Edge of Seventeen 11
じきに日が変わる、そんな頃合い。
この数日間は彼女にとって大きな意味を持っていた。嬉しかったし、辛かった。それでも喜びの方が強かったと思う。いいものだ、挨拶を交わせるというのは。ほんの一言だけ、それだけでも救われる。
しかし、だからこそ気の休まらない数日だった。誰かが家にいるなんて初めてのことだったし、それが人間の男となると尚更だった。
窓を鳴らす雨粒は激しさを増す。
喜び、焦り、期待、不安。感情は緩やかにだが積もりゆき、ルイーズの精神を圧迫していた。もう何度目か分からない。いくら頭を振ってそれらを追い払っても、気が付けば考えてしまっていて、彼女はすっかり冷めたコーヒーを啜り、苦みで感情を押し殺す。
残ったデータは一つだけ、クリックしてカップを置いた。
死体のアップが映し出された瞬間、デスクに置いていたケータイが鳴った。夜遅くだ、こんな時間に電話を鳴らす相手は限られる。バイブレーション事にズレる画面を緊張の面持ちで見つめ、ルイーズは小さく息を吞む。
〈着信中:ヴィンセント・オドネル〉
出るべきか、どうしよう。指先が定まらないのは振動の所為だろうか、心臓の代わりにケータイが脈打っているのかも知れない。
「……もしもし?」
『よかった、出てくれねぇんじゃねえかと』
「何の用かしら、話すことはないわよ」
剽げたヴィンセントに、つっけんどんにルイーズは答えてしまう。
『あぁ……、やっぱ怒ってるよな。さっきの今で電話だし、都合のいい話だと思う』
「ええ、そうね。全く以て」
聞きたい言葉がなんなのか、ルイーズにさえ思いつかない。どう言って欲しいのか。
「無礼はひとまず忘れてあげる、それで――用件は? それとも続きを始める気かしら」
『情けない話なんだがよ、ルイーズ。実はちょっと困った事になってて助けがいる』
予想外の一言にルイーズは戸惑った。剽げてこそいるがヴィンセントの言葉からは確かな緊張を感じ、電話の向こうで何が起きていると悟らせた。
ヴィンセントは適当さの中にも義理を持つ男だ。そんな彼が、喧嘩別れした相手に――謝罪の一つも無く――全てを棚上げにして助力を求めるなんて、非常に切迫した事態にあるのは確実だった。
「何が起きているの? 状況を教えて頂戴」
『賞金首に会ったって話、覚えてるか? ビルから教会撃った虎女の話だ……。実は今、あいつに狙撃されてんだ、ははは』
「なんですってッ⁉ 笑い事じゃないでしょう、貴方撃たれたのッ?」
『俺がそう簡単に弾なんか喰らうかよ、コケて膝擦り剥いただけだ。今中央公園にいるんだが、釘付けにされてて動けねぇ、何とかならないか』
「なんとかって――、大体、どうして私に頼るのよ」
『緊急番号でもプッシュしろってか、今まで散々隠してきてるんだぜ? この事件に関しちゃ一番信用出来ない、握りつぶされるのがオチだ。それに――』
ヴィンセントは僅かに笑ったようで、彼の楽しげな口元が容易に想像出来た。
『――それに金にならない、だろ?』
収まりかけていた怒りがルイーズの中で再び首をもたげる。他の誰かが言ったならまだ許せたが、ヴィンセントがそれを口にするのが許せなかった。彼は、過去を悔やんでいるからこそ口にしなかったのではないのか。金の為に飛び、そして金の為に命を奪い続けた過去を。そう信じていた、だから彼は拒絶するのだと――だのに。
「貴方ね――ッ」と、怒鳴りかけたルイーズを、ヴィンセントはだが静かに制する。声は冷淡であり、皮肉めいていた。
『折角集めた情報だ、同じ収めるにしても儲けが出なきゃ嘘ってもんだろ。マッポに先越されてたまるか。頼むぜ情報屋、金星一の手腕を見せてくれや』
ここで事件を止められるのならヴィンセントの望むところだろうし、なにより彼は信じているらしかった。彼の信頼が何処へ向けられたものなのか、ルイーズには断言できない。しかし明言は出来なくとも信じる価値があるものなのだと、ルイーズにも思えた。とはいえ同時に彼女は怖れてもいた。
浅くも深くもない微妙な関係は砂上の城。恐いのだ、砂に戻るのが。
「詳細を」
ヴィンセントが安堵の息を漏らす、礼を言われたような気がした。
『いま自転車の貸し出し所だ。公園の南側から狙われてる。南出口の正面に高いビルが三つあるだろ、狙撃手はそのどれかにいる』
ルイーズは中央公園周辺の地図をディスプレイに表示した。
「ちょっと待って。……確認したわ」
『出来るだけ早く頼む。イカレポンチの殺人鬼に殺られるなんて御免だからな』
そうはさせない。素早くキーボードを叩き賞金稼ぎのリストを呼び出した。
「大人しく待っていなさい。油断はしないようにね」
『まぁ最悪、給料はダンに渡しといてくれ』
笑い飛ばすヴィンセントだが、電話の向こうを考えると冗談にならず、ぞわり――、冷水を浴びせられたようにルイーズの背中は寒くなる。悪寒が全身を駆け抜け、最悪のイメージが頭をよぎった。
路上に打ち棄てられたヴィンセントの、無惨な死体。喉を裂かれ、腹部から引き摺り出された臓物。どす黒い血溜りに群がる蠅の羽音、鼻腔に取り憑く死臭さえ想像出来てしまった。
「……やめてよ、ヴィンス」
軽口だと分かっていても笑えない。今までに見た死体のイメージが重なり、間近に迫る死を否が応にも感じさせた。無惨な死体となった彼、立ち尽くす自分。
『だからルイーズ、お前に頼ったんだ』
「そうね……でもここからでは、私が助けることは不可能だもの。貴方の背中までは、悔しいけれど守れないわ。十分に気を付けて頂戴」
『ああ、パイロットってのは追いかけるのは好きだが、追いかけられるのは嫌いなんだ』
強くなる雨脚はまるで暴風雨だ。ヴィンセントが鼻を啜る音に緊張感が少しだけ抜ける。
沈黙と沈黙。
雨音のカーテン。
ルイーズは色々と言いかけて、呑込んだ。こう言う時は黙っていた方がいい、また会って話せると信じ、ならば激励を送るのが相応しい。
「幸運を」
『アイアイ、女王様』
ルイーズの思いなど知らぬとばかりに通話は呆気なく終了した。彼女は数度瞬いて、ディスプレイに向かう。と、小さく点滅する手紙のアイコンが目に入った。メールが届いている。




