samurai 1 ★
静かだった、少なくとも室内で音を立てる者はいなかったし、音を立てる物もなかった。聞こえてくる声と言えば、どこか別の部屋で言い争っている中国語の応酬くらいで、時計は壊されているし、窓も塞がれているから今何時かも判らない。閉じ込められてからどれだけの時間が過ぎたかも、エリサには知る由がなかった。数分か、数時間か、或いは一日が過ぎているかも知れなかったが、閉鎖空間と極度の緊張によって狂った時間感覚では予想を立てるのすら難しい。砂時計を眺めていたら、きっと永遠の時を呪ってしまうだろう。
子供ならば怯え震える、いや大人でも大半の人間は恐怖に支配され指先一つ動かせなくなるのが普通だ。人間を解体して、臓器を売りさばく、裏組織に捕まっているのだから。実際にエリサと共に捕まっている中で、その事実を知っているのは便利屋に身を置く彼女だけであるが、皆暗黙の内に、閉ざされた未来を理解していたのは確かだ。
生きては帰れない。
攫われ、閉じ込められた時点で彼女たちは人間から、内臓を納めている肉袋に変わっていた。そして、その未来を理解していても、竦んでしまった足は言う事を聞かず、散弾銃の銃口で小突かれてようやく、彼女たちは新鮮な空気を吸う事が出来た。
とはいえ歩いたのは精々百歩くらいで、建物の外まで連れ出された彼女たちを待っていたのは、太陽をなくした暗い森と、空のコンテナ車の重く冷たい扉だった。
獣人女性に「はやくのれ」と中国人が怒鳴る。
肉体的には人間に比べて獣人の方が力が強いのは明らかだ、しかし、いくら力が強くても銃を持っている相手には意味が無く、仮に相手が素手であったとしても、誰もがレオナのように容赦なく他人を殴れるわけではない。心が折れてしまっていては反撃しようという意思ごと失せてしまうのだ。数人に見張られながら屠殺場行きコンテナに乗り込む段になっても、絶望の淵で起こりえない奇跡を願うばかり、ただ待つ者に奇跡など訪れないというのに――。
「コイ、オマエモ!」
その時だった。明らかに赤龍の仲間には見えない白人が、地面に突き伏せられたのは――
「君たちもか⁈ 君たちも私に仕事をさせる気か⁈」
「ダマレ、ノレ、イシャ!」
「あんた達マフィアはどうかしてる⁉ 私は医者で肉屋じゃないんだぞ! 薬をすこし横流ししただけで凶悪犯でもないんだ、よくもあんな非道な真似が出来るな、このイカレ野郎め! 人間の内臓を売るだなんて、お前達みんなどうかしてるぞッ!」
そう抵抗した医者はもう一度銃床で殴られた。彼の額が割れて血が流れると、別の見張りが止めに入る。勿論中国語でだ。
〈時間が無いんだ、早くしろ! 市内の拠点がいくつも襲われてる、ここが見つかる前に荷物を運び出すんだ!〉
〈アメリカ人なんか連れて行く意味があるのか? 医者なら何人もいるだろ〉
〈荷物があっても医者が足りなきゃ臓器を取り出せないだろうが、間抜け! なんのためにアホの侍を使って攫わせたと思っていやがる⁈ ぐずぐずしてると俺たちまで中身を抜かれる羽目になるぞ!〉
〈心配しすぎだ弟弟。金星で仕事を初めてからこっち、どこのマフィアにも知られちゃあいねえだろ? 腰抜けのイタリア人と鳥の巣頭のメキシコ人共に何が出来るってんだ、襲撃の話しにしたって返り討ちにしてるさ、中華街は俺たちの縄張り(シマ)だ、あそこで戦争するなら勝つのは俺たちだろ、わざわざ宇宙船までつかって荷物を逃がす必要が――〉
彼らは議論に熱くなっていて、他の見張り達の視線は外を向いていた。
と、なれば逃げ出すチャンスだが、そう思ったのはエリサだけではなかったらしく、そろりと立ち上がった医者が森に向かって駆けだした。必死に、一目散に――。
しかし残念なことに、彼の足では遅すぎた。
背後からズドン、十二ゲージの散弾銃を撃ち込まれれば倒れる前にあの世行きである。
背中が血塗れになって倒れる医者、女達の悲鳴、混乱を抑えようとする中国人達、その全てが合致した瞬間に、エリサは別方向へと低く素早く駆けだして木々の間に飛び込むと、あらゆる感覚を、前方と走る事に注ぎ込んで、ひたすらに逃げた。
怒声と銃声には耳を貸さず、かすめる散弾に竦む心を奮い立てながら、小石を蹴って、草木に構わず必死に走る。
