25.ハルの愛し方
【前回のあらすじ】
ボクと妻との生活は形ばかりのものになってしまいました。仕事も目の前のことを淡々とこなすだけです。仕事が終わると、誰からの誘いも受けぬように会社を出て、いつもの通勤ルートから外れ、ハルの元に向かいます。西武新宿駅でハルと腕を組んだ瞬間から目の前の景色が活き活きと蘇るような錯覚に陥るのでした。
ハルと過ごす時間はあっという間に過ぎ去り、終電の時間になってしまいます。
終電で妻の待つマンションに戻ります。そこに生活のすべてがあるからですが、ボクにとって、すでにそこは帰るべき場所ではなくなっていたのでした。
西武線を辿って最寄りの小さな駅に帰ることができた。通勤で使わない路線を辿ることで、ひと目から逃れた気になる。知り合いなど周囲にはいなし、どう考えてもその必要性もないが、なぜか身を隠したくなる。本当に知り合いに出会えば、逆方向から帰ってくる不自然さを指摘され、むしろ訝しく思われるだろうに、そういう簡単なこともわからなくなっている。恋は盲目だ。
マンションまで戻ると、ベランダに妻の姿を見つける。中央線の方角を見ている。いつ帰るともわからない相手を、ベランダでずっと待つ気持ちがボクには想像できない。ボクなら諦める。思いつく限りの悪態をついて、さっさと捨ててやる。何日間か大酒を飲み、誰かれかまわず悪口をいいまくり、最後は思い出の品を粉々にして、記憶の底から相手を抹殺する…… と思うのだが。
彼女に気づかれずに部屋までの階段を昇り、自分で玄関の鍵を回した。だが、内側からロックがかかっていてドアがガタンと大きな音を立てて途中で止まる。意に反した動きをするドアが無性に腹立たしい。あいつに締め出された、そんな気がした。締め出されて途方に暮れる様子を笑おうというのか……
ガタガタとわざと大きな音を立ててドアをこじ開けようとする。
「待って! 今開けるから!」
「…… 」
「おかえり…… 遅かったね」
「…… 」
ボクは無言で部屋に入る。内鍵がかかっていた、たったそれだけのことなのに帰ってくるんじゃなかった、そんな気になる。
本当は怒鳴り散らしたいところだが、シャワーを浴び、今はすっかり物置になっている小部屋に来客用の布団を敷いて、ひと言も交わさず眠った。
それからというもの、仕事が終わると決まってハルの部屋に向かった。一日も欠かさず彼女の待つ部屋に戻った。それは、ボクはハルを選んだぞ、という意思表示でもあるが、本当のところはボクの身体と心がハルを求めるから、ただそれに従っただけだった。
ハルもまた、それを黙って素直に受け入れた。冷静に考えると、こんな理不尽な立場にきっと内心は穏やかでないだろうに、彼女は何ひとつ口に出して要求しない。ボクを詰ることも一切なかった。
今のこの不自然な関係をハルの友人たちが知れば、彼女たちは挙って絶対に止めるべきだと声を揃えることだろう。都合のいい女になるんじゃない、そう諫めるに違いない。ボクが彼女の友人の立場でも間違いなくそう諭す。だから、少なからずボクはハルに対して後ろめたさを感じてはいた。
「ボクのこと、不安?」
「なんで?」
「なんでって…… 不安じゃなきゃいいんだけどさ」
「キンちゃん、信じてるからね! なんて言ったら困るでしょ?」
「困ったりはしないよ」
「アハハ、わかってる。いいよ、私は。今のままでも」
この言葉に、ボクは意外に傷ついた。彼女にとってボクは永遠の存在ではなく、刹那的な相手でしかないのだろうか? そんなふうに思ったのだ。だから敢えて強い覚悟を示すようにボクは答えた。
「そんな訳にいくか!」
「うん…… でも、マーちゃんはきっとキンちゃんの事がホントに好きなんだろうね」
「…… 」
ハルにするりとかわされた気になる。
「私ね、あいつにそこまで拘れなかったもん」
彼女は目の前で他の女に愛する男を奪われた失恋の事を話し始めた。
「確かに泣いたよ。相手の部屋まで行って、なかなか出てこないアイツを出てくるまでずっと待ったりした。でもね、その時に、あ〜 もういいや、あんまり好きじゃないや、とも思ったんだよね」
彼女はボクやマーちゃんとは違う恋愛をするタイプなのだろうか?
