31.退院した日
【前回のあらすじ】
ボクのいるところで睡眠薬を飲んだ妻。一瞬、このまま放置してしまおうかと殺意を抱いてしまいます。
ようやくのことで心の中の黒い霧を払いのけ、彼女を救急搬送するのですが、医師にはすべてを見透かされいるようでした。
部屋に戻ると、出たときのまま、全てが乱雑に散らかっていた。
何も手につかなかった。彼女の濡れた服がそのまま廊下に残されていて、床に水が浸み込んでいたが、それすらそのまま放っておいた。ぼんやり、水の浸み込むさまを眺めた。
(…… ハルに)
一瞬、ハルに連絡しなきゃと思ったが、今日は行けないかもしれないと伝えてあったから、しばらく連絡を入れなくてもいいことに気づいた。
(いや、知らせない方がいい)
そう思った。
気づくと夕方になっている。もう随分、この部屋で長い時間を過ごしていない……
台所の小さなスリガラスを通して夕日が赤く部屋を照らした。
単線の電車が離合場所からゴトゴト音を立てて走り出す。
時々、車がエンジン音を吹かして通り過ぎる。
一帯に見える戸建ての家々に明かりが灯り始める……
彼女が毎日この音を聞き、この景色を眺めていたことを追想する。
毎日ひとりでこの部屋にいることのリアリティーを、ボクは初めて思い知る。テーブルにコップを置く音、椅子をずらす時の軋み音、フローリングに響くスリッパの音、サッシを開ける音、蛇口から流れ出る水の音…… 自分が発信源にならなければ何音もしないこの部屋。そこに夕暮れが迫り夜が来る。外から流れ込む音も、人の気配を感じられない機械音ばかり。
それらは生活と密接なのか、それとも無縁なのか、よくわからなくなる。
そんなことを考えた……
それでも、その感傷めいた感想はごくごく淡々としたものでしかなく、これでようやく彼女との関係が終わるんだという事の安堵感、終結感、開放感、そういった感情の方がボクを支配していた気がする。
翌朝、病院に出かけると、義姉と義兄がすでに病室の外で待っていた。昨夜は義姉が彼女に付き添ったことを忘れていた。
義兄は、大変だったね、とだけボクに声をかけた。義姉がボクの処置が良かったから妹は一命をとりとめたと義兄に話している。そんなはずはないのにと思いながらも、ボクは義姉夫婦の善良さを黙って受け止めた。
病室に入った。彼女は着替えを済ませ、ベットの上で半身を起こして座っていた。壁の方を向くその顔に表情はなく、かといって虚ろでもない。
ボクはかける言葉を知らず、彼女もまた無言だった。
黙って小さなかばんを運ぼうとすると、義姉がこういった。
「マーちゃんがね、私たちのところに戻りたいというから、預かろうと思う。それでいい?」
「…… ありがとうございます。いいんでしょうか」
ボクは義姉夫婦の顔を交互にみた。ふたりとも軽く笑って気にするなという感じだった。
不思議とこの人たちからは責められるという感じを受けない。善良な夫婦、いつでも優しく温かな夫婦、ボクにはこの先も決して実現できそうにない、人を丸ごと許すような夫婦がそこにいた。ボクはこの人たちの前でだけは心から自分を恥じた。
病院の玄関先で三人を見送った。彼女は一度もボクと目を合わすことなく、ひと言も交わすことなく、車に乗り込んで、そのまま去って行った。
「終わった…… 」
何の充足感も、満足感も、達成感も、何ひとつ特別な感情も湧きおこらず、ただ、終わったという言葉だけがボクの胸に去来した。この先のことも考えられず、ひたすら終わったことを噛み締めた。
部屋に帰るとしばらくして両親がやってきた。彼女の両親とも相談して、彼女を一旦実家に戻そうということになったと告げられた。
両親にいきさつを話した。詳しく話すのは憚られたが、ハルの存在、妊娠している事実を述べた。父は妻のことを思い、母はハルに関心を向けた。
「お前…… お前はつくづく結婚してはいかん男だな」
父は呆れてものが言えない感じだった。
「仕方ないですよ、今さら。そんなことより、その人にはいつ会わせるの?」
何事も自分都合でしかない母は、ハル、いや、ハルのお腹の中に宿った次の世代に気を取られたようだった。
(この夫婦がよく今まで夫婦でいられたものだ……)
ある意味で感心した。ボクはどうやら母親の血を色濃く引き継いだようだった。うんざりした。
そういえばハルに何も話さないまま、ボクは会社を休んでいることにその時気付いた。
(部長から何か伝わっているだろうか…… )
急に不安になった。彼女が動揺するのではないかと気になった。
両親の前で彼女に電話することも憚られたので、彼女の帰宅時間を見計らって、ボクは外からハルに電話を入れた。
「どうしたの? 急に会社休んだりして。なにかあったの?」
さすがに不安げな声だった。
「ううん、大丈夫だよ」
「そう。なら良かった。病欠になってたから、お昼休みに電話しようかなと思ったけど、できなかったよ、さすがに、ハハハ」
この調子なら、彼女の耳にはまだ昨日からの出来事は入っていない。そう思えたら安心した。
「体調不良でもないんだけどね、昨日から寝てないから、ちょっと休んだ。ずる休み」
「も~、そんなことォ~~?、心配したのに~」
「悪い悪い…… でね、だから、今日は行けないんだ」
「え~~~、会いたいのに~、って嘘だよ。ハハハ
この時間から抜け出しちゃ、マーちゃんが怒るね」
彼女が無邪気にマーちゃんと言うのが、ちょっと苦しかった。だが、もはやボクの守るべきたったひとりの女性は彼女でしかなく、妻に対する感傷めいた感想を持つのは止めようと思った。
「ハル…… 愛してるよ」
「ハハ…… 照れるな。キンちゃんってそういうこと言える人なんだね」
「お前はすぐ茶化すからな。
まあいいや、その方がボクも楽だよ」
「うん。明日は会社に来る?」
「そうだな、できるだけ」
「ん? どうかしたの? やっぱり何かあるの?」
「ううん…… 実はちょっと両親が来てるから、明日、見送ってから会社に行こうかな」
「そうだったんだ…… 話し合い?」
「まあ、そうだね。心配するな。明日話すから」
「うん。明日は来る?」
「うん」
「わかった」
「…… もっと喜べ」
「デヘヘ、喜んでるよ、見えないの? 見えないか、ハハハ」
「じゃあな、切るぞ」
受話器の向こう側に、いつもと変わらないハルを感じて少しだけ安心した。やはり、ボクには彼女が必要だ。いや、彼女だけが必要だ。
しかし、どこかに後ろめたさが残る。誰かを犠牲にして成り立つ彼女との関係を思うと、手放しでは喜べない重苦しさが残った
お読みいただきありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。
ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回は妻がマンションを引き払う最後の日のことを描きます。
またお読みいただけると嬉しいです。




