22.感情を失くした顔
2週間ぶりに飲みに出かけたボクとハル。ボクの関心はハルが生理的に合わないという恋人と一緒に神戸に旅行に行ってしまうのかどうかでした。予約済みらしいから行くよと答えるハルにボクは失望します。
他方で、ハルが暴露する社内の好ましからざる関係は、ボクには衝撃的でした。そして何よりボクとハルのこともすっかり噂になっているらしいことに驚くのですが、そのことを気にする様子のないハルにさらに驚きます。
「キンちゃんが行くなと言えば行かないよ」
神戸行きのことをそう告げられたボクは酩酊するまで飲むのでした。そして…… ハルの部屋に向かうのでした。
翌朝、ボクとハルは途中まで一緒に出勤した。
完全に酔ったままで、もうどうにでもなれ、というやや捨て鉢な気分だったから、会社まで一緒でも良かったのだが、ハルが止めた。
「バカね、わざわざ話題を提供する必要もないでしょ?」
「隠すのも面倒くさいな……」
バカではあるが、それが偽らざる気持ちだった。ボクには悪事を働いているという気が全くない。ただ、色々面倒くさそうだ、という感覚しかない。
そんな気持ちもあって、いつもの時間に出社して、というハルの意見も聞かず、ボクは1本だけ遅い地下鉄に乗った。まだ、通勤する人影もまばらで、早朝のオフィスは意外と気持ちよかった。
ミネラルウォーターを2本、立て続けに飲んだあと、応接室のソファーで横になった。
朝から二日酔いでフラフラしていると、いいから寝てろと言われる。二日酔いでも遅刻せずに会社に到着すると、なぜか午前中は免罪符が与えられる、おおらかな職場だった。
応接室に戻って、携帯を眺める。きっと凄まじい着信履歴だと思うと、電源を入れる気にもならない。会社の電話から、自宅の固定電話に電話してみる。3度まで呼び出すことなく、マーちゃんが直ぐに受話器を取った。
「もしもし……」
「オレ。もう会社来てる。心配ないから。今日は早く帰る」
それだけ一方的に伝えると、返事を待たず受話器を置いた。
彼女は電話してくるだろうか? それは非常識だと思って留まるだろうか?
自分の非常識さは忘れて、彼女の常識に期待していた。
その日は結局、午後から暇つぶし程度に事務をこなして、定時で帰ることにした。
エレベーターホールで細山田に声をかけられる。
「なんだ、お前二日酔いだって? 誰と飲んだんだよ」
「学生時代のツレですよ…… あっさり一次会で終わるから、帰って女房の不機嫌な顔を見ながら飲み直しましたよ。終わるのが早すぎる飲み会は結局後を引くんですよ、アハハ」
「じゃあハルでも呼び出せばよかっただろうに。あいつ、付き合いいいから断らないだろ? お前の誘いだとしても」
細山田は意味ありげにニヤリと笑ったが、それに調子を合わせる気にもならなかった。
「じゃあ次回はそうします」
「アハハ、ハルがいいというかどうか、そこはオレには責任が持てないけどね」
「なんやねん、それ…… 」
これで細山田にも嘘をついたことになる。そう思うと、ちょっと気持ちが塞いだ。
国会議事堂前駅までの坂道が長く感じられた。
(どんな様子で待っているんだろう)
マーちゃんの様子を思うと、やはり気が重くなった。
また泣きつかれて、重苦しい時間を過ごすんだろうと思いながら覚悟を決めて帰ると、想像していた通り、ベランダからマーちゃんの顔が見えた。ただ、きちんと化粧した顔で、外出した様子が伺われた。
(そうか…… ボクは化粧を落とした遅い時間の彼女しか知らないんだ)
仕事を辞めたという話も聞いていなかったから、きっと日中は今まで通り仕事に出ているのだろう。そうすると、ボクには彼女の知らない顔がもうひとつあって、その顔とつかちゃんに電話をしている顔はなんとなく結び付くような気もした。
きっちり化粧した彼女の顔を見るのは久しぶりだった。頬紅のせいか、いつも見ていた顔より精気があった。
「おかえり。はやかったね」
彼女は思ったより落ち着いた様子で語った。
「もう帰ってこないかと思った」
「…… 」
「ハルと一緒だったんでしょ。嘘はつかないで聞かせてね」
何か、強い覚悟を決めている感じがした。
「ごめん……」
「いつかこうなると思った……
ハル…… 死ねばいいのに……」
彼女の目はちっとも笑っていなかった。狂気…… そういうものだった。
「ぶーちゃんは知ってるの? ハルの事」
「あんな女のどこがいいの?」
「みんな騙されてるって笑ってるのよ」
「あの子が河合と付き合ってて捨てられたの知ってるの?」
「そのあとすぐ、今度は違う男とくっついたんだよ」
「あの子がね、昔、企画の添田さんを追っかけまわしてたって話は有名なんだよ」
「添田さん、困って逃げ回ったんだよ。知ってた?」
「あんな女、あんな女…… 死ねばいいのよ!」
哀れだった…
そういう言葉を投げつけて、ボクがどんな感情を抱くのか、おそらくもう冷静に考えることを止めているのだろう。我慢に我慢を重ね、追いすがって、泣いて、毎晩眠れぬ夜を重ね、それでもいつか戻ってくるに違いないと一縷の望みを託し、毎晩ベランダから外を眺めた日々が、結局報われることなく最悪の結果を招来しようとしていることに、もはや、彼女は理性で物事を考えたり受け止めたりすることを止めたのだろう。
「別れないからね」
形容しがたい目つきの彼女、これまでに見たことのない顔の彼女が、まるで感情を失くしたかのように、冷たく言い放った。
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次回はボクが抱く日常というものへの疑念を描きます。
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