28.神からの大いなる賜りもの
【前回のあらすじ】
これまで就業時間中も馬鹿話を繰り返していたボクとハルが、急に静かに仕事をするようになった訳ですから、不自然といえば不自然です。
ボクを可愛がってくれる直属の上司、悪友の細山田のみならず、お局様と揶揄される浦野女史にも噂が広がっている気配があり、その深刻さにボクも気づくのでした。
12月に入ったある日の事。やや改まった感じのハルを目の前にして、ボクは緊張しながら次の言葉を待っていた。
「どうしたの? 急に改まって」
ボクは、半分くらいの確率で、関係の解消を言い出されることを覚悟した。
かつて、結婚すると決めたあとに、マリッジブルーになってしまった妻のことを思い出していた。
(彼女も会社帰りの喫茶店で、こんなふうに別れ話を切り出してきたんだった…… )
結婚に踏み出す前の女性はなぜこうも躊躇うのだろう。その彼女を説得して結婚し、そして今はその彼女と別れようとしている。その引き金となった別の女性が目の前にいて、その彼女がまた何かの不安を抱えている。
(ままならないもんだな…… )
深刻な事態だが、なんとなく笑えた。
だが、彼女の表情は深刻なままだ。
「どうした? 疲れちゃったか……」
特別な関係、常に周囲の目を気にする関係、そういう関係は心を蝕む。疲れさせる。
愛、というひと言ではいかんともしがたい重苦しさがあって、時に逃げ出したくなる。恋焦がれていても、ふたりの関係を断ち切って、誰もいないところに行ってしまいたくなる。
ハルがいつかそういう気持ちに支配されても仕方ない、ボクはとうに諦めてもいた。
「ううん……」
少し安心したボクは、一体何の話だろうと考えてみるが見当がつかない。
年末の事だろうか? 年末は別々でも仕方ないよな、などと思っていた。
「あのね…… まだはっきりしたわけじゃないけど…… 」
「うん」
「できた」
この状況で『できた』は普通ひとつのことしか意味しない。
「ん?…… できた?…… まさかこどものこと?」
恐る恐る聞いてみる。
「うん、多分」
彼女は不安げな様子でこう言った。いつものハルらしくなく、小さな声で途切れ途切れに話す。
「困るよね…… 」
一瞬だが、言葉を失った。
それは、マズい事態に継ぐべき言葉が出なかったということでは決してない。こういう時、どういう言葉が適切なのか、その用意がなかったから、単にかけるべき正しい言葉を探しあぐねただけだ。
だが、ボクはすぐに継ぐべき言葉を見つけた。
「なんで? 嬉しいよ」
ハルの顔からはまだ不安が消えない。それはそうだ。安っぽいテレビドラマなら相手が引くシーンだ。思いもよらぬ事態に戸惑い慌て、別れを切り出されるか、最悪の場合、殺される…… そんなシーンだ。だから、こんな言葉だけでハルが安心できるわけがない。
「…… 本当に?」
ボクの顔をまともには見られない感じだった。
「うん。だってボクの子供だよ。できるなんて思ってもみなかったし」
そうなのだ。ボクは自分の子供が持てるとは、実のところ考えていなかった。
なぜなら、妻との間にできなかったし、初恋の相手ともあれだけ無防備にセックスしていたのに、一度もそういうことがなかったから、ボクには何か欠陥があるのだろうと思っていた。だから、この状況で子供ができるということの深刻さより、ボクにも一人前の男として、愛する女性に子供をなすことができたという事実の方が重く、ボクの秘められた年来のコンプレックスを跳ね除けてくれた喜びが勝った。
きっとボクの顔は偽りのない満面の笑みだったのだろう。のちに、彼女はこの時のことでボクを絶対的に信頼したと語ったことがある。
「お祝いだ!」
「うん」
「めでたい!」
「うん」
「ハル! そんな顔するな!」
「うん」
「ハル! 安心しろ、絶対になんとかする!」
「うん…… 」
何度も何度もハルを励まして、ようやく彼女の顔から不安な表情が消えた。胎教がどうとか、その頃のボクが知るはずもない。だが、ハルを不安にさせたままじゃいけないと強く思った。
(とにかく、笑おう。これからはハルの前ではずっと笑っていよう)
そう決めた。
実際は厄介な話である。別れ話に応じない彼女と、どうやって別れられるか。しかも、子供が生まれるというのだからタイムリミットを切られたわけだ。限られた時間内で交渉を成立させる。しかもこちらの切羽詰まった状況を明かすことなく……
だが、なんとかする。それがボクの決断の意味だ。本当ならもっと悲壮な決心を固めるべきところかもしれなかったが、その時のボクは、なんとかなるだろうと根拠のない自信に溢れていた。
そんなボクを見て安心したのだろうか、この時からハルは母親になった。もともと、物事を深刻に考えすぎるタイプではない。人生、なるようにしかならない、というような達観したところもあった。
「マーちゃんとね、別れるのが無理なら、今すぐじゃなくてもいいよ。時間をかけてもいい。だって、キンちゃんが堕ろせと言ったら、別れてひとりで育てる気だったから」
「ウソつけ!」
さっきの深刻な顔を見てれば、そんなの強がりに決まっている。
「アハハ、バレた? でも半分は本気。絶対堕ろさないと思ったもん」
「ハルは強いよ」
「それにね…… キンちゃんは絶対堕ろせなんて言わないと思ってた」
「自信家だな。知らないよ、安住さんに言い寄られたら、ふらふら〜ってあっちに行っちゃうかも」
「アハハ、ないない、それはない」
「なんでだよ!」
「だって、安住さんの前だと、キンちゃんは緊張するから、絶対付き合えない」
さっきまで不安そうだったハルが、すっかり元通りのハルに戻って笑った。彼女はやっぱり人をよく見てる。敵わないと心から思った。
「そんなことより、ひとつだけお願い」
「なに?」
「マーちゃんがね…… 押しかけてこないようにだけしてね。」
なんと答えたらいいのかわからなかった。口を極めてハルを罵った彼女の事を思い出すと、逆上してハルの目の前に現れることも十分に考えられた。
「わかった……」
ボクはもう一度覚悟を決めた。どんな手を使ってもハルを守ろう。なんとしてもハルをボクのものにしよう。そう誓った。
「お前は強いよ……」
ハルの顔を見て、ボクはもう一度呟いた。
お読みいただきありがとうございました。
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ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回は妻との決着をつける決心をした日のことを描きます。
またお読みいただけると嬉しいです。




