ。
アルバトロス号の客室の中でエリサにあてがわれたのは、手近な物置として使われていた一室。船体が大きいため元々部屋数に不足はないのだが、子供部屋にするには他の部屋が余りにも散らかっていたために、物置として使われていた一室を片付ける事となったのである。
片付いているというのには語弊があり、正確には物がないだけだ。生活感すら希薄なその様は、エリサの心模様を写しているようでもあり、空虚な雰囲気は拭いきれない。
毛布がずり落ちる。耳を寝かせ、焦点の曖昧なまま首を巡らせれば時間は既に真夜中だ。
レオナと話してる間に眠っちゃったのかな。たぶん、ここまで運んでくれたのもレオナだ。ヴィンセントが教えてくれたとおり、やっぱり優しい人なんだと思う。
たくさん話した事で誤解も解消され、これからはいっぱいお話ができる。
でもそれはお楽しみとしてとっておく事にした。みんなのご飯を作るために早起きしなくてはいけないのだ。期待を胸に寝ようとしたエリサだが、喉がからからに渇いていた。
裸の足にサンダルを履いてから通路に出ると既に夜間照明に切り替わっていて、今通路を照らしているのは低い位置にある足元灯だけだ。その朧気な明かりはエリサが通路の先へ先へと延びていく。
まるで誘うように灯る弱い光は妖精のイタズラなのかもしれない、暗い森の奥へと誘おうとしているのかも――……。なんて考えてしまうと少し怖くなった。でも、エリサが触れる壁の感触は、魔女が住む森の木々とはかけ離れた冷たさで彼女の恐怖を払い、船体のどこかから聞こえてくる機械の音も同じように彼女の耳を守ってくれていた。しかし耳鳴りのようなモーター音を聞いていると、みんなが消えたのでは無いかと、別の不安が沸いてくる。
ううん、みんな寝てるだけ。ヴィンセントもレオナもダンも、みんな船にいる。みんながいきなり、いなくなるなんてあるはずがない……よね?
誰かいるかな、と覗き込んだリビングは真っ暗で、隣のキッチンも無人だった。部屋に入ると自動で照明が点き、じんわりと辺りを照らしてくれる。
エリサがアルバトロス号で暮らし始めてから数日が経っているが、昼夜で船内の様子はまるで違っていて、同じ船なのか疑いたくなる程だ。――もしかしたら夜は幽霊が乗っていて好き勝手に動かしているのかもしれない。最後は船ごとどこかへ連れて行かれるのかも……。
何とも突飛な発想だが、浮かんだイメージはあまりにもリアルでエリサは身震いした。
早く部屋に戻ろう。落ち着き無く水を飲んでコップを片付けていると、リビングの方から物音がした。――ばさり、と。誰もいないはずのリビングから。
数瞬前までは絶対に無人だったし誰かが入ってきたようもない。微かに鳴った物音に心臓は早鐘を打ち、胸が苦しくなる。
潤したばかりだというのに、呼びかけるエリサの声は擦れそうだ。室内は静まりかえっていて、いくら待っても返事がない。
すぐにでもベッドに戻りたいエリサだが、その為にはリビングを通らねばならず、見えない何かがいるかと思うと怖くて仕方がなかった。真っ暗は怖いけれど、明るいとこわい物が見えてしまう。そこの角に何がいるのか考えるだけでも恐ろしい。どこかへ逃げたいが背後には冷蔵庫があるだけで隠れようもない。追い詰められたエリサは瞼を固く結ぶ。だが、恐怖に抗う為に視界を絶った事で、他の神経が過敏になり余計に恐怖を加速させた。
おっかなびっくり目を開けて、少しずつ拡がっていく視界は――だが、無人。テレビがあって、ソファがあって、テーブルがある。いつもの通りのリビングダイニングだ。
お化けがいなくて本当に良かったが、同時にエリサの毛並みは逆立つのだった。では、物音はどこから? 空耳にしてはハッキリ聞こえた以上、今度は静けさが不気味になる。
隠れているのかも、見られているのかも、狙われているのかも。ソファの下? それとも天井裏? どうしようもなく疑心暗鬼。勝手にホラーの坂を転がるエリサを救ったのは――
ヴィンセントのジャケットである。
