Do me a favor 17
眠れないとはいえ、である。
十日間ろくに休めず神経を張り詰めっぱなしだったのだ、流石の不眠症も根負けしたらしく、自室に戻るなりベッドに身を投げたヴィンセントは呼吸一つの間に眠りに落ちていた。
小汚い部屋の乱れたベッドに死人のように横たわる彼の姿は、ブリットポップのアルバムジャケットに似合いの無様さで、シーツに出来た染みの一つであるかのようだった。
不規則な寝息に穏やかとは程遠い寝顔だが、一応眠れているのは確か。だが、注意しても聞こえやしない、ほんの僅かな物音に反応して、彼は不意に瞼を開けた。
廊下から感じる足音がただの足音ならば、むしろ気にしなかったろう。ヴィンセントが反応したのはその足音が気配を殺していたからだ。
のそり、頭を上げて問いかける、気配を殺していても、そこに敵意は感じられない。
「…………なんか用か?」
「きゃっ……!」
返事の代わりに小さな悲鳴、おかげで誰が廊下にいるのかが分かった。あの透き通った幼い声はエリサである。暫く待っていると、消え入りそうな声で彼女は尋ねてきた。
「ねえヴィンス、入ってもいい?」
「ああ、少しならな――」
時計をちらり、午前二時。
夢の間に落ちてから一時間と経っていない。
扉を開けてやると、枕を抱えたエリサが寝間着姿で立っていた。
「……どうした、寝てたんだろ?」
ジャングルの中に建てた小屋の方がまだ綺麗かもしれない。客を招ける部屋ではないが一応エリサを招き入れてやると、彼女は遠慮がちにベッドに腰掛ける。真白い毛並みの所為か、余計に照明が眩しく思え、ヴィンセントは目を細めていた。
「夜更かしなんてまだ早い、もすこし年取りゃいくらでもするようになる」
「ヴィンスにね、言いたいことがあって待ってたの。そしたら寝ちゃってた」
恥ずかしそうにエリサははにかむ。眠たそうな碧眼がくしゃりと歪み、ヴィンセントはその横に腰を下ろした。
「わざわざ待ってたのか? 明日で良いのに」
「だってね、早く言いたかったの。本当はね、ヴィンスは昨日かえってくるはずだったでしょ? だからエリサ心配になっちゃって……。ダンもレオナも平気だって言ってくれるんだけど、やっぱり心配でね、それでね……」
「帰りに少し寄り道しただけだ、何も問題ねえよ。それにこうして帰ってきたんだ、心配事は終いにして、ベッドに戻れ。言いたいことは済んだろ?」
「ううん、まだなの」
エリサが頭を振ると脱力した狐耳がパタパタと音を立てる。それから彼女は、疲れ切ったヴィンセントを見つめると、もう一度優しい笑みを湛えた。
「おかえりなさいなの、ヴィンス」
こういう時、何と答えるべきなのだろうか。
ただの二言、ただの挨拶に過ぎないというのに、エリサが口にするだけで、言の葉には魔力が込められているように思えてしまう。そいつは他者を傷つけ犯すような、棘を持った魔力ではなく、抱きしめ愛し慈しむ、慈愛に満ちた魔力である。対極に立っているほどに縁遠く、馴染みの浅い言の葉に、返す言葉をヴィンセントは持っておらず「ああ……」と返すのが関の山だった。
「ケガもしてないよね?」
「ああ、見ての通りだ。ただ、疲れちまってるから休ませてくれると助かるな。……どうしたエリサ、もじもじして?」
狐耳をぺたりと寝かせ、その癖は尻尾は主張が激しい。エリサは自分の枕を抱きしめながら、しきりに身を揺すっていた。そして彼女は上目遣いで伺いを立てる。
「あのねヴィンス、いっこお願いがあるの……、聞いてくれる?」
「…………叶うかは別として、言ってみ」
拒否の言葉を用意しながらヴィンセントは答えていた。今のエリサが何を望んでいるかは、明日の朝食を当てるよりも簡単だ。
「エリサね、ヴィンスといっしょに寝――」
「だめだ、自分のベッドに戻れ」
そう言うが早く、ヴィンセントはごろりとベッドに転がって目を閉じる。駄々っ子よろしくエリサがじたばたしているが、彼は身動ぎさえしない不動の構えである。
「え~、どうしてなの⁉」
「こんな狭いとこで並んで寝たら暑いだろうが。それに、俺は一人で寝てる方が落ち着くんだ、俺のことを思うなら、どうか一人で休ませてくれ」
彼の言葉ににべはない。
論調こそ柔らかいが、とどのつまり込められているのは「ここから失せろ」の意味だけで、エリサの尻尾はしょげて萎びた。
「うん、なの……。じゃあ、エリサ戻るね……」
目を瞑っていても、気落ちしたエリサの足音だけで彼女の表情が見えるよう。その様に、ヴィンセントは思わず声を掛けてしまう。
「エリサ、お前の優しさは、お前の心根を受け止めるのに相応しい奴に残しとけ。いつか必ず、そういう相手が現れる。けど少なくともそれは今じゃねえ、そして俺達じゃねえ」
「……そんなことないの。だってね? みんないい人だってエリサ知ってるもん。それにね、エリサ、ヴィンスのこと好きなの」
ヴィンセントは細く目を開ける。
便利屋などマトモな生き方に馴染めなかった所詮は世の厄介者。その厄介者を前にして、どうしてそこまで澄んだ瞳を向けられるのか。エリサのどこまでも深い優しさは、影の道を歩くヴィンセントにとって寒気がするくらいだが、彼は同時にこうも思うのだ。
「お前を見てると、世の中まだまだ捨てたモンじゃねえって思えてくるな」
「――?」
「独り言だ。……早く寝ろ、朝起きれなくなるぞ」
「うん」
そしてエリサは静かに廊下に出ていって、扉を閉める前にもう一度だけ振り返る。
「おやすみなの、ヴィンス」
「ああ、お前もな」
エリサの肉球がぺたぺたと音を立てて離れていく。後ろ髪を引かれるようにゆったりとした足並みで、やがて扉が閉ざされた。
瞼を透過していた明かりが失せ、機関室の発動機から発せられる動作音だけが鈍く鈍くヴィンセントの耳を塞ぐ。彼にとっては最早子守歌に等しく、逆に静かすぎると寝付けないくらいだ。
寝直す前に一服しようと起き上がったヴィンセントは、机の灰皿に突っ込まれているシケモクを摘まみ上げて火をつけた。麻痺した脳細胞にはマズい煙草も気にならない。
ヴィンセントと寝たいとは、子供っぽいのか、或いはませているのか。エリサの事だからおそらく前者だろうが、彼女には男を見る目がないとも思う。エリサが求めているのは父親の幻影で、獣人であり娘の為に命を賭した父親の代理だ。
人間で人殺しのヴィンセントとはあらゆる意味で正反対である。まったくもって場違いとしか言いようがない。
煙草を消しヴィンセントはベッドに戻り枕の下に手を突っ込むと、そこに隠していた拳銃を取り出して首を振った。エリサが忍び込んできた時に思わず銃把を握っていたが、家同然の船内でこんなものを枕の下に忍ばせてどうする。
まったく臆病だ。だからこそ生き延びているとはいえである。ベッドに引っ掛けっぱなしのホルスターに拳銃をしまい、ヴィンセントは仰向けに転がった。
頭が回らない。考え事は起きてからにしよう。




