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10.たったひと言

【前回のあらすじ】

かっちゃんの会が終わり、中央線の駅まで妻のマーちゃんに迎えに来てもらうボク。車窓に映る彼女の横顔を眺めながら、少しやつれたかなと感じています。

参加者のひとり、ボクと気の合う先輩のフジさんのことを嫌っている彼女が、そのことを口にします。ボクはこういうところに妻との微妙なズレを感じ始めていますが、彼女は気づきません。

そして車を降りる際、彼女は唐突にこう言います。

「…… ハルのことは好きじゃないから」

なぜ? 心の底を見透かされた気分になるボクでした。

 たったひと言が関係性を激変させてしまうことがある。


(ハルのことは好きじゃないから…… )


 聞き捨てならなかった。マーちゃんが放ったこの一言はボクには無視できなかった。


 なぜ、ハルだけを特別にあげつらう必要があるのだ? みっちゃんやまっちゃんだっていたじゃないか。それをわざわざハルだけ名指しして、わざわざ嫌いと言う必要がどこにあるというのだ? 何を見たというのだ? 何を知っているというのだ? お前にオレの心の奥底の何がわかるというのだ……


 とにかく腹立たしかった。


 バカだなぁ、ありもしない噂話を真に受けるんじゃないよ、などとかわす余裕などその時のボクにあるはずもなく、昨夜からずっとこの腹立たしさを抑えきれないでいた。


 だから、あれほど明確な拒否反応を、あの場面で口にしなければ気が済まなかったマーちゃんの気持ちに気づかない。ボクは、翌朝、いつにも増して不機嫌な顔だったはずだ。


 そのことに気づいているのかいないのか、彼女は努めて普段通りであろうとするが、ボクの言葉には冷淡で底意地の悪い含意が込められていた。


「送るよ、早くして」


「いいよ、朝はバスで行くから」


「どうして? 私は今日は休みだよ」


「でも、疲れた顔してるし、寝てればいいよ」


「…… 」


「今日はお姉さんちに行くんだろ? できるだけ、早く帰るよ…… 多分」


「…… 」


 わざと雰囲気を悪くさせるような言い方をした。仕方ない、そういうつもりだから。



「…… ハルが嫌いって言ったから?」


「ハハ…… 関係ないでしょ、そんなこと」


「気を悪くしてるんだったらごめんね」


「…… 」


「…… ごめんね」





「だから関係ないっていってるじゃん! 何度も言うな!」


「…… うん」


 思わず怒気を含んだ声になる。




 マーちゃんが何事もなかったかのように振舞えば、ひょっとするとハルのことはそれっきりになったかもしれない。ボクは素知らぬ顔で出かけ、まる一日もすれば、本当に何事もなかったことにできたかもしれない。そもそも、ボクはハルを可愛いとは思ってはいるが、自分のものにできると思ってはいないのだから。人あしらいが上手く、ボクの気持ちの在り処もきちんとわかってくれるいい子だけど、それ以上の感情など持つはずがない相手、持ってはいけない相手と思っているのだから。


 だが、マーちゃんは気にしている。ずっと気にしている。それがわかる。だから、ボクも無視できなくなる。



「言ったあとで気になるくらいなら言わない方がいいと思うよ」


 さらに冷たく突き放すように言ってしまう。


「…… 」



 もうやめればいいのに、ボクは日ごろから思っているマーちゃんへの不満をぶちまけてしまう。マーちゃんが無抵抗だから言い募ってしまう。


「大体さ、あの人嫌いとか言わないでいいじゃん。フジさんのこともさ、関係ないよね」


「…… ごめんなさい」


「いいよ、別に、マーちゃんの気持ちだもんね。素直な気持ちだもんな、あれが」


「…… ごめん」


 ひたすら謝る彼女を見ていると、理不尽に怒るボクは自分にも怒りが向き始め、どうにも収まらなくなってくる。


「大体いつも無神経なんだよ。人の気持ちとか考えたことあんのかよ」


「…… 」


「お嬢様なんだよ、上から目線なんだよ! 何もかもそうなんだよ!」


「ぶーちゃん…… 」


 そこまで言う必要は全くない。終いには捨て台詞を吐かざるを得ない。


「悪いけど、やっぱ何時に帰るかわかんないから」


「お姉ちゃんちでごはん食べないってこと?…… 」


 彼女はハッとして心配そうな顔を上げ、ボクの顔をじっと見た。

 その瞳は、最初に出会った時のまま、綺麗なままだ……


 その瞳がそれ以上の言葉は思いとどまらせた。





 この顔を、ボクは好きだった時期が確かにある。

 離さないと思った瞬間がある。

 好きで好きでたまらなかった時期が確かにある。

 初めて彼女と待ち合わせをしたあの日、車に乗り込んでボクをじっと見つめたあの綺麗な瞳は、何も変わってはいない。


 そんなことが瞬時に頭を過ると、何も言えなくなった。





「ごめんよ、マーちゃん…… 言い過ぎた。嘘だよ、ちゃんと帰るから」


「ぶーちゃん…… 」


 彼女は力なくボクにもたれかかった。ボクはそっと彼女を抱きしめた。


(ボクは何を言ってるんだろう…… )


(マーちゃんは何も悪くない…… )


 そう、悪いのは、何も知らない彼女にあることないこと吹き込むヤツだ。そう思い直した。


 だが、そう思いながらも、ボクはその日、マーちゃんにキスすることもできなかった。

お読みいただきありがとうございました。

いかがでしたでしょうか。

ご意見ご感想いただけると幸いです。


次回はマーちゃんに入れ知恵されたことを細山田に愚痴るボクの様子を描きます。

またお読みいただけると嬉しいです。

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ちかハナル作品集
★『ボクの選択』(縦書き)★

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