この部屋に来るようになってからも、彼女からは強く拘束されている感じがまるでしなかった。
ハルという女は、自分の気持ちには正直だが、自分の思いが相手を変えるなんてことはまるで諦めている、そんな感じだった。だから、かえって彼女の失恋は深刻で、彼女の人生観を変えてしまうほどの出来事だったのではないかと思えるのだった。そう思うと少し妬けた。
「マーちゃんはきっと別れないつもりだろうね……」
言葉に詰まった。その通り、全く見通しは立たない。強引に生木を裂くように別れなければ絶対に無理だと思っている。思っているのにそこまで強引にできないのは、妻を大事にしたいからでも、ハルと一緒になりたくないからでもなかった。ただ、とてつもない面倒、労力、それらを思うと、つい先延ばしにしてしまうのだ。
卑怯なボクはついついわかり切った質問で誤魔化そうとする。
「そう言えば、例の商社の担当者とはどうなったんだ? 神戸行く話は断ったの?」
「気になるんだ?」
すぐに断ったと言えばいいのに、ハルも性格はちょっと悪い。
「気にはなるだろ?」
「連休がダメならクリスマスにどうか? ってさ」
「…… 」
「怒った?」
「怒れる立場じゃないからな……」
「バカみたい」
「…… 」
「私、そんなにうまく立ち回りできないよ」
「…… 」
「キンちゃん…… 」
「ん?」
「呼んだだけ、アハハハ」
ハルからは愛してるとも、好きだよとも言われた記憶がない。そういう言葉が何の意味も持たないと思っているのだろう。だが、彼女は少なくとも今この瞬間はボクだけを選んでいて、その選択に後悔も不安もない、という印象は強く伝わってきた。
ボクはこれまで出会った誰よりハルといると自然体でいられた。愛しているという言葉を使わない彼女に時々愛されていないのか? という不安を感じたが、そんな不安は抱き合うことですぐに吹き飛んだ。
「私たち、すごく相性いいよね?」
「生理的に合わなくないか?」
かつて、付き合っていた男との関係をそう表現した彼女を、同じ言葉でからかった
相性…… ボクは彼女を抱く前から、ひょっとすると彼女とはすべてがぴったり一致するんじゃないかと想像していた。そして、その想像は見事に的中した。
ハルの部屋から終電で自宅に着替えに戻る、そんな生活がひと月ほど続いた。
ここへ越してきたときはまだ葉桜だった上水沿いの桜は、紅葉するのかしないのか、はっきりした様子がないまま、中途半端に枯葉となってカサカサ乾いた葉を半分落とし、半分残したままになった。
(やはり切り出そう)
すっかり寒くなってきた駅からの道を歩きながらそう決心した。
別れ話を切り出すことになんら躊躇いはないが、切り出した後の反応が読めずにいた。おそらく、彼女は常軌を逸するだろう。刃物でボクを襲うか、自傷するか、あるいはハルのところに押しかけて、彼女を傷つけようとするかのいずれかだろう。穏やかにテーブルについて話し合うなど想定外だった。
ただ、いつまでもダラダラ引き延ばすつもりもなかった。もう、ボクと妻は完全に破綻している。
決着をつけないのはボクの怠惰と妻の打算だけが理由のように思えた。妻がなぜボクに拘泥するのか理解に苦しんだ。拘泥すればボクがもとに戻るとでも思っているのだろうか?
片方にいくら愛情があっても、もう一方にそれを受け入れる気持ちがなくなれば、どんな結末がやってくるか、簡単にわかりそうなものだ。彼女の拘泥がいつまで続こうと、ボクはある日ここから無理にでも飛び立とうとする。残酷に彼女を打ち捨ててでも自分の求める場所に向かう。
その瞬間、妻はもはや息をすることもできぬほどに絶望し、夜は決して明けぬと思わせてしまうのだろう。だが、夜はいずれ明ける。
(別れても大丈夫なのに…… )
寒くはなったがまだコートは必要ないかな…… そんなことも同時に考える自分に、我ながら不愉快な気もした。
お読みいただきありがとうございました。
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ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回は妻に真剣に切り出した別れ話のことを描きます。
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