18.ハルの告白
【前回のあらすじ】
必要以上に付きまとうマーちゃんを煩わしく思ったボクは、会社から真っ直ぐ帰ることが少なくなります。その日も、細山田、ハル、まっちゃんと会社帰りに飲み始めます。
しかし、9時にはお開きになってしまい、中途半端に酔ったボクは、帰りの丸の内線の車内で、もう少し飲もうかとハルを誘うのでした。
新宿東宝ビルのあたりまでは覚えているが、その店がどこだったかを正確には思い出せない。店の入れ替わりが激しい場所だから、きっとその店も、いや、ひょっとするとそのビル自体も、今は丸ごとないかもしれない。とにかく、そういう場所にある普通の居酒屋だった。
「誰と来るの? こんな場所」
迷うことなく一直線にこの店に辿り着いた彼女を少しだけ訝しく思って、そう訊ねた。
「えっとねぇ、松崎さんとか。新宿線使う人と来るよ」
「そうなんだ。全然知らなかったよ」
「キンちゃんたちはもっぱら会社の近くだからね」
「そうだな。わざわざどこかに出かけて行って飲もうなんてことは滅多にないよ。あるとするとフジさんに誘われるときくらいかな」
「みんな帰る方向がバラバラだからね。新宿線の人は少数派だから、このあたりで隠れて飲んでるの、アハハ」
考えてみれば、同じ路線の者同士がなんとなく一緒になって飲んで帰るのはごくごく自然なことのように思えた。だが、ボクは身近にいていつも行動を一緒にしているメンバー以外が、会社帰りにどこで何をしているかなんてことに関心もなかったので、何か意外で新鮮な発見をした気がした。
「そっか、松崎さんなんかと飲んでるとは意外だった。仲よかったんだ?」
「う~ん、特別に仲がいいという訳じゃないけどね。
辞めた生田さんって知ってる? 松崎さんが生田さんを好きでさ、よく三人でここで飲んでた」
「ハルじゃなくて? お目当ては」
「そう、松崎さんは生田さんだったんだよ。それで、生田さんがひとりじゃ嫌だって言うから、私がついでに誘われるわけ、帰りが同じ方向だから、ハハハ」
「知らない世界だ」
「ハハハ、そうだよね、新宿線はマイナーだから」
「そうだなぁ…… 正直なところ、ハルに言われなきゃ西武新宿駅がどこにあるかもわからなかったかも」
振り返って考えると、ボクは単調な生活を送っている。営業とはいえ実質的な担当は1社しかなく、その本社と工場を巡回しているだけだから、使う路線も限られている。そもそもプラスチックの加工工場など都心にはなく、多くは北関東方面だ。だから、西武新宿線はボクの仕事では全く使うことのない路線だった。
「おとうさんは小田急線だよね。車両グループは…… 新宿線いないね。
あっ! いた! 臼井さん」
「ふ~ん…… 関係ないな」
この課長の名前が出るのは興ざめだった。どうもそりが合わない。そもそも、ボクが精工を担当していること自体が気に食わないらしい。知るか! そんなこと。
「あの人、嫌ってるよ、キンちゃんのこと」
「あ~、だろうな。それくらいわかるよ。いっつも嫌味なこと言うしな。何かにつけて、精工が~ 精工が~ って煩いんだよ、ったく」
「キンちゃんでもそんな愚痴言うんだね、ちょっと新鮮」
なぜかハルが嬉しそうに笑う。彼女はいつもニコニコしていたから笑顔は見慣れているはずだが、真正面からその笑顔をじっくり見ることはなかったので、少し気恥ずかしい。
「そっか?」
「うん、言わない感じしてた。冷静に、そこは違いませんか、っていう感じ」
「そっか…… すまん」
「いいよ、愚痴。キンちゃんなら聞いてあげるよ。
って余計か、ハハハ。マーちゃんいるしね」
彼女はボクとこうやって飲んでいて楽しいのだろうか? ふとそんなことが気になったりする。ボクは彼女を無理に引き留めているのだろうか? そろそろ解放すべきなんだろうか? そうは思うものの、気の重いマーちゃんとふたりきりの時間を考えると帰る気にもならない。
「家じゃ話さないよ。あいつじゃなくても話さないよ」
ボクは意識的にマーちゃんの存在を薄めようとする。しかし、会話は自然にボクの家庭のことに向かう。それは仕方ない。
「ふ~ん。じゃあ、キンちゃんって家の中じゃどんな話するの? なんかすごく興味あるな」
「なんだろ……」
少し考え込んでしまった。ボクは一体何をマーちゃんと話しているだろう。特に彼女の存在が気の重いものになってからと言うもの、それから逃れる方法だけを考えてて、あとは彼女と過ごした過去のことや、本当はハル、お前の事なんかを考えてるんだぞと言ってみようかなどと思ったりする……
ボクが答えに窮していることを察したのか、ハルは話題を彼女自身のことに転じた。
「今度の連休にさ、神戸行こうって誘われてる」
「うん」
それ以外、どう反応していいかわからない。
「もう予約してあるからって。結構強引だと思わない?」
「そのくらいでいいんじゃないのか?
