30.緊急搬送
【前回のあらすじ】
ハルに子供ができたことを知ったボクは、連日連夜妻に別れ話を切り出します。しかし頑なに応じない彼女。ボクたち二人は疲弊してしまいます。
ある日、ハルとロッカーの前で立ち話をしているところを上司に見咎められたボクは、翌朝、今日こそ決着をつけようと妻と対峙します。
生きている間は別れない、放っておけばそのうち死ぬから。
簡単に「死」を口にする妻。ボクは疲れもあってまともに相手にできず、ソファーで眠ってしまいます。
浅い眠りから覚めたボクは、ガラスのテーブルに何かが広がり落ちる音を聞くのでした。
…… ぼーくは、ブースカ、ぶ、ちーからもちー……
…… ぼーくは、ブースカ、ぶ、ちー……
…… ぼーくは、ブース……
…… ぼーく……
キッチンから鼻歌が徐々に消え去る頃、ボクはようやく心の中のどす黒い霧を振り払い、現実を見る気になった。そこには、床にペタンと座り、シンクに凭れかかって眠ろうとする彼女の姿があり、呼びかけにも反応が薄かった。
ボクは乱暴に彼女を引き摺って浴室に向かい、シャワーを全開にして、彼女に冷水を浴びせかけた。混濁する意識の中から彼女がようやく水の冷たさを感じて声を上げたのを確認して、ボクは救急搬送依頼の電話をした。
びしょ濡れのまま浴室に座り込む彼女を抱え起こして着替えをさせ、毛布に包んだ。突き出た腰骨を見たとき、ここまで痩せていたのかと現実を見せつけられ、その異様に突き出たさまが、ボクの暗澹とした気分をなお一層重苦しくさせた。
救急隊員が彼女を抱え出したとき、玄関先で坂上部長夫妻とばったり出会った。ボクたちのことを心配して、わざわざ来てくれたのだろう。
「お前…… 」
部長は言葉にならない声を発した。
「すいません…… 薬を飲みました」
「どうするんだ! 俺はもう知らんぞ…… 」
「すいません、急ぐので…… 」
人のいい部長だった。彼の自宅に夫婦で何度も遊びに行った。いつも歓待してくれた。奥さんと妻は気が合った。そういうことが瞬時に思い起こされたがすぐに消えた。
救急搬送された病院のことは記憶にない。それがどこであったのかも思い出せない。
病院から義姉に電話を入れた。義姉が実家にも連絡を入れて欲しいというので、嫌だったが彼女の実家にも電話を入れた。義母が出て、想像通りの罵詈雑言を電話口で浴びせられた。妻から事情が伝わっていたようで、長々と恨み言が続きそうだったが、そんなこと、今は聞きたくもない、と言って通話を一方的に打ち切った。
ボクの実家には、黙っていても今頃彼女の実家から大騒ぎの電話が入っているだろう。
義姉はすぐにやってきた。ひとりで来た。
「ごめんね、あの人は出張なのよ…… 」
どうして彼女が謝るのだろう。
「すいません、おねえさん…… 」
その時、ボクは少しだけ涙が出た。
処置をどのくらい待っただろうか。そんなに長い時間でもなかったような気がする。
処置を終えた医師から質問された。
「薬を飲まれてますね」
「はい」
「服用はご存知でしたか?」
「…… いいえ」
知りはしなかったが、そういうこともあるだろうとは思っていた。
「そうですか。こういうことは警察にも報告の義務があるんですが……」
「…… はい」
ややあって、カルテに目を落としながら医師は次の言葉を続けた。
「胃を洗浄しておきました。きれいに取れていると思います」
「ありがとうございます」
「服用を誤られた、そういうことですかね」
「…… 」
どう回答すべきなのか、ボクにはわからなかった。
「…… わかりました。
今日は入院してもらって、明日の朝には退院ですね」
「…… ありがとうございます」
「薬を簡単に飲む……
危ないんですよ本当に。くれぐれも気をつけて」
「…… すいませんでした」
この医師は事情を察しているのだろう。自殺しかけた妻と、その原因になっている夫に、何かひとこと言うべきだと思っていたのだろう。
だが、そこで話は終わり、あとは看護師が淡々と入院手続きの話をした。
待合室で義姉が心配そうな顔でこちらを見ている。大丈夫ですとだけ伝えたら、彼女はすぐに携帯を取り出して、外に出て行った。
部長夫妻の顔も見えた。すいませんと謝ると、まあ、とりあえずよかったといって帰っていった。
義姉から、母がどうしてもあなたから電話が欲しいらしいと伝言を伝えられたが、帰ってからでいいですかと言い訳して、結局電話をしないまま放置した。
どうやって部屋に戻ったか、全く記憶がない。きっと義姉に送り届けてもらったのだろうが、その時の風景がなにひとつ思い出せない。
これは現実なんだろうか……
お読みいただきありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。
ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回は妻が救急病院を退院した日のことを描きます。
またお読みいただけると嬉しいです。




