26.別れ話
【前回のあらすじ】
終電ではマンションに戻るものの、ボクは仕事が終わるとハルのもとに帰る二重生活を始めます。こんな立場にもハルはなにひとつ不満を述べることなく、淡々とすべてを受け入れているように見えます。ハルは前回の失恋で人生観が変わるほど傷ついたのかもしれません。
しかし、こんな歪な二重生活がいつまでも続くわけがないと思っているボクは、妻に別れ話を切り出そうと決意します。別れを決めたボクは決して元には戻らないのに、なぜ妻は気がつかないのだろう、身勝手にもそう思ってしまうのでした。
諦めとも希望ともどちらともつかぬ顔で妻はボクを玄関で迎えた。その顔をもう見慣れたし、必要最小限の会話も当たり前になっていた。
「ハルと会ってたんでしょ。食事はしないよね」
「ああ」
優しくなんかできない。すべきでもない。ボクは頑なに彼女との関係を冷淡なものにしようとしていた。
彼女はTVを見始める。画面に向かってひとりでぶつぶつ言い始める。かつて、その様子はボクのものだった。TVニュースに向かって、それは違うだろ! とかなんとか言う様を見て、彼女がボクをブーブーいう奴、つまり、ぶーちゃんと呼び始めたのだから。
何か特別なイベントだけがふたりを夫婦にするのではない。何気ない、本当につまらなくて些細なことの連続がふたりの世界を他とは異なる特別なものに仕立てていく。
ある意味、日常は単調で面白みがなく、そこには何も価値などないかのように目に映る。捨て去っても後悔すべき価値など、どこにもないようにも感じる。しかし、本当はそこにこそ意味がある。長い時間の積み重ねこそ代えがたい価値そのものであり、穏やかさもあり、温もりも見出だせるのだろうが、そのような見方をしなければ、部屋の隅に溜る埃のようなもので、捨て去ってしまうべきものに転じてしまうのかもしれない。
ボクと彼女は都内だけで3度の引っ越しをしている。わずか4年の歳月で3回は多すぎた。どこにも確たるふたりだけの世界を確立できず、あちらに移ろいこちらに漂いしてきた。そのことがボクたちの関係性に影響を与えたというつもりはないが、いざ、彼女との関係に終止符を打とうと決意した時、それを押しとどめて再考させる具体的な何物かが、ボクたちには欠けていたような気がする。
熟年の夫婦が、愛とか恋を理由にせず、単純に同居生活に倦んだという理由で離婚する心理は、まだこの頃のボクには理解できないが、これから生木を引き裂くように別れるに際し、なんら躊躇させる具体的なものがないというのは、別れるにたやすい反面、過去数年間がまったくの空白になることを意味し、その期間のボクは本当はどこに存在していたのだろうかという根源的な欠落感を味わうことになるのだろう。
このように、ボクの頭の中は彼女とはすでに決別していた。
「マーちゃん…… 少し話そうか…」
「何を?」
彼女はTVから目を逸らすことなく応える。
「だから、ボクたちのことをさ」
「別れないと言ったよね。それ以上の話はないよ。
ハルの奴…… あんな奴は許さない、人のものを取りやがって!」
彼女は相変わらずTVの方を向いたままだ。
「マーちゃん、それは違うよ。ボクがそうしたんだから」
「なんで? なんでいつもそうやってハルばっか庇うの?!」
愛しているからだよと言いたくなるのを必死に堪えた。それは彼女に単なる打撃ではなく、屈辱を与える言葉に思えたからだ。
「あいつはね、今頃笑ってるよ! 間抜けなぶーちゃんを笑ってるよ!」
しばらくは毎晩話をするつもりだった。落ち着て彼女と話し合い、ボクの気持ちを理解させ、できれば穏便に別れたかった。
しかし、妻の様子はまるで変化がなかった。収まったと思ったハルへの悪口を、以前と同じようにこれから毎晩毎晩聞かされるのだろうか。そう思うとうんざりしてきたし、面倒くさくもなってきた。
ボクは叶わぬ恋の中にいる。彼女は憤怒の中にいる。互いが同じ精神状態で話し合う土俵にないことにボクは気付かなかった。ただひたすらこの場から逃げ去り、一刻も早くハルとの生活を始めたい、それだけを願っていた。
「少し、別々に暮らせないか」
今夜、いきなりこんなことを言い出すつもりなどなかったが、耐えきれぬ思いがボクの口にそう言わせてしまう。
「ハルと暮らすの? そういう意味?」
「そうじゃないよ。マーちゃんとボクがしばらく別に住んだ方が良くないかと思ったんだよ。
だって…… 先のない話を延々続ける意味がある?」
ボクは若かった。ハルへの気持ちが先走って、妻の気持ちを考えず結論を急ぎすぎた。その結果、妻の感情の火に油を注いでいることに気づいていなかった。
「嫌よ! 絶対帰ってきて! でなきゃ、何をするか、わからないからね!」
恨めしかった。彼女が心底恨めしかった。一縷の望みすらないというボクを縛り付け、ハルに関する一方的な憎悪をぶつけ続け、結果、そのことがボクの決意をより頑なにさせ、二度と彼女との修復はあり得ないと思うに至らしめているにもかかわらず、なんら進展の望めない関係を続けようとする。
ボクは徐々に彼女を恨めしい存在に思い始めた。
「帰ってくる来ないはお前が決めることじゃない!」
怒りが沸々と湧き上がる。ボクはあらん限りの憎しみを込めて、彼女を睨みつけた。彼女も、一歩も引かずボクを睨み続ける。もはや、愛情とか思いやりとか、穏やかさとか温もりだとか、そういう綺麗事の感情は一切なくなってしまっていた。
彼女はワーッと叫びながらボクの腰のあたりに飛びついてきた。
軽くて何の力もない……
いくら非力なボクでも、その時の彼女に押し倒されるほど弱くもなく、軽く払い投げてしまった。
ドテッ……
運悪くタンスで頭を打ち付けた彼女が、ひっくり返ったままイテテテテと頭をなでる。その様子があまりに間抜けな感じがして、思わず笑ってしまった。すると、彼女も怒りが少し収まったのか、
「ぶーちゃん…… 」
そう言いながら、もう一度ボクに抱きついてきた。それはさっきの飛びかかるという感じではなく、以前、仲の良かったころのような抱きつくという印象だったので、ボクもされるがままにしていた。
彼女のことは捨て去ろうとしている。だから、ここで優しくしても、結論を一日延ばしにするだけだ。彼女に余計な期待を植え付けるだけ。だから何もいいことがないとわかっているものの、ボクにはここまで弱り果てている彼女を突き放すこともできず、ただただ、彼女を受け止めた。
「帰ってきてよ…… 」
マーちゃんは泣きながら訴えた。
「…… 」
あの時、ボクはハルのことだけ考えていた。マーちゃんはそんなボクの心の中を読み取れたのだろうか……
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次回は覚悟を決めた日以降の、ボクの会社での立ち居振る舞いを描きます。
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