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20.偽善者

【前回のあらすじ】

始発電車までハルと飲み明かした朝、マンションに戻るとベランダには寝ずに待っていた妻、マーちゃんの姿がありました。彼女はボクの姿を見つけるや、階段を駆け下りてきて、ボクにしがみつくのでした。

ボクに纏わりついて一瞬たりとも離れようとしないマーちゃんに、ボクは何もしてやれないことを痛感します。いずれ、この女を捨ててしまうのだろうと思ってしまうのでした。

「…… ちょっと待ってね、訊いてみるから」


 徹夜明けでうとうとしていると、マーちゃんの話し声で目が醒めた。外は気持ち良さそうな秋空が広がっている。


 どうやら電話の相手は義姉のようで、奥多摩にでも出かけないかと誘われたらしい。マーちゃんはボクの顔を覗き込む。 


「行ける?」


 これまでの彼女なら、ボクの都合など決して訊かなかっただろうが、さっきまで、しばらく義姉の家に行ってくれ、いや行かないなどという話をしていたのだから、その義姉と会うのを瞬間的に躊躇ったのかもしれない。


 ボクはボクで義姉夫婦と出かけるのが億劫だったから、中途半端な生返事をしていると、彼女も面倒になったのか、珍しく姉の申し出を断った。


「…… ごめんね、仕事で徹夜だったんだよ。だから今日は家でのんびりしたいみたい……」


 彼女が電話を切ると妙に静かになった。時々、ガタゴトと電車の音だけが響く。彼女もソファーに横になったようで、時折窮屈な寝返りを打つ音がする。それ以外の生活音がまるでしないふたり暮らしの部屋は、人の気配がする分だけ妙に不自然な感じがした。




 夕方、土産の澤乃井を持って義姉夫婦がマンションを訪ねてきた。


「まぁどうしちゃったの! マーちゃん痩せすぎだよ!」


 玄関先でマーちゃんのやつれた顔を見るなり、義姉が驚いたように声を上げた。


「ちゃんと食べてる? ダメだよ、こんな痩せ方! きっと仕事が無理なんだよ」


 遅れて入ってきた義兄も、マーちゃんのやつれた顔には相当驚いたようで、ちゃんと病院で診てもらった方が良くないか、などと言い出す。ふたりとも善人なだけにやや過剰反応に思えた。


「ねえ、お母さんにしばらく来てもらったら?」


 義姉がとんでもない提案をする。ボクと義母の仲があまり良くないことを知っているマーちゃんは、この日初めていつもの笑顔になった。


「アハハハ、ぶーちゃんとお母さんがこの部屋に一緒にいたら、もっと痩せるよ」


「そっか。お母さんキツイもんね」


「すいません。うちの母がマーちゃんにキツイから、仕方ないんです」


 そうとでも言うほかなかった。



 義姉夫婦はボクたちの様子を気にしながらも、土産だけ置いて帰って行った。


 しかし、マーちゃんの様子はボクが思っている以上に深刻に映ったのかもしれない。義姉はこの様子を胸一つに収めておくことはできなかったようで、やがてその話は彼女の実家を通じてボクの両親の耳に入ることとなり、次の週末には両親がわざわざ様子見にやってくることになってしまった。




 田舎のことだ、ボクの妻イコール長男の嫁である。母は彼女には厳しい。お正月やお盆など、親戚縁者が集まる中、ボクと一緒にお酒を飲んで陽気に振舞う彼女のことを内心では苦々しく思っている。長男の嫁は万事に控えめで、呼ばれるまでは台所にいなさい、くらいの感じだった。


 一方、自由奔放ではっきりした性格のマーちゃんを父は可愛がった。我が家は父も祖父も婿養子。しかも母は4人姉妹の長女。明らかな女系家族の中で、素直に自分の言うことを聞く女性がおらず、これまでずっと肩身の狭い思いをしてきたところに、何かにつけお父さんお父さんと無邪気に接するマーちゃんを、父は実の娘より可愛がった。


