BAD DAY 8
ノックノック――……
ここまで腐った空気は珍しい。地下だからと云うわけではなく、性根のねじ曲がった連中から臭い立つ悪臭は、空調をいくら強めても薄まりはしないからだ。ましてやこの店は、そんな連中が背徳を求め集う場所だ。ダンスフロアを抜け、従業員用通路の奥で篭もった音楽を背後に聴きながら、ヴィンセントは叩かれるドアに注意を向けていた。
「はいれ」と声がしてドアが開かれる、部屋に踏み入ったヴィンセントは首を動かさずに辺りを見渡した。ギラギラとした赤い壁紙は、なるほど高級クラブのオーナールームに相応しい趣味の悪さだ。それはヴィンセントが持たざるものだからではなく、問題はこの臭い。アロマに隠れた鉄錆の臭いが鼻につくのだ、どれだけ誤魔化しても嗅ぎ慣れた奴ならばすぐに気が付く、絶命の残り香――すなわち、死。それも無残な。嗅覚の鋭さより、感覚として知っているかどうかだ。
店内を彩る装飾品も、その全てが獣人達の血と命で贖われていると知れば見方は反転する。 そのただ中にいれば顰めっ面になるのも無理はなく、実際ヴィンセントは店内に入ってから眉間に皺を寄せたままだった。マルコに招き入れられてもそのままである。
「俺に話があるとか」
デスクについている男が言った。アルマーニのスーツに金のネックレス、察するにこいつがマルコだろう、横に縦縞野郎が居るのは予想外だったがどうにもならない。ヴィンセントは堂々とデスクの前に立ちマルコと対面した。
「お宅がこの店のオーナー、だな」
「ん? あ、テメェは……ッ!」
流石に気付かれ縦縞野郎の手が懐へ飛ぶ。穏便に済ませたかったヴィンセントもほぼ同時に拳銃を抜き、縦縞野郎に突き付ける。すると彼を案内してきたマフィアの一人も銃を抜いた。二対一、全く以てツイてない。
「よくもぬけぬけと。こいつだマルコ、邪魔しやがったのは!」
「言いがかりだぜ。撃ったら撃たれるのは当たり前、眠てぇコトぬかしてんなよパスタ野郎」
「さっきは好きにやってくれたな」
「そのまま返してやるよ。ここで続きを踊ってみるか? どうだ?」
高まる緊張感の中で、マルコが静かに立ち上がる。
「一体何しにきやがった」
「お偉いさんに話しがある、それだけだ」
「素直に聞くと思ってんのかボケ野郎、テメェが法王だろうと関係ねえ、俺は俺を嘗める奴にゃ容赦しねえぞ」
「やる気なら構わねえが、誰がくたばるかはその瞬間までわからねえんだぜ。ちょっとばかし拗れちまってるが狐っ子さえ渡してくれれば俺は帰る」
「餓鬼だぁ? テメェもあのガキの知り合いか、人間の癖によ。笑わせてくれるぜ。誰も踊らねえ、お前がくたばって転がるだけだ。動物のためにわざわざ殺されに来るたァ阿呆極めたボンクラめ、挽き潰して豚の餌にしてやる」
引き出しにでも隠してあったのだろう、マルコは緩やかに取り出した拳銃をヴィンセントへ向ける。これで三対一。
都合三つの銃口がヴィンセントに狙いを付けていた。一挺しか抜くことが出来なかったのが悔やまれたが、今更背後のホルスターに手を伸ばすのは余計に危険だった。剣呑な空気が満たした室内は、さしずめ張り詰めた風船と同義。その緊張の中で迂闊に動けば、それがどんなに小さなものでも鋭利な針となって風船を爆ぜさせることになりかねない。
誰もが動けずにいた。
数的優位に立っているのはマルコ達だが、ヴィンセントは全員を視界に収めていたので僅かな動きも見逃さない。銃把を握る手が湿りだし、銃爪に掛った指先は恐ろしいほどに敏感になっていく。撃てば撃たれるが、撃たねば撃たれる。だが、いつまでも睨み合いをしていても拉致があかない、誰もがそう感じていた。瞬きさえ致命的――、彫像が如く不動の四人を砕いたのは電話のコール音だ。瞬間奔った緊張だったが幸い決闘開始の合図にはならず、目線をヴィンセントに向けたままで、マルコが受話器を上げた。
「取り込み中だ、この……――」
タイミングを読まない連絡に激怒を爆発させるつもりだったマルコ。ところが、彼は喉に詰まらせた暴言で窒息したかのように狼狽し始め、その動揺を吐息に混ぜて吐き出すと同時に――ドアが開いた。