くしゃくしゃになって床に落ちているジャケットを見つめてエリサは胸を撫で下ろす。さっきの物音はこれが落ちた音だったのだ。きっとヴィンセントが適当に椅子に掛けた所為でずり落ちてきたのだろう。ただ服が落ちただけで怯えてしまったなんて、ちょっと恥ずかしくなった。
パタパタと足音をさせ、エリサはジャケットを拾う。すっかりくたびれたミリタリージャケットからは彼愛飲の煙草の香りがしていた。深呼吸して心を落ち着かせると、エリサは尻尾を軽く振り、ジャケットの皺を伸ばす。が、どうも逆さまに持っていたようで、ポケットから滑り落ちた何かが床を跳ねた。
かつんと固い跳ね音。銀色に輝いたのはジッポかと思ったが、シルエットは全くの別物で、本体と同じ輝きのシルバーチェーンが付いていた。
二対の翼を広げた荒鷲の――凝った意匠が施されたペンダントだ。
冷たい金属の感触、見慣れない飾り。少なくともヴィンセントが身に付けているところは見た事がない。はずなのに……。記憶の片隅に荒鷲が爪を立てる。
初めて見たはずだ、初めて触れたはずだ。だのにエリサの指先と碧眼はこの感覚を知っていた。鏡のように磨かれた輝きを、繊細な細工の手触りを――懐かしい父の残り香を。
自分ではどうしようもないくらいにエリサの手は震えていた。先程までの恐怖に駆られた痙攣とはワケが違う。鋭爪を振るう荒鷲が執拗に彼女の心を駆り立てるのだ。
思い出せ、思い出すな! 魂の底から湧き上がる相反する絶叫は、最早、恐怖によるものではなく絶望によるものだった。果たして刻まれたレリーフを認めた少女の記憶野が野火を放たれたが如く燃え広がる。灰燼に没した記憶の平原が、荒鷲に因って引き裂かれ、剥き出しの心を焼き潰した。その容赦の無い火焔は過去を紡ぐ火柱となり、霞んだ記憶を蘇らせる。
ペンダントを見つめる碧眼は動揺と狼狽に揺れ動き、何かを求めて首を巡らせる。何かを? いや、誰かをだ。過去が現れ、現在に繋がる。それが無慈悲な過程を孕んでいても、時間の流れは一つに集約されている。ifの存在は意味を無くし、現実は否応なくここにある。あの日、何が起きたのかエリサは遂に思い出したのだ。
腕を引かれ走った事を
銃声と怒号に追い立てられ、ひたすら逃げた日の事を
「行きなさい、必ず迎えに行く」と、微笑んだパパの声は優しくて
それが交わした最後の言葉。
世界が爛れ、歪んでいく。身体が拒絶反応を起こし、胃袋を握りつぶされるような感覚に嘔吐く。突如蘇った記憶は少女の正気を現実から遠ざけ、全てを虚ろに感じさせた。
全部が偽りなのだと――
なんと愚かなのだと――
怪しい足取りで部屋を出る。こんなところ(・・・・・・)にはいられない。
今まで彼女を守っていたのは虚飾に彩られた幸福で、身を委ねていた安寧は欺瞞で設えたベッドだった。そうと解ってしまえば、偽りに覆われた空間に留まる事など出来ず、港の生ぬるい風に吹かれても尚、足を止める事さえなかった。引き攣る足を無理にでも動かして、少しでも船から離れたかった。
ヴィンセントも、ダンも、レオナも信じられない。
深夜の道を当て所なくエリサは歩き、気が付けばどことも知らない場所にいた。人気の無い通りを照らす朧気な街灯は、墓地へと続く灯籠のように陰鬱に灯っている。
……次にパパと会ったのは路地に出来た人だかりの中からで
担架に乗せられた袋から、紅く染まった手だけが見えた。
後から怒鳴り声がして黒髪の男の人がパトカーに押し込められていった。
可能性と記憶の点を想像という線で結び導かれた解は、エリサを絶望の谷底へと突き落とすには充分で、少女には辛すぎた。
唯一の家族を亡くし、信じた人にも裏切られた。
天涯孤独。歩む先には光を喰らう闇が両手を広げて待っていて、寄る辺を失った少女を更なる沼の底へと引き摺り込もうとしていた。
助けを求める少女の声は最愛の人に届かない。その絶望に背中を押されながら、エリサは幽鬼の足取りで車道へと踏み出していた。
近づくエンジン音とヘッドライトの光線。だが少女は俯いたまま立ち尽くす。
いっそこのまま――
エリサの影がコンクリートに伸びていき、姿は光に呑まれていく。




