19.捨てる女
【前回のあらすじ】
ボクとハルは歌舞伎町の居酒屋で飲み始めます。そこは、西武新宿線を使う社員たちが時々使っていた場所のようでした。
そこで、ハルはひとり語りで失恋の経緯を話し始めます。それはボクが想像していたよりよほど残酷な別れ方で、ハルは話しながら涙を流すのでした。
その話の中に、意外にもボクの名前が登場し、不仲となった原因の一端がボクにあることを悟ったボクは、ハルとの関係を前に進める決意を固めるのでした。
その夜、ボクたちは始発が動き出すまで駅近くの喫茶店で話し続けた。酔った勢いで彼女を抱いてしまおうと何度も思ったが、その都度思い止まった。思い止まらなければどこまでも突き進んでしまう自分の危うさを知っていたから。
ボクは感情が入らないと女性を抱けない。逆に、感情が入ってしまうと止められない。生命体のオスとしては極めて不完全で理に適わない存在だと思う。たった一人の女性を求めてしまうのは、考えようによってはおかしなオスだ。ひょっとするとボクが求めているのは母性なんだろうかと思うこともある。割り切った付き合いができないのは、母親がこの世にひとりであるのと同じ意味合いを、誰かに投影し追い求めているだけなのかもしれない。
反面で、誰かを選んだ結果として誰かを簡単に犠牲にしてきた過去も思い出してしまった。そうだ、マーちゃんと付き合い始めるとき、あっさりアサミと別れたんだった。電話一本でなんの躊躇もなく……
(ひどい男だよ…… )
ハルと別々の始発電車に乗って、そんなことを考えた。ハルが恋人を目の前で奪われた時の痛みはあれだけ実感として感じられたのに、ボク自身が捨ててきた女性に対して、その痛みを想像できないのはなぜなんだろう?
ボクは罪悪感よりも、自分自身の中に生じる摩訶不思議な矛盾がどうにも理解できなかった。
ボクが今から向かうのは、かつて、この世にたったひとりの存在と思って互いを認め合ったはずの妻のもとだ。しかし、頭の中はもうすっかりハルのことで一杯になりつつある。今から帰ろうとしている部屋には、ひょっとすると出窓で膝を抱える人影があるかもしれない、その残酷さをまるで想像できないでいた。
中央線の駅を降りるとそこからは歩いて帰った。2キロそこそこの距離だから、本当は歩いて通えなくもない。なのに遠くて不便だと不満を述べた最初の日のことを思い出す。
人も車もまだほとんど通らない早朝、線路沿いの道を歩くと遠くにマンションが見えてくる。
思えば今住んでいるこの地に、ボクは何らの愛着も思い入れもない。毎日のように同じ電車で通勤している数多の人がいるだろうに、その誰とも見知った関係になっていない。ボクはどこまでいっても浮草のように儚い存在でしかない。
マーちゃんは、そんな地で唯一確かな存在だったはずなのだ。遠く離れた生まれ故郷からふたりで一緒にこの地にやってきて、本来なら寄り添い愛し合って暮らすはずだった。そういう意味で、彼女はボクのアンドロギュノスの片割れであったに違いない。ある時までは確実にそうであったと思う。
だが、今はそこが戻るべき場所という気持ちになれない。むしろ、ボクを縛り、自由をはぎ取り、苦痛を与え苦役を課す場所に思える。醜く痩せ衰え、おそらく今朝はボクに罵詈雑言を浴びせかける、間違った相手のいる場所。そんなふうにさえ思えるのだった。
悪いのはボクだ。彼女の知らぬ間に心変わりし、そこから離れようとしているのはボクだ。だが、そうであったとしても、それをボクはどう許しを乞えばいいんだろう。ボクの一時の気の迷いですとでも言って詫びればいいのだろうか?
