Aces High 10 ★
寝息はそよ風のようで、寝顔は白百合のようだ。息を顰めたくなる程にエリサの寝顔は穏やかで、身動ぐ事さえ憚られた。レオナの指先を伝う白髪は粉雪の優しさで、さらりするりと抜けていく。しかし、少女を寝かしつけるには不相応な嘆息が一つ。
「……ハァ、いつまでそこにいるつもり、人間」
通路に立っていたヴィンセントが、そろりとリビングに入ってきた。
「なんだバレてたのか。俺の忍び足じゃまだお前の耳は誤魔化せないか」
「チクりの次は盗み聞きか、悪趣味な野郎だ」
「たまたまだって。邪魔しちゃ悪ィと思ってよ」
悪びれた様子もなく答えると、ヴィンセントは抱えていたジャケットを椅子に放り、冷蔵庫を漁り始める。通路で息を潜めていたのは確かだが、中に入るタイミングを探っていただけなのだ。おかげで咥えたままの煙草はいまだライターの火を待っている。
整備を手伝っていたおかげで汗だくだし、喉もからから。冷蔵庫から取り出したコロナの栓を抜き、一息つこうと彼はようやく煙草に火を灯した。
「……笑えば?」
レオナが不機嫌に唸る。背を向けてソファに腰掛けている彼女は、振り返る素振りもない。
エリサは今、レオナを枕にして寝息を立てているのだ。当初の目的以上の成果を上げているというのに一体何が不満なんだか。だのにレオナはどこか自虐的であった。
「さぞ愉快でしょうよ、アタシの膝で子供が寝てるなんて」
「笑うつもりなら最初にビビられたときに笑ってる」
「アンタ笑ってやがったろうが」
「あれ、そうだっけ」
まぁ笑ったかもしれない。ヴィンセントは飄々とソファに歩み寄り、背もたれに寄り掛かった。見下ろしたエリサの寝顔は安心しきっていてる。
「よく寝てるな。とりあえずは作戦成功ってとこか」
「アンタのべしゃりのおかげでね」
「礼ならいらねえよ?」
「てめぇが余計なこと言わなきゃ、こんな面倒な事になんなかったッつってンの。服の事まで喋りやがって、黙ってろって言ってろうがよ。ホントに口の軽い。沈黙は金、多弁は銀さ。喋りすぎは身を滅ぼすよ、口と実力が伴ってない奴はあっさりくたばる。何人も見てきた」
「説教か?」
「忠告だ。エリサに免じてね」
「……まあ、しゃべり好きなのは認めるよ。でも今回みたく銀が金に勝る事だってあるんだぜ。悪い事ばかりとは限らない。膝枕とは、上手いこといったじゃねえか」
「そんなに命をベットしたいの」
「俺達の稼業は基本的に命懸けだ。今更な質問だな」
「場が立てば張るって? アンタがやってるのはルーレットの一点賭に近い。博徒気取りのど阿呆が、最後に嵌る三六分の一の運試しさ。てめぇの無能を棚上げにして『運』の一言で片付けるなんてのは賭ですらない」
「チップが載らなきゃ賭にならないのと同じさ、話さなけりゃ何も始まらない。張る価値があるなら一点勝負に臨むのも悪くねえ。おかげでこれからはお前達の問題に頭を悩ます事もなくなる。――ああ、そういえばダンから伝言頼まれてたんだ。『お楽しみがもうすぐ上がる』って言ってたけど、お前等何企んでんだ?」
整備中の他愛ない会話の中で、ふとダンが口にしたのである。とは言っても聞き逃すと危険な香りをヴィンセントは感じ取っていた。
「なにさ? 気になんの」
「俺のケツが吹っ飛ばされないか心配なんだよ。お前等が組んでるとか嫌な予感しかしねえ」
するとレオナは「直に分かるさ」と意味ありげな笑みを口元に刻む。
何とも不気味で、ヴィンセントの背筋にはトラブルに見舞われそうな寒気が奔る。ダンとレオナが熱心に話し合っている現場は何度か目撃していた。モヒカン頭の厳つい親父と暴力の権化の虎女が、新品の玩具を眺める子供よろしく嬉々とした輝きを瞳に宿しているなんて、不穏以外の何ものでも無い。
そんなヴィンセントの仏頂面を余所に、レオナはエリサを撫でてやっていた。
「人間。エリサを」
「? どうしろって?」
「だから、部屋まで連れてってやってよ。こんなトコで寝かせるワケいかないでしょ」
「おいおい無茶言うなよ。こっち見ろよ。俺、手ェこれだぜ」
広げたヴィンセントの両手はオイル塗れで黒く擦れていて、とてもじゃないが他人に触れられる状態ではなかった。紳士的な挨拶をしても握手は拒まれるだろう。
「ま、こういう状態だから引き続きお前に任せるわ」
「オイ! ちょっと待ちなよ」
「願ったり叶ったりだろ? なんで渋るのか判らねえな」
「判らない? 願ったり――、確かに、なんでだろうね」
続きの言葉を待っていたが、レオナは眉根を寄せて暫く黙ったままだ。やがて諦めたように彼女は息を吸うと――
「……いいや、アタシが連れてく。ダンには判ったって伝えといて」
「俺は伝言板じゃねえぞ」
休憩も終い。ヴィンセントは冷蔵庫からダンの為に新しいビールを二本取り出した。ふとレオナを見遣ると、彼女は抱いたエリサを起こさないように慎重に、実に静かに腰を上げたところだった。凶暴な面持ちからは想像しかねる所作であるが、しかし。
「笑えねぇわ……」
「なんか言った?」
別に、とヴィンセントは口をひん曲げる。獣人の少女を寝かしつける獣人の女性、からかう要素は一つも無い。
「パパ……」
縋るような声。
ヴィンセントとレオナは静かな驚きに顔を見合わせ、同時に視線を落とした。
先はレオナの腕の中。――そしてそこに、涙に濡れた頬をみる。




