Do me a favor 8
空き缶には吸い殻が山となっている。飲み口からはとっくにはみ出し、器用に積まれた吸い殻は絶妙なバランスで崩壊を耐えていた。まるで恋人にでも寄り添うようにして、ヴィンセントはラスタチカの翼に腰掛け、煙草を吹かし続ける。
シャキン、パチン――
シャキン、パチン――
金属音はジッポの音色
手慰みも必要になる。
退屈極まる行為だ、同じシーンを繰り返し眺め続けるというのは。
大体、映画一本分の時間は過ぎたろうか。プロのマラソン選手ならとっくにゴールしている頃合いだが、生憎と二人のゴールは時間であって距離では無い。しかも訓練という名目上、感動も一切生まれないときている。
黙々と、そして粛々と走るだけ――。そしてその様を眺めることの何と退屈なことか。
走り続ける二人からはとっくに元気など無くなっていて、最初こそ言葉を交わしていた兄弟も、今ではすっかり大人しくなり、かろうじて足を前に出している状態だった。
心配するであろうオリガは操船の為この場におらず、末弟のテディだけが格納庫に残っている。
勿論、時折向けられるテディの視線にヴィンセントは気付いてはいた。しかし、彼は一切取り合わず、まんじりともしないままで紫煙を吐き上げるだけだった。それどころか、二人が走り始めてから、彼は一言たりとも発していないのである。
黙々と走る様を、黙々と眺めるだけ。
何度も繰り返される光景は、やはり退屈だ。だが、その永久ループの映像に、些細な変化が訪れる。――兄弟の足が遂に止まった。
ヴィンセントは首を伸ばして様子を見た。どうやらテッドの方が音を上げたらしいが、しかしやはり、彼は何も言わずに眺めるだけだった。
息を切らせた二人の声が和ずにか届いてきても、ヴィンセントが行った事といえば、新しい煙草に火を灯すくらいだ。
「ぜぇぜぇ…………に、兄さん…………、もう無理だよ……」
なんとか言葉を絞り出して、テッドはそのまま倒れてしまう。
二人とも尋常じゃ無い汗の量だ。イヌ科の獣人らしく、舌を出して体温を下げようとしているが焼け石に水と言っていいくらいの効果しか無い。
「はぁ……はあ……。まだイケるだろ、テッド……、ほら頑張れ、立つんだ……。便利屋野郎が見てる、馬鹿に、されていいのか……?」
「でも、足が…………」
痙攣している、立ち上がるのは無理そうだった。
「くっ……! 掴まれ、肩貸してやる……」
「僕のことは、気に、しないで……。先に行ってよ、兄さん。だいじょうぶ、追いつくから」
「そうはいくかよ……!」
無理やり腕を掴んで起き上がらせようとするテドだったが、そこまでが限界だった。いくら力を込めても弟の身体は僅かも持ち上がらず、悔しさばかりが募る。
――と、背後に近づく足音にテドは振り返った。
ヴィンセントである。
「な、なんだよ、便利屋……」
「………………」
やはりだんまり。
ヴィンセントは冷めた眼付きで疲労困憊の兄弟を見つめるだけ。テドを、それからテッドの様子を観察し、もう一度テドへと視線を戻す。しかしそれでも、彼は口を開こうとはしなかった。
そのくせ、その場から動こうともせず見張り続けるので、テドが食ってかかる。
「なんとか言ったらどうなんだ⁉ 馬鹿にするなりなんなりよッ……!」
「………………」
「テッドはもう限界だ、見りゃわかるだろ! まだ走らせようってのかッ?」
「………………」
「くそっ! 姐さんの家族か知らねえけど、こんな事して意味あんのかよ⁉ ただ走ってるだけで強くなんかなれる訳がねえ、俺らが気に入らねえならそう言ったらどうだッ!」
牙を剥き出しで吼えられようがヴィンセントは動じず、観察を続けている。
雰囲気は悪くなる一方で、しかも間の悪いことに、オリガが格納庫に様子を見に入ってきてしまった。彼女は大いに驚く、テッドは潰れているし、テドとヴィンセントは喧嘩を始めそうな気配だったから当然だ。
「ちょっとジブンら――」
オリガが止めようとしたのも無理はない。獣人と人間で喧嘩にでもなればケガで済まない可能性があるのだ。しかし、彼女の言葉は立ちはだかった人影に遮られることとなる。
「テディ、なにしとるん? 止めんとアカンやろ、あれは」
ヴィンセント達は互いに一歩も引く気配は無く、こうしている間にも緊張感は高まるばかりだ。だがテディは首を振り、そして三人の方を振り返った。
テドが怒鳴り声を上げている。
「……コノ野郎、シミュレーターで勝ったぐらいで。あんなのまぐれに決まってんだろ、たった一回勝ったくらいで調子に乗るな!」
気勢を上げるテド。
実戦なら負ける筈が無いと彼は言うが、元々は四対一の戦闘だった。それに負けておいて、マグレ? 実戦なら勝てる? そんなテドのちゃんちゃらおかしい自信には、ヴィンセントの表情も遂に崩れる。
