24.もうひとつの新たな現実
【前回のあらすじ】
口を極めてハルを罵る妻に対し、もはや関係修復不可能と悟ったボクはマンションを飛び出します。ハルの元へ行こう、そう思って改札口を抜けようとしますが、suicaがありません。それだけでなく財布も小銭も忘れてきたことに気づきます。
現実世界は物語のようには進まないものだと呆れながら、一旦マンションに戻り、これまで当然と思ってきた現実世界を眺めます。そして、そこに何の意味も見いだせないことに気づくのでした。
次の日、ボクは妻との会話を打ち切った。会話だけでなく、厳然と横たわる現実をすべて無視し、あたかも彼女は存在しないかのように淡々と出勤する準備をした。そうすることが自然な気がした。
着替えるとそのまま家を出る。いつもより1時間以上早いが、躊躇なく家を出る。彼女が帰ってきてねと送り出す言葉を無視して歩き出す。これまで使うことのなかった私鉄の小さな駅まで歩く。
小さな駅のホームから、ハルにメールを送る。
「今日会える?」
「うん。うちに来る?」
「いいの?」
「いいよ」
携帯をポケットにしまう。
なんとなくまた取り出す。液晶をじっと眺める。ハルとの短いやりとりを眺める。
少し考える。何か書き送ろうか考える。
特に何も思いつかず、また、ポケットにしまう。
ちょっと顔が緩んでる。自分でそう思う。
誰かが見てると、ボクのおかしな様子に気が付くだろうか?
周りを見渡してみる。知ってる顔などひとつもない。
安心する。移り住んで半年ほど経過したが、ここが見知らぬ場所であり続けていることに気持ちが落ち着く。
小さな私鉄電車が来た道を戻るように中央線の駅に向かう。途中、車窓からマンションを眺める。偶然、ベランダに人影を見つけても、それが誰でどんな人かも知らない。マンションの住人に興味も関心も抱いたことがないことに気づく。
中央線に乗り換える。もう混雑している。赤の他人と身体がぴったり触れ合うほどには混雑していないが、それでも満員電車以外では考えられないほど他人と近い距離にある。こういう異常にいつのまにか慣れてしまっている。
四ツ谷駅で丸の内線に乗り換える。無意識のうちに、そこにいるはずのないハルの姿を探す。いるはずがないと知っていて探す。もしいたらどうするんだろうと考える。ここでボクを待ってくれるほどじゃないんだなと思って、少しがっかりする。
国会議事堂前で降りて、坂道を下る。ビルでエレベーターを待つ。出社時間が違えば出会う人の顔ぶれも変わる。慣れない挨拶をしただけで、あとはずっとエレベータの位置を示す数字を見上げている。
ハルはもう出社していた。
「おはよう」
「おはようございます」
誰も見ていないのに、彼女は他人行儀だ。
「なんだよ…… 」
ボクは彼女に手を伸ばす。彼女はそれを軽く避けた。
「バカね。キンちゃんがこんな時間からいること自体が不自然なんだからね」
小さな声でボクを窘めると、彼女は給湯室の方へ消えて行った。
「ずいぶん早いじゃないか。昨日の罪滅ぼしか?」
坂上部長がボクの早い出勤をからかう。部長がこんな時間に出社しているとは知らなかった。
「そうです。サラリーマンたるもの、社損など、もってのほかです」
「お前から社損などという言葉を聞くとは、アハハハハ、あそこにも社損がいるぞ、社損社員が揃って早朝出勤とは、何か厄介ごとでもなきゃいいがな」
偶然通りかかったハルを指して部長が軽口を叩く。まさか部長に知られているはずはないが、あまりの偶然に動揺した。ハルが言う通り、ボクが朝早くから出勤すること自体、おかしな印象をあたえるのかもしれない。明日からはいつもの時間までどこかで時間を潰してから出社しよう……
会社では、淡々と仕事をこなす。難しい判断を迫られるような仕事などひとつもない。ほぼルーチンワークだ。余程気を抜かない限り、あるべきところにあるべき処理を施せばあるべき結果が得られる。
仕事中にハルと余計な話をすることもなくなった。
細山田は次年度企画の調整で忙しそうだ。
こうしてみると職場というのは、張り合いなく単調なところなんだなと改めて思ったりする。それが当たり前かといまさら気づく。
夕方の誘いを断る。誰とも目を合わせず、お先に失礼しますと言って会社を出る。
丸ノ内線に乗る。四ツ谷をやり過ごし、新宿三丁目まで乗り越し、西武新宿線まで歩く。
西武新宿駅のホームでハルと落ち合う。
それまで、色も音も失っていた世界が、急に彩りと喧騒を取り戻す。彼女が腕を組むと、柔らかな感触が伝わり、これが今のボクにとっての現実だとはっきり自覚する。
昨夜一晩明かした部屋を、改めて眺めてみる。想像していたより遥かに地味で質素な生活ぶりだ。TVは病室で使うような小さなものが、ちょこんと置いてある。
「料理ってしたことないんだよね〜、美味しくないと思うな〜」
彼女はそう照れながら肉詰めピーマンを小さなテーブルにふたり分並べた。
ビールで乾杯して、それを一口食べる。
「うん、うまい。全然問題ない」
「でへ…… 照れるな」
彼女は可愛い。小さな顔にバランスよくすべてが配置されている。決して太っているわけではないのに、身体のどの部分にも尖って硬いイメージを与えるものがない。すべてが丸く穏やかだ。
「明日ね、キンちゃんの部屋着買って来ようよ、ダメ?」
ネクタイは外したものの、ズボンにワイシャツのままでは落ち着かない。
ふと、ここに日常が生まれるまでのこまごました品々の多さを思い知る。部屋着だけでなく、歯ブラシも、靴下もハンカチも、整髪剤とひげ剃り、着替えの下着にワイシャツ、ネクタイ……
それらは全部打ち捨てようとしているあの部屋にあり、すべてあの女の管理下にある。
ボクは目の前のハルを選んだが、彼女との現実がスタートを切るまでの、果てしない長さとハードルを思い知らされる。
ふたりの時間はあっという間に過ぎ去る。ボクはベッドから起き上がると帰り支度を始めた。
「終電では一旦…… 嫌?」
「ううん。平気だよ。
仕方ないよ。まだキンちゃんはマーちゃんのものだからね」
「そういう言い方……」
彼女にどんな言葉をかけたところで、不安を拭い去ってやることなどできる訳がない。
ボクは黙って彼女を抱きしめた……
ラジオから、この日最後のsinging clockが流れる頃、ボクはあの部屋に向かった。
帰るのではない…… 向かうのだ。
お読みいただきありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。
ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回は、ハルに対して自然体でいられる自分に気づき始めるボクのことを描きます。
またお読みいただけると嬉しいです。




