23.現実世界の意味
【前回のあらすじ】
ハルと一夜を共にした翌朝、ボクはひどい二日酔いのまま直接会社へ出社します。その日、定時で引き上げマンションに戻ると、会社から戻ったばかりなのか、思ったより冷静で綺麗に化粧した顔の妻が待っていました。
しかし、ひとたび口を開くや、ハルを一方的に罵る妻。
「あんな女、あんな女…… 死ねばいいのよ!」
冷静などではなく、狂気に駆られた妻の姿がそこにあったのでした。
(この恋、この結婚のどこに意味があったのだろうか……)
彼女の荒れた言葉を聞きながら、そんな事を思った。同時に、彼女の耳に様々な情報を届ける人間の悪意、下劣さ、そして、その事をそのまま受け入れてしまう彼女の浅はかさ、さらに、この女を選んでしまった自分の短慮、無分別、そういったあらゆるマイナスの感情が押し寄せた。
(もう終わりでいい)
ボクはそう結論づけた。ここからこの女と元の関係に戻る道筋を描けなかった。
「終わりだな……」
口に出すのを抑えてきた言葉が漏れた。我慢できずに漏れた。
「終わり?」
「ああ、終わりだよ。もうだめだ…… 」
「まだハルを庇うの? 私よりあの女を!」
何も言葉がなかった。言い返す言葉がなかった。あまりに明白な心の在り処を、この女に言う必要を感じなかった。
女は再びハルに関する罵詈雑言をボクにぶつけた。その言葉は、会社の一部できっと語られている一面の真理なのだろう。ハルの実像ではなく、ハルに向けられた感情、憎悪の真実なのだろう。
(憐れだ……)
何があったのかは知らない。だが、おそらく一時期は最も仲の良かったはずの同僚から、こんな言葉で語られているハルが憐れでならなかった。今すぐ彼女のもとへ行き、オレはお前が好きだ、そう言ってやりたかった。目の前の女がどれ程の言葉を浴びせようと、もはやこの女に向ける言葉など存在せず、ただひたすらハルを守ろう、そんな頑な気持ちが支配した。
「いくら言ってもオレの気持ちは変わらんから、それだけは忘れるな!」
それだけ吐き捨てると、ボクは追い縋る女を乱暴に振り払い外へ出た。
いつも使わない最寄り駅に向かいながら、終わりだ、もう充分だ、なんだあの女は、などとブツブツ繰り返した。ハルの傍にいよう。それが自然だ。そう思った。
改札口でsuicaを探す。
(ん? あれ?)
…… 何も考えずに飛び出したせいで、suicaどころか財布も小銭もない。
(アホだな……)
笑えてきた。どんな深刻な場面でも、現実世界のリアリティは常につきまとい、決して物語のようには進まないことが笑えた。
(仕方ないなぁ…… 戻るしかないじゃないか、ハハ……)
駅からニヤニヤしながら歩いて戻るボクを、引き留めにきた妻は一体どんな気持ちで眺めていたのだろうか。
ついさっきまでのいきり立った感情は収まり、ボクはこの状態を斜め後方から俯瞰し始めていた。部屋に戻り着替えをして、カップ麺を用意した。
「いいよ、何か作るよ」
彼女は無言で台所に立った。手際よく食事の用意がされ、テーブルの上に並ぶ。その様子はこれまで疑うことなく眺めてきた現実世界のいつもの光景だった。
だが、その光景にかつて感じた幸福感など微塵も感じることはなく、淡々として平板な感情と時間があるだけだった。これがボクが手にしていた日常なのだ。当たり前の光景だったのだ。もし、ボクが疑問を差し挟まなければ、この先何十年も続いたはずの、これがボクにとっての日常だったのだ。
(これが幸せの姿だったのだろうか……)
目の前で繰り広げられている光景が幸せの欠片なら、そんなものは必要ないと思った。
この日常を手に入れるためにボクは彼女を選び、目の前の光景に幸福感と感謝を感じ続けるつもりだったのだろうか?
たったこれだけの事なら、そこにいる彼女が誰かに入れ替わったとして、それで何かが大きく変わるのだろうか? そんな疑念すら抱いた。彼女でなきゃならない理由はどこにあるのだろう? ボクである必要がどこにあるのだろう?
この光景を得んがためにここに留まって、ボクはこの先何を得るのだろう?
ボクに拘泥する彼女は、この光景に拘泥して何を掴むのだろう?
夫婦の幸福とは何なのだろう。あの写真の日から、ボクたちは何を求めてきたのだろうか?
こういう疑念を想起してしまうこと自体、不遜なのだろうか?
しかし、心の在り処を互いに見失ってしまった相手と、淡々と日常生活を共有する意味がボクにはわからない。住んでる場所などどうでも良かった。何を食べるか、何を着るか、そんなことに意味などなかった。
ボクが何を思っているのか、それに関心を向けてほしいだけだ。ボクがなぜハルに心を奪われたか、それを聞いてくれ。それを聞いてくれたら、ボクはここに留まる気がする……
だが、彼女はそのことには全く関心がない。きっとこの先いつまで一緒にいても関心が向くことはないだろう。手際よく家事をこなし、ボクのために食卓を揃え、きちんとした身なりにして送り出す、それが彼女にとっての価値なのだろう。
こんなことを思っているなどと知ったら、彼女は立っていられないほど絶望するだろうか? 絶望の挙句未来を見失い、ボクのことを諦めるだろうか?
ボクはどうしたいのだろう……
結局、彼女の用意した食事には手を付ける気にならず、ボクはカップ麺を半分啜ると、ソファーに横になった。
ボクが出ていかないことに安心したのか、彼女もその後は口を噤んだ。
お読みいただきありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。
ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回はこの日の翌日のこと、これまでと違って見え始める日常のことを描きます。
またお読みいただけると嬉しいです。