滑稽にすぎ、これ以上ないくらいに馬鹿にした笑みを、彼は刻んでいた。
「てめぇッ!」
怒声と共にテドが殴りかかるが、疲れ切った状態のパンチは空を切った。
「兄さん、だめだって、抑えて……」
「うるせえテッド、お前こそ大人しくしてろ! コノ野郎ぶっ飛ばしてやる!」
テドが構え、オリガも動こうとする。
ヴィンセントは両腕を下げたままだが、片方が完全にやる気になってしまっている以上、止めなくてはならない。だが、彼女に立ち塞がる三男坊はまたも首を振っていた。
「いやいや、これ以上はホンマにアカンて、テディかて分かるやろ!」
「…………まだ」
「なんやて?」
珍しく反抗的で、そして珍しく喋ったテディに、彼女は思わず聞き返していた。
「まだ、ってどういう意味や? まだ途中って事かい?」
「そう、だから待つべき……」
「一体、なにする気ぃなんや」
なんて話している間に、殴り合いは始まってしまっていた。オリガが「あぁ!」と悲鳴を上げた時には既に遅しで、テドが猛然と殴りかかっているところだった。
しかし、テドが放った二発目も空を切る。
疲れているとは獣人相手だと圧はそれなりにあり、ヴィンセントは防戦一方だった。彼はのらりくらりと避けてはいるが、それはテドからの攻撃を防御することが出来ないからである。普通のパンチならば両腕を使って防御を固めることも出来るだろう、獣人とはいえテドは小柄だ、拳ならば防ぐ事も出来る。しかし獣の鋭い爪が立っていては、防いだところで肉を裂かれるだけなので、ヴィンセントが取れる防御手段は回避の一択のみだ。
「口ほどにもねえな! 逃げるだけかよ便利屋!」
「フッ……」
「その薄ら笑い、ムカつくんだよ!」
頭に血が上り疲労を忘れたか、テドの攻撃にキレが増し、爪を立てた右フックがヴィンセントの頬を微かに裂いた。
がむしゃらに振り回しているだけの喧嘩スタイルだが、身体能力の高さは間違いなく獣人のそれだ。防げないとはいっても、ノーガードは舐めすぎていたとヴィンセントは気を引き締める。
左半身の斜構え
左拳を緩く握り低めに突きだし
右拳は顎の下
ヴィンセントの構えは拳法やボクシング、著名な格闘技に似ている様でどこか外れた独特の構えだが、それよりもテドの気を引いたのは彼の口元だ。
「余裕なくなったみたいだな、ついでに逃げ場ももうないぞ!」
バックステップで距離を取ったヴィンセントの背後には、コバンザメが駐機していてこれ以上は下がれない。テドは好機と思ったろう、それこそが罠だとも知らずに。
逃げ場の無いヴィンセントに対して、テドは左右のフックで責め立てる。仰け反って躱すことは不可能、無傷で切り抜けるのは難しい。だが、ヴィンセントはやってのけた。
疲労と力みでテドの攻撃は振りが大きかった。となれば、前に突きだした左拳を使ってフックを切って落とすなど容易い。
一つ、二つと、手刀で撃ち落とし
三つ目を潜り外側へと身を躱す
それと同時、左のショートアッパーでテドの顎を小突き上げた
「ぷぁッ! くっそ、利かねえぞそんなパンチ!」
「……舌噛むぞ」
テドは、ヴィンセントの姿を見失っていた。それは僅かな時間だったが、相手の姿を見失うというのは、何度も言うが致命的なのである。空戦でも、殴り合いでも同じように。
ヴィンセントの軽く、早い左がテドの横っ面を叩いた。威力は二の次、距離を測る一発だからだ。そして次いだ狙い澄ましの右ストレートが決着の一撃となる。
コンパクトなフォームで一直線に放たれたヴィンセントの拳は、浮き上がったままのテドの顎を再度殴りつけ、脳味噌を揺さぶる。顎をやられると三半規管が揺らされて平衡感覚がおかしくなる、感覚としては荒波に揉まれる船上に近いかもしれない。つまり、意識はあっても立っていられないのだ。
まだやる気はあるようだが、テドは呆気なく膝を付くことになった。獣の血が入っていても、動物は動物だ。外側が頑丈でも内側は脆いもの。身体の自由さえ奪ってしまえば、あとは煮るなり焼くなり、お好きなようにである。
まな板の上の鯉を、ヴィンセントは見下ろしていた。だが、彼の頭を気持ちのいい打音が叩いて止めた。
「ええ加減にせえッ!」
「いってぇな、オリガ姉」
「なぁ~に考えとるんや! いくらジブンでも、ウチの者苛めるんは許さんで」
しかし、悪びれた素振りもなくヴィンセントは肩を竦めるだけ。なにしろ頼まれたことを遂行しているだけなのだから、口を挟まれる筋は無い。
「あ、姐さん……」
「アンタもやテド! 喧嘩癖直せと何回言わせんねん、まだ痛い目みんと足りんのか⁉」
「す、すんません……」
「スマンから言ってんねん! 今度短気起こしたら、ウチがシバいたるから覚悟しいや!」
