BAD DAY 6
その雑居ビルは寂れた獣人街の一角にある。
ゼロドームには大きく分けて三つの居住区があり、一つはドームの中心から広がり、人間が多く暮らす人間街。次がこのドームの中では理性的かつ融和的な獣人と人間が暮らす混生街。そして最後がアメリカ・ニューヨークの黒人居住区よろしく発展した獣人街である。
使われていない郵便受けは壊れているのと同義であり、役目をきちんと果たせているのは僅かだ。蛍光灯が点滅する狭い階段の上、二階のインターホンをヴィンセントは鳴らす。
艶やかな女性の声に招かれドアを開ければ、外観からは想像しがたい、一流企業のオフィスさながらの事務所がある。ゼロ・ドームで情報屋を営む獣人、ルイーズの事務所だ。
ヴィンセントは事務所の主であるルイーズに声を掛けようとしたが、彼女は電話中のようだったので手を上げるだけに留めて、応接用のソファに持っていた袋を置き、図々しく腰を下ろす。おそらく仕事の電話だろう、長くかかるかもしれない。彼は待つ間に一服つけようと思ったがここの禁煙だ、手癖で胸ポケットから取り出しかけた煙草をしまい、デスクに腰掛けているルイーズを見遣った。
ショートボブの金髪と黄金の瞳。彼女は月華の如き微笑を浮かべながら、しなやかにペンを走らせていた。どれほど陽が高かくとも彼女の周りには妖花の気配が漂っていて、色香だけで男を捲く。その指先は……いや彼女の全身は艶深き濃紺の毛並みに覆われている。
情報屋、ルイーズ・ロンサール。彼女は獣人だ。
すらりと美しい肢体と整った顔立ちは、ファッション雑誌の表紙を飾っていても不思議はないが、タイトなスカートスーツを着こなす彼女は正真正銘の情報屋である。堅苦しい印象のスーツすら色気に巻き込み、武器の一つとしているのだ。彼女に迫られれば大抵の男は鼻の下を伸ばしながら情報を謳い出す。
「ヴィンス」
「お、おう。どうした?」
呼ばれて少し驚いた。本人を目の前にして不埒な考えを巡らすのはよろしくない。
「ぼーっとしてどうしたの? 依頼も、賞金首の情報も今のところ入ってきていないわよ」
頬を片手に預けるルイーズは、諭すような優しい笑みを浮かべながら、鼻先をひくつかせた。流石に鋭い。どうやら硝煙の残り香がまだするらしい、嗅ぎ付けるのは獣人故か。
「シャネルの五番も真っ青ないい匂いだろ、お求めはお近くの銃砲店でどうぞ」
「その香水は貴方の相棒に勧めなさいな、彼女なら喜ぶわよ。雑談しに来たのではないでしょうヴィンス、用件を聞かせてもらえるかしらァ」
「あ~、ちょっと面倒なことになっちまってさ。手ぇ貸してほしい」
コーヒーを煎れたルイーズが向かいに座り、応接用のテーブルに二人分のカップを置いた。
「あなたの辞書には学習という単語は載っていないみたいねェ」
「ちゃんとあるぜ、何度も繰り返すことだろ」
「失敗を積み重ねてどうするのよ」
「その先に成長があるんだって」
「道のりは長そう――、それで? 今度は誰の火遊びに手を出したのかしらァ」
察しがいいのも流石である。というよりルイーズは慣れてしまっただけかもしれない、ヴィンセントのお人好しと、その被害に。
実は――、とヴィンセントは口を開きかけたが、不意に鳴り出した電話のコール音に続きの言葉を飲み込んだ。タイミングが悪いが仕方がない。申し訳なさそうに席を立つルイーズに気にするなと彼は頷く。またデスクの彼女を眺める作業が始まるわけだが、話は出来ずともその間にこなせる作業はある。ヴィンセントは持ってきた袋をがさがさと開いた、その手もすぐに止まることになったが。
「ヴィンス、あなたによ」
「はぁ?」素っ頓狂な声を出してヴィンセントは顔を上げた。「なんで俺に? ここお前の事務所だろ」
言いながらも促され、デスクに近づきディスプレイを覗き込めば、通話相手の顔が写っている。通話相手はカーター警部だった、眉間に深く寄せられた皺、不機嫌そうだ。
『珍しいところにいるな、オドネル』
「そうですか? 週五で通ってますよ、コーヒー飲みにね。美人もいますから」
からかうように言うと横にいるルイーズに鼻で笑われた。
