29.人間ではなくなった日
【前回のあらすじ】
ボクは改まって何かを告げようとするハルと面と向かって諦めムードです。こんな関係が心を蝕まないはずがない、きっとハルは関係の解消を言い出すのだろうと覚悟を決めています。
しかし、ハルが言い出したのは、お腹に子供が宿ったということ。ひょっとすると子供をなすことのできない身体なんじゃないかと密かなコンプレックスを抱えていたボクは、この状況下で子供ができたことの深刻さも忘れて喜びます。そして、必ずハルを守ろうと決意を固めるのでした。
母親になると女性は変わるものなんだろうか?
もともと、淡々と運命を受け入れるようなところのあったハルだが、母親になってからは益々のんびりしてきた。腕を組んで歩く速度も遅くなったし、周囲を気にする感じがなくなった。美味しいものを食べると目を細めて喜び、些細なことにも、あ〜幸せ〜、と口にするようになった。ハルの無邪気な様子はボクも幸せにしてくれた。
逆に妻との関係は、これまで以上に冷淡なものになった。終電で戻りながら、なぜボクはハルの元からここへ向かわなければならないのだろう、なぜ、あの幸福な時間を邪魔されなきゃならないのだろう、そんなふうに思った。妻の存在をとてつもなく煩わしいものに感じていた。
だから、帰るやいなや必ず別れ話を持ち出したし、その言い方も、日増しに冷酷で救いのないものになっていった。
もはややり直すつもりなど全くない、愛情の欠片も残っていない、ハルへの暴言が、結局ボクの心を完全に冷やしてしまった…… そんなことを延々と言い続けた。
最初のうちこそボクの翻意が可能と信じていたのだろうか。妻は、ハルへの悪口をますます言い募った。彼女がいかに男にだらしないか、騙されていることに早く気づいて欲しい、というような事を話した。夫婦だからやり直せる、私は忘れてみせると、ボクを説得しようとした。
しかし、それが全く通用していないことを知ると、その怒りは徐々にボク自身に向かい始めた。
自分がこれまでどれほど我慢を重ねてきたか、古臭い因習に囚われた親戚づきあいがどれほど嫌だったか、何があっても自分を守ってくれないボクのことなど、もうとっくの昔に諦めていたというような恨み言に変わってきた。おそらく、それは嘘偽りのない、妻としての本音だったのだろう。
私はずっと我慢を続けてきた、教会で誓ったことをどこまでも守ろうとした。あなたはいとも簡単に捨てようとしているが、神様との誓いを破れば、どれほど怖しいことが身に降りかかるか…… など、どこか宗教がかったことまで言い始めた。
そして最後は泣くのだった。大きな声で泣き続けた。怒りに任せてボクに物を投げつける。それでもボクが相手にせず知らん顔していると、今度は愛しているのがなぜわからないのと縋り付こうとした。だがそれも通じないとわかると、今度はボクの体を打ち始める。
ただ…… 彼女の力はあまりに弱く、もはやどれだけの力も残っていないことを思わせるだけだった。
そんな夜が断続的に続いた。もうすぐ年末休暇に入ろうかという頃まで続いた。
追い詰められた妻が塚本に泣きつきでもしたのだろう。会社でも、ついにボクたちの関係は単なる噂話のレベルを超え、不謹慎な社員間の情事と見なされたようだった。
ある日の朝、ロッカーの前でハルと立ち話しているところを部長に呼び戻された。
「おい、いい加減にしろ。オレの目は節穴じゃないぞ。
相手がハルとは…… 迂闊にもほどがあるぞ、お前。
大変なことになる前に、夫婦そろって俺の家に来い。
明日、待ってるからな。必ず来い。いいな」
ハルの姿を追う目が、いつもの温厚な目ではなく、怒りを含んでいることをボクは感じ取った。いかに世話になった部長といえども、妻と同じ立ち位置に立とうとしている彼を信頼するわけにはいかなかった。
「折角ですが部長、自分でなんとかします」
ボクは開き直るしかなかった。
「自分で何とかするって…… 何とかなるのか!
会社の中にはお前を飛ばせという話もあるんだぞ。お前、軽々しく考えるな!」
「会社に迷惑がかかるなら、やめます。その覚悟はできてます」
「お前…… 」
ボクを引き立ててくれた部長の話を聞かないということが何を意味するかは理解していた。しかし、ハルに関する噂話の程度を考えると、この先、無事妻と別れて彼女と一緒になるにしても、こんなところに長居は無用だ。そんな考えでいたから、妻と別れる時イコール会社を辞める時という意思は固まっていた。全く新しい場所で全く新たに出直そう。その覚悟をハルにも伝え、ハルもそうあって欲しいと賛成しているようだった。
翌朝、今日こそ決着をつけようとボクは心に決めて起き上がった。身なりを整え、ダイニングテーブルでコーヒーを飲み彼女を待った。しばらくすると、彼女は、重い体を引きずるようにやってきて、ストンと力なく椅子に座ると、力なくこう告げた。
「生きてる間は別れないよ。放っておきなさいよ、そのうち死ぬから」
死ぬ……
彼女の口から時々出てくるこの言葉は、ボクを脅し怖がらせはするものの、実行されることのない悪質なブラフだった。
帰ってこなければ死ぬからね、本当だからね……
この言葉を何回聞いたことか。
その都度、心の中では死ねばいいじゃないかと一瞬思うのだが、まさか万一にでも本当に死ぬことはないだろうなと心配になって、毎日終電で帰ってきていたのも事実だ。
ボクはまんまと彼女のブラフに引っかかっていた、そういう苦い思いが積み重なっていたこと、そして、今日は決着をつけるんだという昂った気持ちが同時にあって、ボクはついにこう口にした。
「死ねるものなら死ねばいいんだ。どうせやれないくせに」
ボクは席を立ち、苛立ちを紛らわすことができぬままにソファーの上にどさりと寝転がった。
どのくらいの時間が経っただろうか……
毎夜毎夜の別れ話で、ボクは疲れていた。ソファーに横になると、知らぬ間に浅い眠りに入ったような気がする。
「ぶーちゃん…… 」
遠くでか弱く呼ぶ声がする。
ボクはもう応える気にもなれずにそのまま浅い眠りのふりをした。
「ぶーちゃん…… 届かないんだね」
「ぶーちゃん…… もういいよ、行っていいよ。
私がいなくなればいいよね…… 」
パラパラパラと、ガラスのダイニングテーブルに、何かが広がり落ちる音がした。
彼女は何か鼻歌を歌っているようだった。
「…… ぼーくはぶーすかぶ、ちーからもち」
「ぶーちゃん、聞こえてる…… ?」
「ぶーちゃん、ありがとう……」
「ぶーちゃん…… ぶーちゃん…… マーは悲しかったよ」
「ぶーちゃん…… さよなら…… 」
これでようやく終わると思った。
本当に死ぬのなら、ボクが見届けてやる、最後まで芝居がかったことしやがってと思いながら寝たふりを続けた。
死ねよ……
あの時…… ボクはもはや人間ではなかった。
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