Aces High 9
「おかえりなの、ヴィンス」
エリサが、そろそろと寄ってきて心配そうにヴィンセントの顔を覗き込む。
「――どうだった初めて見た空戦の感想は? 見応えあったろ」
我ながら上出来な飛びっぷりだった。ドームを飛んでいたときに地上にいた連中はさぞ驚いたろうが、昼下がりの見世物としては充分だったし、エリサにも楽しめてもらえた筈だ。だが少女はヴィンセントの胸に顔を埋めて呟いた。「こわかった」と。
「あんな連中、屁でもねえ。手出しなんかさせねえから安心しろって」
それでもエリサは尚、ヴィンセントから離れようとしない。涙ながらに少女は首を振る。
「だってあぶないことなんでしょ? エリサとってもこわかったの、どうしてかわからないけど、とってもこわかったの。ヴィンスが、いなくなっちゃうような気がして……」
ヴィンセントは困惑していた。それ(・・)に意味があるかどうかなど、ヴィンセントにとっては考えること自体が無意味なことだったからだ。影法師に向かって「何故付いてくるのか」と問うても、沈黙が返るのと同じ事。そしてそいつは、どこに行くにも必ず背後に付きまとう。
エリサの言う『いなくなる』は永久の別れ、即ち死を意味している。が、生きてりゃ誰でもいつかは死ぬ。便利屋の仕事は危険を伴い、戦闘機のパイロットなどはその最たるものだ。勿論、死を恐れていては立ち行かないし、死を恐れるあまり蛮勇を奮う者はよりこの手の仕事には向かない。
だが、ヴィンセントはこの仕事に向いていた。ある意味では諦観と言っていい。死が逃れられない運命だとしても、それが早いか遅いか。究極的にはその二択、そして答えはいつかは死ぬ。彼の価値観は実にシンプルで、それ故に、惜しまれて、しかも涙まで流されると大袈裟に感じてしまう。
「誰が相手だろうと俺は空じゃ負けねぇ。涙はもっと大事な相手の為に取っときな」
「エリサはヴィンスのこと大切なの」
「やめとけ、俺はクソだ。憧れるならレオナにしろ。同じ穴の狢だが、あいつは俺よりかはマシだ。好きこのんで泥沼に嵌ることはない」
「……レオナが獣人だから? エリサも獣人だから?」
「それが全てじゃ無いがな」
「ちょっといつまでくっちゃべってんのさ、アンタは喋るより先にやることがあんでしょ? 腹減ってンだから、さっさと飯作りなよ、この愚図」
レオナは昼間のことでまだ腹を立てているらしい。それともエリサとの――会話をしていたのか怪しいものだが――二人きりの時間を邪魔された事に腹を立てているのだろうか。
「自分の腹くらい自分で膨らませよ。俺はシェフでも、お前の執事でもない」
「てめぇが飯番だろうが。それともエリサ抱き込んで押し付けようって魂胆か」
どの当番表にも一切名前が載っていないレオナに指摘されるのは非常に癪である。しかし、エリサの腹の虫にせがまれては拒むわけにもいかなかった。
「あ~あ、エリサ可哀想に。こんなに腹が減ってンのに飯も喰わせてもらえないなんてね。そりゃ人間様が獣人に喰わせる飯はないよなァ」
「俺が悪ぃのか? っつか、そこまで言うならお前がこさえてやりゃいいだろ」
「ここのキッチン狭いんだよ」
「船の設備なんて客船以外、似たり寄ったりだっつの。それ以前に、レオナって料理出来るのか? イメージも無けりゃ、見たこともねえぞ」
「アホくっさ。料理は女がするもんだとでも思ってんの? 腹が膨れりゃ何でも一緒、アンタの不味い飯でもな。下準備なら得意さ、人間相手なら特に」
「どうだかなぁ、目玉焼き作れるかも怪しいもんだ」
獰猛な笑みを浮かべるレオナはどう見たって捕食者だ。まかり違っても調理場に立つようには見えず、手間を掛ける暇があるなら生肉でもかじりつきそうである。
喧嘩腰の三白眼でレオナは食前の運動代わりに昼間の続きをご所望らしかったが、エリサがくすくす笑いを堪えているのを見て、ヴィンセントも毒気を抜かれた。
「止せよ。俺は一仕事して疲れてんだ。すぐに餌くれてやるから静かに待ってろ」
緊張しながらも微笑ましくもあるエリサを前に殴り合いなど馬鹿馬鹿しい。ヴィンセントも、溜息一つで挑発を受け流し大人しくキッチンに向かう。彼が晩飯の支度さえすれば全てが丸く収まるのだ。