だって相手が付き合いたいって言ってきたんだろ?」
努めて冷静に反応しようとしている。動揺を悟られず、かといって無関心でもないように、やたら神経を集中している自分に気づく。
「うん……、でもさ…… 合わないんだよね」
「何が…… 性格か?」
「生理的に」
「…… お前ねぇ」
あまりにあっけらかんと言うので、戸惑ってしまう。瞬間、ボクの目線は彼女の胸のあたりに移動してしまった……
「だってそうなんだもん」
「じゃあなんで付き合ってるんだよ」
「だって…… あの後だったし……」
「なんだ? その、あの後って?」
言った後でハッと気づいた。そうだ! 彼女は酷いフラれ方をした、そんな噂を聞いていたんだった。
ボクが急に言葉を飲んだからか、彼女は自分の方からその恋愛の顛末を話し始めた。
それは、ボクが想像しているより、もっとずっと彼女のダメージは大きかっただろうと容易に想像がつく内容で、いつも部課長連中に軽口を叩いているハルが、私生活でこんなにつらい思いをしていたなんてことは、全く想像できなかった。
「ヒドイよね~、まったく、ハハハ…… 涙出てきちゃった」
彼女はいつものように笑いながら、でも目に涙がいっぱい溜まったまま話し続けた。
「だから誰でもいいやって思ったところもあったんだよね」
「…… 」
何も言えなかった。言おうにも言葉が見つからないのだ。
目の前で恋人を奪われる辛さを考えると、彼女の痛みがどれほどか、息も付けぬ胸の苦しみ、それをなす術もなくただじっとしているしかない夜を思うと、かけるべき言葉を失うのだ。
「いいの、もう。あんなのが欲しいんなら、はいどうぞ、って感じだよ……」
そうやって自分を奮い立たせるしかないのもわかる。結局、失恋の痛手は他の何物も埋め合わせできない。時が経ち、遠く彼方のことになるまで、それに付き合うしかないのだ。
「あいつね、私がキンちゃんキンちゃんって話題出すたびにすごく嫌がったんだよ。キンちゃんって言うなって何度も言われたもん」
「…… 」
「だけどさ、キンちゃんはキンちゃんだし…… キンちゃんは…… 」
目の前でハルが泣いているこの瞬間を、ボクはどう受け止めたらいいかわからなかった。
会社のエレベーターホールで初めて彼女に出会った瞬間のことがフラッシュバックする。その時彼女に抱いた言葉にならない感情、これまで押し殺してきた感情、いくつもの記憶と感情が蘇った。
同時に、何となくわかっていた。少なくともハルがボクに無関心ではないことも知っていた。
だが、そんなこと、わかっていると言えるはずもない。
だけど…… この時のハルの涙と言葉が、ボクに当事者となる決心をさせた。
お読みいただきありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。
ご意見ご感想いただけると幸いです。
次回はハルと朝まで飲み明かした朝帰りの様子を描きます。
またお読みいただけると嬉しいです。