のされた時よりも、テドの尻尾はしなびていた。牙を剥けば恐ろしいハイエナの獣人が、まるで子犬の様である。――とまぁ、部外者視点で眺めていたヴィンセントだったが、彼にも雷が落ちた。
「それからジブン! アンタには二人を鍛えてくれと頼んだんやぞ、これが訓練か?」
「せっかちめ、まだイントロだっうのに。――テディ、水を」
ヴィンセントは渡されたボトルを開けると、ぶっ倒れているテッドの顔に水をかけてやる。まだ起き上がれないようだが、テッドの目に力が戻った。鼻先で指を鳴らしてやると焦点が合い始める。
「大丈夫か? ああいい、寝てろ。そのままでも耳は動いてるだろ」
「はい、なんとか……。でも、兄さんを情けないと笑わないで……。足を引っ張ったのは僕なんだから……」
テッドからは悔しさが滲んでいる。彼は力の入らない拳を握りしめ、ヴィンセントをじっと見上げていたが、当のヴィンセントとはきょとんとしながら、また煙草に火を点けていた。
「笑う? 馬鹿な、どこも面白いことなんてねえ。それともふざけてたのか? なら、笑う代わりに蹴りくれてやるが」
「そんなことは……」
「知ってる。これで問題点の洗い出しは終わったな。……なんで、どいつもこいつも阿呆面してる? 無駄に走らせたと思ってるのか」
「「「ちがうのか?」」」
「当たり前だろ」
声を揃えて疑問符が並んだ、まったく心外な話である。
悲劇だと、ヴィンセントは天を仰ぐ。
「無実の罪で証言台に立たされてる気分だ、しかも姉貴に疑われるとはね。信用できないなら、何故俺に任せる?」
「信用しとるよ、勿論やんか。でも理由を聞きたいんや。ウチの者シバクなら、先に理由を教えるんが筋とちゃうんか?」
オリガの言い分は正しかった。反論の余地はないだろう。
「……確かに、オリガ姉の言う通りだ。そこは謝る」
「ええよ、許したる。ほんで?」
「ただし俺も理由を聞きたい。鍛えるのは構わない、引き受けたからな。でもわざわざ仲間を危険に晒す必要もねえ、これまで通り護衛を雇えば良いことに違いはない。事情があるってのは分かるぜ? 問題は誰の事情かだ、せめてそれくらいは教えてくれよ。経費削減で素人を戦わせようってんなら、いくら姉貴の頼みでも飲めねえ」
――理由は言わなくても分かるだろう?
オリガを見下ろすヴィンセントの眼差しは暗く鋭い、いっそ他人と思えてしまうくらいに冷え切っていて、感情を腹のそこにまで押し込んで、銃爪を絞る人間の眼光を向けられ、オリガは言葉を無くしていた。
言い様のない緊張感が場を包み出す。と、テドとテッドが口を挟んだ。
「ちがうんだよオドネルさん、オリガの姐さんは悪くないんだ」
「……あんたならどう思う、便利屋?」
テドが思い詰めた表情でそう言った。
「危ねえって時に椅子に座って見てるしか出来ないなんて最低だろ。仲間の命を、家族の命を他人に預けるなんてできるかよ?」
「土台、無理な相談だな。誰かに預けるくらいなら――」
「――いっそ死んだ方がマシ、そうだろ。俺達だって同じだ。便利屋、それがあんたの知りたがってる理由だよ」
仇なす者を打ち払い、守りたいものの為に飛ぶ
誰に強制されるでもなく、自らの意思と覚悟を以て
時に盾となり、剣となる
テドはまだ足腰立たずにいるが、それでも覚悟の伝わるイイ表情だった。
それでこそ、である。腹はとっくに決まっていて、彼等に足りないのは技術だけだ。教えられない心得を、二人は既に持っていた。あいつの様に(・・・・・・)――
「ふっ……」
「わ、笑いやがったな!」
ヴィンセントは笑っていた。だが嗤ってはいない。
そして彼はすぐに笑みを引っ込めて告げる。
「最初からそう言えば良かったんだ、つまらねえ見栄張らずによ。そしたらもうちょい丁寧に始めてやったのに。安心しろおまえ等、ぼろ雑巾になろうが俺が鍛えてやる。誰にも負けねえように。――オリガ姉」
「ん? なんや?」
「そっちもいい仲間見つけたな」
「なんや? 今頃気付いたんかいや」
あっけらかんとしたオリガに尻を叩かれて、ヴィンセントは苦笑いを浮かべる。彼女が信じたクルーを、もう少し信頼しても良いだろう。
「ほら! さっさと立て、詰め込めるだけ詰込んでやるからな!」
こうして、ルナー号特別ブートがキャンプが始まった。短期集中訓練は辛く厳しい物となるだろうが、これしきと乗り切るくらいでなければ、どのみち遠くへは飛べない。
……そう、すぐに墜とされることになる。
努々忘れる事なかれ、常にこの世は弱肉強食
一度垣根を越えたのならば、背中を忘るることなかれ
ヴィンセントも、そしてオリガ達も知らぬ事だが、ルナー号の遙か後方には彼等を狙う船影が、襲撃の時を待っていた…………。