「エリサ、先に風呂でも入ってこい。あんまり遅くなるとダンとかち合うぞ」
「お次はセクハラかよ、ロリコン趣味の変態め。エリサ、アタシが一緒に入ってやろうか?」
強制しない辺りがレオナなりの気遣いなのかもしれないが、エリサはそそっと後ずさりテーブルを挟んでレオナから離れた。何度お膳立てしても台無しにするのでは言葉も出ない。
「行ってこいエリサ。こいつの相手は俺がしとくから」
頷くエリサは駆け足気味にリビングから出て行き、後にはしょぼくれた虎女が残される。呼びつけるとぞろり、彼女が向ける眼差しは死人のそれだった。
「アァン? 解ってんの? アンタのべしゃりがそもそもの原因なんだぞ、こら」
「悪かったって。それはもう謝ったろ」
詫び代わりにヴィンセントは彼女好みのウィスキーを注いで出してやった。食前酒としては胃に悪い度数の高いアルコールでも、レオナにとっては水も同然、一息でグラスを空けるのでもう一杯注いでやる。それから冷蔵庫から取り出した肉と野菜をフライパンに放り込むと、芳ばしい油の音が弾けた。
「何でもかんでも急ぎすぎなんだ、レオナ。膝を曲げて飛びかかるまでが早すぎる。じっくり伏せて相手の出方を観察するのは得意なはずだろ」
「遅いのは世界、チンタラ生きてても行き着くのはみすぼらしい老後さ。愛想笑いでヘラヘラして気付けば棺桶の中なんてあたしゃ御免だね」
「銃で回せる世界は限られる。どこかの誰かと上手く付き合いたいのならまずは銃爪から指を放すこった。スコープに捉えた獲物と違うんだからよ、アプローチの仕方を工夫しないと。さっきのお前からは下心が透けて見えてたぜ」
「なんだって?」
自覚は無いのか。ヴィンセントは大量の麵を気持ちと一緒にほぐしてからフライパンに投下する。さてどう説明したものか。
「例えばだ、俺にバスタイムに誘われたらどうするよ?」
返された無言の凶相に射貫かれながらもヴィンセントは手を休めず料理を続ける。
「例え話だ。まだ自覚がないようだから教えてやる。こう言っちゃなんだが、そのツラしたお前とマトモに付き合えるのはプレデターくらいのもんだ。マジモンの猛獣だって小便漏らすってのに、どうしてエリサが懐く? 特技を活かして外堀から埋めていけ」
「…………具体的には?」
逡巡の後、レオナは既に空になったグラスを置き、身を乗り出した。その食いつき方が問題だと重ね重ね伝えているのに。ブレーキの壊れたトラックの正面に立つには度胸がいる。
レオナの鼻先から逃れ、ヴィンセントはソースを麵に混ぜ込んだ。
「少しは自分で考えたらどうだ」
「ハッ、思わせぶりな言い方した癖に、アンタも思いつかないだけだろ、役立たずめ」
「突き詰めればこれはお前個人の問題なんだぞ? 平穏な生活送ってる人間を巻き込むなって話しさ。HOW―TO知りたきゃ教えてやるが、言ってところで聞きゃしねえじゃねえか」
皿に盛りつけられた熱々山盛りの焼きそばに鼻をくすぐられるも、レオナは垂涎を堪えた。せっついていた理由はエリサを気遣ってではなく、自分が空腹だったからではないのか?
「とことんまでムカつく野郎だよ、アンタ」
皿を押し付けられた彼女は、だが拒むことなくリビングへ夕食を運んでいく。ついでに伸ばしたつまみ食いの指は、残念ながら艦内電話の呼び出し音に邪魔されることになった。
「え? ああ、ここにいるよ。――おい、人間。ダンが呼んでるよ、格納庫まで来いってさ」
厭な予感がヴィンセントの表情を渋いものにする。ラスタチカの機体に問題が生じたのだろう。恐らくは左主翼の付け根、フーチの攻撃を躱す為に高速飛行からクルビットを決めた所為だ。勝利の舞いを演じている最中にも気にはなっていた、思いつくのはそこしかない。
手が空いているときは手伝うこともあるが、通常の整備ならばダン一人で事足りる。お呼び掛かるということは、難儀な状態にラスタチカがあるという事、いつ護衛依頼が舞い込むかも分からない上、ヴィンセントにも責任の一端がある以上、手伝わないわけにもいかない。
「こりゃ朝までコースかな……。すぐに降りるって言っといてくれ。ああ、レオナ。その晩飯は二人分だからな、全部喰うじゃねえぞ」
「判ってるよ。とっとと行きな」
レオナは摘まんだ焼きそばを口に放り込んだ。




