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21.ハルの感触

【前回のあらすじ】

痩せてやつれたマーちゃんの姿を見た義姉夫婦は驚きます。仕事が負担じゃないのか、どこか具合でも悪いんじゃないかと心配します。そして、その様子は彼女の実家を通じてボクの実家にも伝わるところとなり、翌週、田舎から両親が様子見にやってきます。

両親はなんとかふたりの関係を修復させようとするのですが、実際には何をどうすればいいかわからず、翌日には帰ってしまいます。

私がしっかりしないからこんなことになるのだと謝る妻マーちゃんをみても、ボクは優しく肩を抱くこともできず見放してしまうのでした。

 あれから一週間が経過した。


 ボクを取り巻く状況は一見、何も変わらないように見えた。


 ボクは遅くまで会社に残って仕事をした。ハルも以前よりおとなしく自席で仕事をしているように見える。部長を巻き込んで無駄口を叩くこともなくなった。これが当たり前といえば当たり前のビジネスシーンのようにも思えた。


 考えてみれば、ハルとは朝まで飲み明かしただけだ。一線を踏み越えたわけではない。ボクは止まった。寸前のところで止まった。このままおとなしくしてれば、いずれ何事もなかったかのように、元通りの生活が戻ってくる……



 …… なんてつもりはなかった。社内でハルとすれ違う瞬間、これまでより数秒長く視線が絡み合う。それだけで、ボクたちはお互いの意思を確認しあえた。



 週末、ボクはそうするのが当然のようにハルを誘った。


「今日、会える?」


「いいよ」


 たったこれだけの会話が、その時のボクとハルには必要で十分だった。




 新宿三丁目の改札で彼女と落ち合って、先々週と同じ店に入った。


 あの日以来、2週間ぶりにふたりきりで会うからか、お互い、どことなくぎこちない。


(ボクたちはどういう関係なんだろう?)


 ふとそんなことを思った。


 ボクたちは周囲にはどう見えているのだろう? デートならもっと気の利いた場所を選ぶだろうし、ここがただの同僚にはふさわしい場所だとしても、ふたりきりはちょっと怪しい。ひょっとするとハルは本当に恋愛相談をしているだけ? ボクは相談するに足る、信頼できる同僚? 


 「信頼」などという、ボクに最も似つかわしくない言葉を思いついて、知らず知らず笑えた。


「なに? ニヤニヤして」


 ハルはそんなボクを見逃さない。


「いや、考えたらボクたちは周囲にどう見えるのかなぁと思ってさ。アハハ、やっぱ恋愛相談をしている同僚なのかな?」


 先々週のことをハルがどう受け止めているか、本当のところは自信がない。ボクは冗談めかして探りを入れてみたのだ。


「そうかもね」


 ハルは他人からどう見えているのかなんて、全く関心がないようだった。



 当面、ボクたちに共通する関心事は、誰がマーちゃんにボクたちのことを入れ知恵しているかだが、その時のボクにはもっと聞いておきたい別の関心事があった。ボクたちは他愛のない会話で無駄な時間を過ごし、じゃあさようならと別れた後、またいつでも会える関係でもない。だから、ボクは思い切って単刀直入にその関心事を訊いてみた。



「今度の連休、神戸行くの?」


「行くよ。予約したって言うんだもん」



 サラダを取り分けながら、ハルは何の躊躇いもなくそう答えた。


(なんだ、自分だけが盛り上がってたのか…… そりゃそうだ、冷静に考えれば)


 落胆、失望、喪失、恥辱、赤面…… そういう単語が頭に思い浮かぶ。


「行きたくはないんだけどさ……」


 これ食べられる? みたいな顔でセロリをボクの皿に置きながら、ハルはひとこと付け加える。


 (ダメだ…… ひと言ひと言に一喜一憂してるよ…… 馬鹿だろ、オレ)