 だから、どういう話し合いの結果かは知らないが、父が一緒というのは余計な揉め事にならず安心できそうな気がした。




 羽田に迎えに行くと、予想通り満面の笑みの父と、予想通り明らかに不機嫌な母がいた。


「いやな、TVで日光のことやっててな、そういえば母さんが行ったことないと言うから、それじゃあ行ってみるかという話になっただけだ。悪いが、お前、連れて行ってくれ」


 どう考えても取って付けたような理由を話し始める。


「えらく急だけど、ホテルとかとってあるんか?」


「いや。どっか取れるじゃろ」


「行楽シーズンだし、なかなか難しいかもな」


「いや、別にええんじゃ、日帰りでもな」


 突然の訪問がボクたちに負担をかけると不安になったのか、父は急に母の同意を求めるが、母は初めから知らん顔だ。


「ハハハ、日帰りって、今日の飛行機で帰るわけじゃないだろうに」


「まあ、厄介になるかな。すまんねえ、真紀さん」


「…… いえ」


 自分を可愛がってくれる義父のことを、マーちゃんはいつもなら飛びつかんばかりに大袈裟に歓迎したはずだ。しかし、今日はおとなしく、義母にとって好ましい嫁の姿を演じているかのようだった。


 さすがのボクも、今の彼女に嫁ぎ先の親の相手をさせるのは酷だと思った。それは、フラフラになった彼女に強力なカンフル剤を投与し、無理に立たせているような感じすらした。


「彼女も家事と仕事でフラフラだから、あまり無理な注文はやめてくれよ」


 言葉だけは優しい夫のふりをした。




 ボクは偽善者だ……




 ボクが彼女を追い込んでフラフラにさせているのに、そして、それを嫌というほど自覚しているのに、親には隠す。さも、いい夫であるかのように、言葉だけ優しくする。




(こんな言葉だけの優しさが、一体何の役に立つというのか……)




 もしこの時、彼女が両親に、実は彼には好きな人がいるんです、家にも帰ってこないんです、私は姉の家にでも行けと言われているんです、などと訴え出てくれたら、ボクの気持ちは、もっとずっと楽だったはずだ。


 だが、彼女は何も言わない。いつもよりおとなしい妻、黙って夫に従う妻のように見える。


 しかし、何も言わない彼女の姿こそ、ボクたちの危うさとして両親に伝わった。そして、彼女がおとなしい妻を演じれば演じるだけ、問題の深刻さも伝わっただろうと思う。





 結局、どこにも出かけず、両親は翌日の飛行機で帰ることになった。おそらく、自分たちの存在が息子夫婦の為に、なにひとつできないだけでなく、嫁をさらに追い込むだけだと気づいたのだろう。


 別れ際に、マーちゃんに厳しい母ですらいつになく優しい声をかけた。


「ごめんなさいね。この子がダメなのはこの私のせいだと思いなさい」


 母にしてみればこれが精一杯の思いやりの言葉だろう。自分の思い通りにしか生きてこなかったこの人が口にできる、精一杯のねぎらいだろう。しかも、ボクに対しても、もっと優しくしてあげなさいと言うくらいだから、マーちゃんの憔悴は誰の目にも明らかだったということだろう。


 父は何も言わない。マーちゃんに日光に行ったことがあるかなどと訊いている。ええ、と曖昧に応えるだけのマーちゃんに、どの季節に行けばいいだろう、名物はゆば料理だろうか? などと話しかけている。いつもなら、彼女が話しかけて、父はニコニコ聞いていることが多いのに、今は立場が逆になっているようだった。



 羽田で両親を見送った。父は心配そうに何度も振り返る。母はさっさと搭乗口に消えた。





 羽田からの帰りの車の中で、彼女は泣いた。ごめんなさいと詫びながら泣いた。私がちゃんとしてないから、ぶーちゃんに迷惑をかけたと言って泣いた。




 人を愛するということはどういうことなのだろうか。




 省みられず、放り出され、時々、取ってつけたまやかしの言葉で騙される…… それに黙って耐え、一切の見返りを期待しないことなんだろうか。


 肩を抱かれてもきっと温かみは伝わらず、今は平気で背を向けて寝る相手に、それでも自分が至らないと泣き続けなければならないほどのものなのだろうか。


 今ならまだ救える、彼女をまだ救える、何度もボクは心に確かめる。


 しかし、動けない。憔悴しきった彼女を横目で見ながら、車を止めて肩を抱こうともせず、心配ないよと優しい言葉ひとつかけるわけでもない……


 ボクはやはり最低の人間なのだ。

お読みいただきありがとうございました。

いかがでしたでしょうか。

ご意見ご感想いただけると幸いです。


次回はハルとふたりきりで飲んだ二度目の夜のことを描きます。

またお読みいただけると嬉しいです。

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