32.別れ
【前回のあらすじ】
退院の日、妻はボクとマンションに戻らず、姉夫婦の部屋に厄介になる事になりました。マンションには彼女を一旦実家に戻すべく、田舎から両親がやってきます。ハルの存在、彼女に子供ができたことを伝えると、母親はそっちに関心を移したようでした。
この間の経緯をハルに知らせてなかったことを思い出したボクは、彼女に連絡を入れます。何も知らない彼女の無邪気な応対に、ボクにとって必要なのはハルでしかないことを確認するのでした。
翌朝、義姉が妻をマンションまで送り届けてくれた。彼女は小さく戻りましたと頭を下げたが、父だけが、疲れたろと優しく声をかけた。
一目見ただけでは何も変わっていないように見える。むしろ、きとんと化粧をし、髪の毛を整えたその姿は、やつれているとはいえ、出会った頃の颯爽とした印象を与えなくもなかった。
きっと彼女の心の奥底で何かの決着がついたのだろう。ボクに拘泥したことをかなぐり捨てる決心ができたのだろう。そう見えた。そうであって欲しいという願望に過ぎなかったのかもしれないが。
妻が台所でコーヒーを煎れようとするのを遮り、母がお茶の準備をした。あなたは寝てなさい、という母の言葉に、妻は抗うこともなく、すいませんと寝室に下がった。
実家に戻る準備は義姉が手伝った。結局、ボクは妻のために何もする事がなく、ぼんやり窓際から部屋の中を眺めるだけだった。
妻とふたりきりだとちょうどいい間取りも、大人五人になると急に手狭に感じる。彼女がこの部屋を出ていくという異常な事態を、ボクと両親が黙って待っているというのは考えてみるととても不自然な状況だ。何を話すにしても適切な話題がなく、TVを観るのも不謹慎に思われた。
父はじっとソファーに座って両手を組んではまた開きというようなことを繰り返している。母は結婚式のあの写真を見上げて、真紀さんの顔がちゃんと写ってなかったなどと今さら言い出す。
ボクは重苦しい空気から逃れるようにベランダに出る。
何も変わらない光景が広がっている。小さな私鉄、その向こう側に広がる同じような屋根瓦。この似通った屋根瓦の下で、それぞれ違う幸福と不幸があるのだろうか?
アンナ・カレーニナに曰く、幸福は一様で不幸はそれぞれだとか。でも、本当にそうだろうか? 向こう側から見えるマンションのこの窓の中の出来事と、隣の窓の中で起こっていることに違いなどあるのだろうか?
義姉に呼ばれて寝室に入ると、重い荷物は持たせたくないから、後日、私が来て宅配で送っていいかと了解を求められた。妻は顔を背けたまま、会話にも加わらない。もう、ボクには私物すら触られたくないんだなと思った。
簡単な準備が終わると、搭乗開始には少し早かったが、羽田に向かうことにした。
父にご迷惑をかけますと頭を下げる義姉の姿、無表情な妻、何も言えないボク、早々に助手席に座り込んだ母、申し訳ないと深々と頭を下げる父……それが五人で最後の姿だった。
妻は父と並んで後部座席に座った。
その姿をミラーで追ったが、彼女は一度も座ったことのない後部座席で、ずっと無表情のまま外を見ていた。
おそらく、二度と見ることのないこの街の光景が、今の彼女にはどう見えているのだろう。夜ごと、ボクの帰りを待ち、ずっと眺め続けたはずの線路沿いの光景が、今の彼女にどう映っているのだろう……
(今頃、そんな感傷的なことを考えても誰の何の役にも立たない)
おそらく、そんな言葉のかわりに、彼女は無言を貫いているのだろう。
国立府中ICから高速に乗る。5年前の夏、ボクたちは長い休暇を利用して車でこの地へやってきた。その時使ったICも国立府中だった。あの頃乗っていたスポーティーな車から、今はふたりには大きすぎるセダンに変わっている。この車に買い換える時にも意見が分かれたことを思い出す。
車中では誰もが口を噤んだ。休日以外あまり使うことのない首都高の混雑ぶりにうんざりする。いつもなら下道を走ろうとか、行く先を変えようなどと煩いくらいの彼女がひと言も発しない。誰も何も言わない、ラジオも消した車中はただひたすらエンジン音とタイヤ音がするだけだった。
羽田に着いて搭乗開始を待つ間、父はしきりに日光の話をした。あの時は紅葉の盛りだったし、無理をしてでも行っておけばよかったなどと話す。誰に話しかけているわけでもなく、ぶつぶつと繰り返した。
きっと父は父なりに、可愛がった嫁と息子の関係修復に手を貸せなかった自分を悔やんでいるのだろう。
母は土産物を買い込んでいる。物見遊山とさほど変わらぬ感覚なのだろうか。
いよいよ別れの時が来た。ボクはなんと言葉をかけていいかわからなかったが、彼女を正面から見据え、最後に何か伝えたかった。
「マーちゃん…… 」
彼女は俯いたまま、顔も上げない。
「…… 」
言葉が見つからない。全てボクが悪かったのだ。そのことを伝えようとするのだが、素直に言葉にならない。
見かねた父がもう行こうと妻を促した。彼女は小さく頷いて、父のあとに従った。彼女はボクが好きだったロングスカート姿だった。
手荷物検査のゲートをくぐる時、彼女が一瞬ボクを振り返った。
その顔は、やはりかつて見たことのない無表情な顔のままだった。
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次回はいよいよ終章となります。最終話までぜひお付き合いください。
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