『丁度、貴様を探していたんだ。訊きたいことがあってな』
「捜査に進展でもあったんですか?」
『いやその件とは別だ。なにシンプルな質問さ、一時間前どこでなにをしていた』
ディスプレイには熟練刑事の洞察眼。
「あー、飯喰ってました。その辺をぶらつきながら。ほら缶詰だったでしょ」
『ふん、なるほどな……、つまり大人しくしていたわけだ』
隠しようがなさそうだ。というかある種の確信を持っているからこそ、連絡の取りやすいルイーズに電話を掛けてきたのではないのだろうか。
『どこかの馬鹿がなぁ、オドネル。街中の公園で昼下がりの決闘をやらかしやがったんだよ、獣人の子供が巻き込まれたとかなんとか大層な騒ぎになってな、おかげで俺は食べかけのドーナツをデスクに置いてくることになっちまった。迷惑な話だと思わないか』
映像通話用のカメラの視角外でルイーズが小さく頭を振る。説明の手間は省けたようだ。
『暴行を受けたのは二人の人間だった、こいつら自身はどこにでもいるチンピラだが問題は上でな、……モレッティ・ファミリー、聞いたことは?』
「首領レオーネがトップに座る、シチリア・マフィアの下部組織。地球時代からの伝統を引き継いだ、由緒正しき犯罪組織だ。その馬鹿な奴は、気の毒なことになるでしょうね」
カメラがなければヴィンセントは深い溜息をついたろう。よりにもよって、地球から離れた金星でも幅を利かせている、犯罪組織に喧嘩をふっかけたのだから。向こうから仕掛けてきたと言っても聞きはしない。カーター刑事の警告に対する回答は一つだけだ。
「あぁそうだ警部、話ついでにもう一つ。路地裏でのダンスの相手きっと獣人ですよ」
『情報提供はありがたいが根拠はなんだ?』
「逃げられた」
『過剰な自信だ、それは根拠とは言わん』
「おそらくは軍人か……すくなくともなんらかの戦闘訓練を受けてるはずです、間違いなく素人じゃない、警部こそ気を付けて」
『はっきりと言い切るな』
「直接やりあえば分かりますよ、人間と獣人とじゃ感じるプレッシャーが違う、でしょ?」
荒事に巻き込まれることが日常に近いヴィンセントにしてみれば、分の悪い勝負は避けるのが普通で、つまりなるだけ獣人とはやり合わないように気を払っている。身体能力において、獣の血が混ざっている獣人相手では人間の力など遠く及ばず、どんな形であれ死合となれば獣人の方が圧倒的に強い。判断ミスが死に直結する賞金稼ぎという仕事によって培われた間は信ずるに値する、相手の力量を測れれば命を無駄にすることもない。
カーター警部も長年現場に立っている男だ、似たような感覚はあるだろう。唸る彼にヴィンセントは続ける。
「まぁ他にも根拠はあります。被害者と犯人が話してるのを聞いたんですけど、顔見知りみたいでした。昨日今日って間柄じゃなさそうだった」
「獣人が獣人を殺すかしらネェ、それも古い付き合いの仲間を」
『野生動物は共食いしないものだがな』
迂闊な一言にルイーズの目が鋭さを持った。彼女は肉食獣の獣人だ。ネコ科の可愛さを備えているとはいえ、生まれ持った野性が間近で露わになればヴィンセントも緊張する。カメラの視角外でカーター警部には見えていなかったろうが、画面越しでも気まずい空気は伝わったらしい。
『すまんなルイーズ、今のは失言だった。立場や状況で仲間の定義など簡単に変わる』
反論はしなかったが納得しかねる様子でルイーズは目を逸らした。人間と同じと言われたのが我慢出来なかったのか、動物と並べられた事に腹を立てたのか。
「仲間とは限らないぜ、ルイーズ」
『俺たちにも当てはまる……どこもそんなものだろう』
ヴィンセントは嗤い、頬を掻く。カーター刑事との情報交換は終わったと考えてよさそうだった。しかし自分に来た電話とはいえ勝手に切るわけにもいかず、ルイーズに返そうとしたが、画面の向こうで部下に呼ばれたカーター刑事が忙しそうに通話を切ってしまった。オフラインになった画面に肩を竦ませると、ヴィンセントはソファに戻り、ほったらかしだったコーヒーを流し込んで、温い苦みに口ぶるを鳴らす。




