Aces High ★
波の音なんて聞いたことがなかった。目を閉じると心地よい波音が優しく鼓膜をくすぐってくれる。何度聞いてもこそばゆくて、つい目を開けてしまう。本当はいつまでも聞いていたいのに瞼は勝手に持ち上がってしまう。
たぶん、こわいんだ。見えないのが、くらいのが――
空は明るい、朝の光に充ち満ちている。そよぐ風も、降り注ぐ日射しも、街路で感じたものとは全然ちがう。甲板から望む海はドームの縁までずぅーと拡がっていて、壁の向こうにも続いていそう、こんなにも綺麗な世界が造り物の偽物なのだろうか、見上げれば空は雲一つない青空――、だけど本物の雲を見たことがないから、それがどんな形をしてるか分からない。見たことがあるのは、地球の自然について話していたテレビで、画面の中にある映像だけだった。だから雲について知っているのは白くて空にあるってことくらい。
やわらかいのかな? ふわふわしてるのかな? 甘いのかもしれない。そんなことを思ってみたりもする。目に映るもの、手で触るもの、鼻を撫でる匂い、耳で聞く音、食べ物の味、そのどれもが温かくて、優しくて、眩しくて、新しいことだらけ。
すぅ~、と深呼吸。胸一杯に吸い込んだ空気はいつもより澄んでいる気がした。早起きしたのにはちゃんと理由がある、少女は朝一のやる気を出して、洗濯物が詰まった籠をよいしょよいしょと引き摺っていた。二本のポールの間に張られた物干し用のロープの下まで運んで少女は額の汗を拭う。
濡れた洋服を運ぶのは大変だ、もちろん干すのも。外に干さなくてもいいって言われたけど、こんなにいいお天気なのに機械で乾かすなんて洋服がかわいそう。
ところが、急造の物干しは些か強度が足りなかったようで、何着か掛けると重みに耐えきれなくなってきたロープの結び目が緩み、たわみ始める。慌ててロープを留めてあるポールに駆け寄って張り直そうとするが、少女の細腕では湿った洗濯物の重さは支えきれず、思い切り引っ張ってもロープはずるずると緩んでいった。
と、突然大きな影が差してロープが引かれた。その勢いたるや、勢い余ってハンガーがロープから跳ね落ちるほどで、洗濯物と一緒に尻餅をついた少女は首を巡らせた。
だが、「ありがとう」と言うつもりだったのに、目が合った途端に少女は悲鳴を上げて飛び退いた。洗濯籠が蹴散らされ、衣類が甲板上に散らばる。
子狐に覆い被さっていたのは眼光鋭い正に猛獣、馬鹿デカい猛虎であった。