〈ガキが逃げたぞ、ふざけやがって!〉
二発、三発、エリサに向かって放たれる散弾の雨あられ。しかし幸いなことに鉛の雨はすぐにやんだ。彼らには逃げたエリサを追いかける程の余裕がなかったのである。
〈もういい、ほっとけ! どうせ便利屋に思い知らせるために攫ったガキだ、予定の商品には含まれてねえ。それよりも残りを積んで港に急ぐんだ、いつ賞金稼ぎ共が嗅ぎ付けてくるかわからねえぞ!〉
〈チッ、くそがきめ……!〉
そして赤龍達は、残った荷をコンテナに詰め込むと急ぎ隠れ家を後にする。
森へと逃れたエリサに追っ手はかかっていないが、そんな事は彼女知るところではなかった。安全な場所に着くまでは走り続けると、必死に木々の隙間を駆けていた。絶対にヴィンセント達が助けに来てくれると、信じながら――。
しかし、ドームの中であっても鬱蒼とした森の中で明かりとなる物は、天蓋から降り注ぐ、頼りない人工の月明かりだけ。獣の目があるエリサには、それでも人間より十分な視界があったのだが、心細さが視界を狭めていた。そうじゃなければ、開けた場所に出る前に、そこにセダンが停まっている事に気がついたはずだ。
「あっ……!」
思わずエリサの口から声が漏れたが、それは相手も同様だった。洒落たスーツを着た男性が、きょとんとした眼でエリサを見て、上着の下に手を伸ばした。
――撃たれる!
そう感じ取ったエリサはすぐさま踵を返して森へと逃げようとした、だが――
「待て待て嬢ちゃん! 俺は怪しいモンじゃない、あんたを探してたんだ!」
「……え?」
「誘拐されたっていう便利屋ンとこの獣人だな? エリサ……だろ? 首領から聞いてる。俺はツいてるな、赤龍共のアジトとあんたを探してたんだ、街まで送っていく、車に乗ってくれ」
……と、爽やかに誘われたところで簡単に乗るほど、エリサは愚かではなかった。いつでも逃げ出す姿勢を保ったままで彼女は問う。
「近づかないでなの! しょーこはあるの?」
「オーライオーライ、落ち着けよ。これから首領に報告するから直接話してみるといい」
「電話、投げてなの」
「……用心深いガキだな、わかったよ」
二言三言の会話の後、放られたケータイを受け取ったエリサは、だが未だ男に警戒しながら電話にでる。
「もしもしなの」
『また声を聞く機会があるとはな、娘。儂の事を覚えておるかな?』
「……うん、なの」
エリサにとっては複雑な記憶だ。
唯一の家族であった父を失い、そしてヴィンセント達と出会った一年前の事件。その当事者の一人が、電話越しの男サルバトーレ・レオーネである。邪悪な男の底意地優しい表情を、エリサは鮮明に覚えていた。
『お前さんが警戒するのも理解できるが、そこにいるのは儂の部下だ、信用していい』
「おじさんが探してくれてたの?」
『うむ、便利屋に頼まれてな。かなり心配しておったぞ、なにしろ儂に話を持ってくるくらいだからのう。儂からも伝えておくが後で安心させてやれ。まずは彼らの車に乗って街まで戻ってくるといい。話はそれから、そこは些か危険だ』
「…………うん、わかったの」
『良い子だ。じゃあ、最初の男に替わってくれるか』
エリサはケータイを返した、今度は手渡しで。
通話を替わった男は、「了解」の類語と「首領」の言葉だけをしばらく繰り返してから通話を終えると、車のドアを開けた。
「とりあえず事務所まで連れてくぞ、あんたの仲間が迎えに来れるってよ、やれやれ……」
「あのねお兄さん、助けに来てくれたのにうたがってごめんなさいなの」
後部座席に収まると、エリサは非礼を詫びる。男が苛立っているのは、自分の所為だと感じたからだが、その考えは半分正解で半分誤りだった。
彼はただ納得しきっていなかったのだ、人間至上主義を旨とするサルバトーレファミリーの首領が、獣人の子供一匹のために組員を動かしていることに。だがまぁ、迂闊にそんな疑問を口に出来るはずもなく黙っていると、彼はエリサから二つ頼み事された。
まず一つ目は――
「もう一回、お電話をかしてほしいの」だった。
彼は何気なくその頼みを聞き入れたが、その時のエリサの眼差しにどれだけの使命感が宿っていたのか、気がついておくべきだった。