 そんなダメな自分を落ち着かせるように冷えたビールを一気に飲んだ。



 そこで彼女が急に話題を変える。


「そんな事より、マーちゃん大丈夫なの?」


「なんで?」


「追い出されるかもって言ってるらしいよ」


「誰に?」


「キンちゃんに」


「いや、誰から聞いたのかってこと」


「つかちゃんだよ、決まってるでしょ」


「…… 」


 言葉を失った。あの憔悴した顔、私がちゃんとしてないからボクに迷惑をかけると泣いた顔、ボクが知るその顔と、電話でまだ知り合ったばかりの、しかも、夫が会社で机を並べる女性社員のひとりに、ボクから追い出されると訴える顔と、そのふたつの顔がどうしても結びつかないのだ。


「マーちゃんってさ…… 結構したたかだよね、そんな気がする。

 あっ、ごめん。奥さんのこと、私がいう言葉じゃないね……」


 メニューから一瞬だけ顔を上げてハルが謝った。別に気にしなくてもいいのに。でも、したたか…… いくら何でもそれはないだろ。そう思った。信じられないのだ、ボクには。彼女ではない誰かが、話を途中ですり替えてる、そうとしか思えない。


(彼女のあの姿が芝居? )


 それは考えられない想定だった。

 今から捨ててしまうかもしれない妻なのに、妻が辱められてる気がして、なぜか不愉快だった。


 ボクは混乱した。どこに真実があるのか確かめられない事が混乱に拍車をかける。

 彼女に直接確かめられない事が悔しい。確かめた瞬間、それを誰から聞いたのだと逆質問され、ボクがハルと親密な話をしていると思われるだけだからだ。


「塚本の作り話だとしたら悪質だな……」


「つかちゃんって、恐ろしい女なのよ。知らなかったでしょ」


 二杯目の甘口サワーを飲みながら、彼女はさらに信じられない話をし始める。


「あの人ね、企画の正田さんと不倫してるんだよ。それを私が知ってるのが邪魔なんだよ、きっと」


「正田課長!? まさかだろ…… 」


 その名前に驚いた。大学の先輩だった。将来を嘱望された若い課長だった。不倫などという言葉の対極にいる人のように思っていた。


「嘘だろ…… どうなってんの…… 」


 ハルの暴露はまだ続く。


「江原部長とタカさんもだよ」


「タカさんって…… あのおばさん……? 」


「おばさん…… ハハハ

 江原さんなんか隠さないからさ、ああみえてタカちゃんはいい体してんだぞ、とか言うんだよ…… ったく、変態ジジイ」


「…… 」


「キンちゃんは知らないよね。関心ないだろうし」


「…… 関心というか、そういうのが身近に転がってるとは思いもよらないから」


「だから、私とキンちゃんも、そういう事なんだよ」


「えっ!」


「キンちゃんは私と付き合ってるって思ってる人、いるよ」


「マジで……?」


「いやなの?」


「だって、そういう事してないよな」


「…… 朝まで一緒にいて? ふたりきりでいて?」


「…… 」


「同じだよ。たまたましなかっただけでしよ?」


「平気なの? ハルは。そんな事言われて」


「うん」


「なんで」


「なってもいいと思ってるから」


「…… だけど神戸行くんだろ?」


「うん」


「じゃあ違うじゃんかよ。言ってる事が……

 からかうな」


「やめろと言われたら行かないよ。キンちゃんが行くな、といえば行かないよ」


「…… 」


「…… 」


 言葉が見つからない。ボクの頭の中に収まりきらない言葉が、僅かな時間の中にあまりに沢山飛び込んできて、処理能力を完全に超えている。


 その夜、ボクは飲んだ。正体不明になるまで飲んだ。ハルはどうだろう? そんなこと考えることができないくらい飲んだ。





 深夜、タクシーに乗った。

 彼女の腰に手を回し、抱き寄せた。

 彼女は素直にボクの肩に顔を埋めた。

 唇を重ねた。


 新井薬師前駅の近くでタクシーを降りた。


 彼女の部屋に入って抱き合った。





 その時の彼女の感触を、今でも時々思い出す……

お読みいただきありがとうございました。

いかがでしたでしょうか。

ご意見ご感想いただけると幸いです。


次回はハルと結ばれた翌日のことを描きます。

またお読みいただけると嬉しいです。

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