それはできない。ボクは気が迷ったのではない。ボクは、本当のアンドロギュノスのもう一方を見つけてしまっただけだ。そして見つけてしまった以上、ボクはもう戻れない。この先、戻れないといい続けるしかない、そんな気持ちだった。
ボクはマーちゃんを嫌いになったわけじゃない。ただ、違うことに気づいてしまった。背中を合わせた時、寸分の狂いもなく当てはまる、本来のアンドロギュノスを見つたことの意味をどうやって伝えようか、そんなことを思いながら歩くと、案外すぐにマンションまで辿り着いてしまった。
単線の駅間にある電車の離合場所あたりまでくると、マンションのベランダの人影がはっきりわかる。ベランダに彼女の顔を見つけた。やはり…… 彼女はずっとそこでボクの帰りを待っていたのだろう。
相手からもボクの姿がはっきりと認められたのか、彼女は走って階段を下りてきた。痩せて折れそうな身体に、見るからにウエストのサイズが合っていないロングスカートを翻して走ってくる。
「ぶーちゃん、どうしたの!
心配したよ、心配したよ!
どうしたの、どうしたの!」
「うん…… ちょっとトラブルで…… 会社に泊まり込んだ。
上がろう、部屋に上がろう、お風呂に入りたい。眠い……」
「帰ってくれたんだね、ぶーちゃん、心配したよ、マーは心配したよ」
子供に戻ると、彼女は自分のことをマーと呼ぶ。すでに、私ですらないのだろう。
「うん。大丈夫だから。ほら、そんなにくっつくと歩けないから」
「ぶーちゃん、よかった。ぶーちゃんが帰ってよかった……
よかった…… よかった」
部屋に戻ると、台所のシンクに手を付けていない昨夜の食事が捨ててあった。飲みこぼしたコーヒーがテーブルクロスに染みを作っている。
取り込んだ洗濯物が乱雑に散らかっている。TVの位置が微妙にズレていて、リモコンが台所の片隅に放り出されている。
ボクはそれをひとつひとつ元の場所に戻した。シンクのごみを捨て、コーヒーカップを洗い、テーブルクロスを外した。
洗濯物をひとまとめにしてTVの位置を直し、リモコンが壊れてないことを確認してから、ソファーでネクタイを外した。
ソファーにどっと腰を下ろすと、目の前に教会の写真が目に入る。嫌でも目に入る。
美しい新婦、ややうつむき加減で長いドレスを少し引き上げて足元を確認するような仕草で写っている。新婦は彼女だ。
その横で、真正面を向き、カメラを見据えているボクは何食わぬ顔で立っている。
あれがボクたちだったのだ。みんな新婦らしい恥じらいと言うけれど、危うく足を踏み外しそうになっている彼女に手を差し伸べることのない、ボクの冷徹な姿が写っているだけだ。
そんな痛切な慙愧を知ってか知らずか、彼女はソファーの横に座ると、ボクのネクタイを外そうとする。
一瞬でもボクのことにかまっていたい、そうしていなければどこにも身の置き所がないかのようにボクに触ろうとする。
「マーちゃん! 自分でできるからやめて!!」
憐れんではいるのだ。ボクは彼女を憐れんではいる。もはや、冷静さを失って、ボクのことを好きかどうかも分からず、ひょっとすると、そこにいるのがボクかどうかも定かでないかもしれない彼女の仕草を見ていると、それだけでボクは神に罵られているかのような気分になるのだ。
「怒らないで、叱らないで、ぶーちゃんが好きだからだよ、マーは好きだからだよ」
「わかってるから、それはわかってるから…… 」
(ボクはこの女をきっと見捨てる…… )
わざとそう自分に言い聞かせた。
「ねぇ、マーちゃん…… しばらく仕事が忙しくなるんだ。帰りも遅くなるから、お姉ちゃんちに行ってくれない? 早く帰れるときは迎えに行くからさ」
嘘をついた。ありもせず、できもしないことを口にしていた。彼女から逃れたい。もう、ボクにはなにもできそうにない。ここに愛情もない。そのことを、彼女が感じ取ってくれないか…… そんな卑怯な自分に成り果てた。
「…… 」
とにかく、ボクは目の前の重荷から解放されたかった。瞬間的でもいいから逃れたかった。
お読みいただきありがとうございました。
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次回はボクたち夫婦の危うい関係に気づいた両親が上京してきた際の様子を描きます。
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