27.孤立
【前回のあらすじ】
きちんと別れを切り出そう、そう決心したボクは妻に話し合いを申し出ます。
しかし、頑なに拒否する妻。ボクは思わず別居を申し出てしまいます。激高した妻はボクに飛びかかるのですが、その身体はあまりにも消耗しており、その軽さにボクは驚きます。
一時的に優しくしたところで、妻との関係が元に戻ることなど決してないことを知りながら、それ以上辛くあたることもできず、縋りつく妻を抱きとめるしかありませんでした。
誰にも悟られず、二重生活を続けるなんて不可能だと諦めてはいた。そもそも、マーちゃんが塚本に何も話さないと仮定すること自体、ナンセンスに思われた。今ごろ、ボクとハルのことは塚本を発信源に、きっとボクに直接確かめることのできる人間を除いてみんな知っている、そんなところだろう。
だが、噂話が一気に広がる気配もなかった。本来、プライベートなことだ。ボクもハルも仕事に支障が出るようなへまはしていない。不確かな情報をもとにあれこれ言うのが憚られたのかもしれない。それか、あまりに話が深刻なので、噂話が間違ってもボクやハルの耳に入らないよう、誰もが注意深く声を潜めたのだろうか。
ただ、ハルは何となく空気がおかしいとは言っていた。いやいや、おかしいのはボクとハルの方で、これまで就業時間中にあれだけバカ話をしていたのに、急におとなしく仕事をするようになれば、ちょっと観察眼のある人間なら、すぐに異変には気づいただろう。
ボクはもう面倒くさくなり始めていた。何かの弾みでボクとハルが腕を組んで歩いているところを誰かが見つければいいのに、とすら思い始めた。ボクにはあまり罪悪感がなかったし、何より、ひと目を憚ってコソコソするのが嫌になっていた。関係ねーだろ、くらいの感覚だったのだ。
そういう油断があったからか、ボクの変化は上司が、おやっ? と思う程度にはなっていたようだ。とりわけ、夕方の誘いに全く応じなくなったことは、どうも怪しいと思わせるに十分だったようだ。
「お前、最近なんかあったか?」
帰り支度を始めたボクに、面倒見のいい部長が話しかける。
「いや、特にないですが」
5時で退社の準備をすること自体はなんら不自然ではなかった。ただ、ボクは明らかに夕方の誘いを断るオーラを出しまくっている。これまでなら、今日は誰を誘おうかと相手の視線を追う側だったボクが、今は人からの視線をすべて避けながら、黙々と帰り支度をするのだから、不自然といえば不自然だ。
「そうか。最近マージャンもしないし、細山田ともツルんで飲みにも行ってないようだし」
「部長のカモになるのにうんざりしただけですよ」
「ハハハ、それならいいんだがな。多少お前や細山田みたいなカモがおらんと困るんだよ、オレも」
「そうですか。じゃあ、近いうちにネギ背負ってきますよ。ハハ……」
何かは感づいているのだろう。この部長は人のうわさ話に耳を貸すようなタイプじゃないから、一部で囁かれていることがこの人の耳に届いていたとしても、一笑に付しているだけかもしれない。
他人に関するうわさ話というのは、その人間に一番近い人の耳に一番最後に届くものだ。今、当事者であるボクに関する噂話は、部長をはじめとしたボクを可愛がってくれている人たちが一番状況を知らないのかもしれない。そう思うと、いかに他人に冷淡なボクでも、とても申し訳ない気になった。
ボクが率先して親しい人に事情を話せばいいだけのことだが、何事によらず秘密主義というか、自分のことを人に語れないボクはこういうところで信頼してくれている人々を結果的に裏切ってしまう。
考えてみればこの部長には世話になっている。父親と同じ世代ということもあるのか、ボクたち夫婦の仲人役のつもりでいると言われたこともある。事実、部長もその奥さんも、数か月に一度はボクたち夫婦を夕食に招いてくれて、酒を一滴も飲まない部長がボクに酒を勧めてくれたりした。
「お前はな、出来が悪い分だけ気にかかるってことだよ」
そう言って可愛がってくれた。その奥さんは本当に妻と気が合って、人を見下す傾向のある妻ですら、この奥さんと台所に立って料理を習うのが楽しいと言っていた。
その部長にも状況を知らせないでいる。いや…… 知らせられるわけがない。
帰り際、細山田に声をかけられる。
「お前、ちょっと。
良くない噂が飛んでるぞ…… 多分、おとうさん知ってるぞ」
ハルがそう呼び始めてからというもの、坂上部長はボクたちの間ではすっかり「おとうさん」だ。
「…… そうですか」
細山田は基本的に他人の行動にあれこれ注文を付けることなどない。そもそも悪友だ。出張費の前借りを手に歌舞伎町に繰り出し、一晩ですっからかんにしてしまう遊び仲間だ。
「付き合え、今日。オレには話しておけ」
「話せないですよ。今は」
細山田が単なる遊び人ではないことなど、とっくに気づいている。根っからの善人なのだ。彼はボクとは違う。道に外れたことなど多分しない。今は若手芸人を追いかけ回しているが、学生時代からの恋人同士である奥さんのことを、本当はちゃんと大切に思っている。そういう人間だ。
「お前…… まさか本気か?」
「すいません…… ちょっと急ぐので」
ボクは細山田の声も無視してオフィスを出た。
エレベーターホールではデリバリーの浦野女史に声を掛けられる。
「おい、若造。あんまり賑やかにやりすぎんなよ」
口調はきついが、決して人を問い糺すような感じではない。
「ハハハ、だからこっそり帰ろうとしてるんですけどね……
すいません、お先です」
口が悪くて人当りも悪いこの古参女子は、意外にもボクには優しかった。客先からの至急オーダーが発生する都度、なんで事前に把握しておかないと叱られるのだが、なんだかんだで必ず無理を通してくれる。
「大事にしてやることだな~、どっちとは言わないけどさ~」
彼女は手をひらひらさせながらオフィスに戻って行った。
彼女がこんな言い方をするということは、きっと噂話は想像以上に広がっているから気をつけろ、というサインなんだろう。
「ご忠告ありがとうございます」
ボクは深々と頭を下げて彼女の後ろ姿を見送った。
しかし、ボクはもう覚悟を決めていた。ハルを選んだのだ。
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次回はハルから告げられる重大な出来事のことを描きます。
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