SO LONG GOODBYE 9
金星のドーム都市は複数あり、それらを結ぶ交通手段も多数存在している。宇宙船で渡る者もいれば、連絡用の道路を使い車で移動する者もいる。とはいえドーム同士が隣接しているわけではないし、そもそも規模が大きいので移動するだけでも相当の時間が掛ってしまう。場所によっては数日がかりだ。そんな悩める人々を結ぶのが、ドーム・リニアである。時速にして六〇〇㎞超の鉄道車両は、金星の地下に掘られた路線で人々を運んでいる。
「うわぁ~きれいなの~」
その個室客席。エリサは窓の外――正確には窓に投影されている風景映像――に感嘆の声を上げていた。後方へと流れ行く雄大な草原に尻尾を振りながら、興奮気味に話すエリサは車内に置いておくには騒がしく、ルイーズがわざわざ個室客席を予約していたのが功を奏していた。
「ヴィンス、だいじょーぶかなぁ……?」
隣の空席を寂しげに見つめてエリサが呟く。つい先程までそこに座っていたヴィンセントは、エリサの毛並みより真っ青な顔色で足早に個室から出て行ったのである。
「どうしたんだろう」
「リニアに酔ったんでしょうね、平気よ」
いつものことだからと、微笑むルイーズ。リニアよりも遙かに負担の掛る戦闘機を操るパイロットが簡単に酔うなんて不思議な話だが、自分が操縦している時との感覚の差を鋭敏に感じ取ってしまうせいで、平衡感覚が狂うらしい。本人が言うからにはそうなのだろう。エリサは首を傾げているが。
「他人が運転する車にも乗りたがらないでしょう。すぐハンドル握りたがるんじゃない?」
「げーげー、してるの?」
もやし並に白くなったあの顔色から察するに、到着まで戻ってこない可能性すらある。
「しばらくは戻ってこないでしょうね」
「……しんぱいなの、ヴィンスのお顔まっしろだったもん」
「ふふ。でも、そっとしておいてあげなさい。いつでもどこでも付いてまわることが優しさになるとは限らないから。彼も見られたくはないでしょうし、落ち着いたら帰ってくるわよ」
「うん……」
膝を抱えるエリサの寂しいこと。彼女がその小さな胸に秘めた純心と慈愛は、本当に届いているのだろうか。思うだけでは伝わらず、伝わらなければ全ては無為。どれだけ崇高な思想を持っていようが、心の内に秘めているだけでは世界も人も変えられない。両の掌を合わせるだけで幸せになれるならば、どれだけの人が救われるだろうか。
「どうかした? エリサちゃん」
見つめられていることにふと気付き、ルイーズが訊く。上目遣いの碧眼が躊躇いがちに向けられている。
「ルイーズさんってヴィンスのこと好きなの?」
「え……? ええ、そうネェ」
尻尾の先が膨らむ程度にすこし、ドキリとした。
ゼロドームの騒がせた連続殺人事件からこっち、気持ちのすれ違いからギクシャクすることもあった。何かが変わったような気もするが、日々を送っていれば自然なことだし、なにより好意を抱いていることは以前のままだ。
「どうしてかしら? ぐぅーたらで、だらしがなくて、変なところが意地っ張りなのに嫌いになれないのよね、ヴィンスのことは。格好つけてはいるけれど、どこか子供っぽいでしょ、彼って」
そう語りながら、ルイーズは柔和な笑みを浮かべる。その笑顔は彼女が今まで見せてきたどんな妖艶な微笑みよりも魅力的で、呼吸を忘れる程に美しく、子供すらも魅了してしまう。
「いいなぁ、ルイーズってとってもキレイで、色んなことも知ってて」
エリサはそれからぼそり、ヴィンスともラブラブで、と唇尖らせ呟いた。
「ありがとう。けれどねエリサ、貴女だって私が持っていない物を沢山持っているのよ?」
「エリサ、なんにも持ってないよ。ルイーズみたいに頭もよくないし、レオナみたいに強くないもん。ヴィンスもダンも、みんなすごいのにエリサ、なんにもできないの」
「あらあら、あれもこれもと欲張りさんなのね」
「ごめんなさいなの」
「いいのよ。ただ覚えておいて? 貴女の真っ直ぐな心根と、分け隔てのない優しさは得がたいものだと言うことを。どれだけねだっても私の手には届かないもの、貴女にしか持てない宝石なの。それにね、エリサちゃん。貴女もとても可愛いわよ? 貴女はまだ子供なのだから、慌てる必要なんて何処にもないわ」
便利屋も情報屋も所詮は汚れ仕事の片棒担ぎ、羨望の眼差しを向けられるような誇れる仕事であるだろうか。そう、幼い時分の憧れは時を経れば平凡なものだと思い知る。或いは忌避すべき事だと気付けるはずだ。それにエリサの将来は、彼等の誰よりも輝くかもしれないのだ。進むべき道の先に自らを置かせまいとしたヴィンセントの気持ちは、ルイーズにだって理解は出来る。
それでもだ。やはり心苦しい。彼女を引き離すのは。
「出来るようにならなきゃいけないの、エリサは……」
視線を床に落として、エリサが言った。
「だから焦らなくったって」
「大人になってからじゃだめなの、すぐじゃないと」
「それは何故?」
ルイーズ、と尋ねる声は、助けを求める叫びのようだ。
「エリサきらわれちゃったのかな、ヴィンスに……」
「彼も貴女のことを想っているわ、きっと」
「聞いちゃったの。二人が、お話ししてるの……。エリサ、きらわれちゃったのかな?」
その単語を口にするのがどれだけ恐ろしいか計り知れない。すれ違い、軋む心の苦しさは今にも捻じ切れんばかりだろう。他人事だと済ますにはあまりにも苦く、想像するだけで寒気がする。
しかし、手を差し伸べることは許されない。ヴィンセントとの契約のうちにある以上、してやれることの精一杯をやっている。
「そんなことはないわ」なんて薄情な言葉しか話せないのが口惜しい。
「彼等の仕事がどういう類いのものなのか、貴女にももう分かっているでしょう? 誰にも認められる事でもなく、ましてや正義などとは遠い裁かれるべきアウトサイダー。辛いことも沢山ある。……それでも船に残りたい?」
「みんなといたい」
にべもなくエリサは頷いた。
月華の瞳が映すのは、空色の眩しい少女の決意。ああその白き細腕で舵を取ることが出来るのだろうか。まるで夢想か夢物語。だがしかし、行く先を見据えしっかと舵を掴んだその姿に、ルイーズは恥ずかしながら嫉妬を禁じ得ない。




