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つい先日のうだるような残暑は、気がつけば初秋の雰囲気に変貌していた。
頬に当たる風には、わずかに冷気を含む。
彼――日本でも有数のロック・アーティスト、篠乃宮慶司――と初めて関係を持ってから、早半月を過ぎ……そして関係は、まだ続いていた。
彼とは、多いときで週3回、会っている。
彼から求められることもあれば、私が求めて会うこともある。それは概ね半々の割合だった。
連絡はいたってシンプルだ。
携帯に、会いたいときに互いにメールをする。それだけ。
都合が悪ければ返信が来る。返信が来なければOK。
メールでのやり取りすらも、必要最低限に抑えられている。
それでも私には、このメールアドレスがたったひとつの希望、命綱のようなものだった。
* * *
――連絡先、教えてくれる?
関係を続ける、と答えた私に彼はそう言った。
3本目にあたる煙草を咥えながら、素っ気無い声で彼は言ったのだ。
服を身に着けていた手を止め、私は彼を見つめる。
――名刺、渡しましょうか?
カチリ
物静かな室内に、ライターを点ける音がやけに大きく響いた。
――……ケイタイのアドレス書いてある?
――はい。
――じゃあそれでいい。
言うと、彼は深く紫煙を吸い込んだ。溜息交じりでそれを吐き出す。
衣服を身につけ終え、簡単に身支度を整えてから、私は鞄の中から名刺入れを取り出し、その中の一枚をサイドボードに置いた。
名刺を一瞥することもなく、彼は煙草をふかしながら
――必ず連絡するから
短く言うと、それですべての用件は終わった、というように背を向けた。
私はその背中に軽く会釈をし、彼の部屋を後にする。
セキュリティーが万全なマンションのエントランスを抜け、外へ出た。
……外は午後の微眠の中だった。
気怠い雰囲気が漂う住宅街を抜け、駅へ向かう。
昨日入った店とは、徒歩で5分もかからない距離だった。
わずかにざわめく駅前の商店街を抜けて駅へ着くと、緊張の糸が切れたのか、膝がガクガクと震えていた。
その後、どうやって帰宅したか覚えていない。
殆ど無意識で電車を乗り換え、帰宅していた。帰宅後も、虚脱感に襲われた。
あまりにも現実離れしすぎた現実が身の周りに起きたせいか、思考能力は完全になくなっていた。
もしかしたら・・・・・・夢だったのかもしれない。
そう考えるようになったのは、翌日の仕事の準備をしていたときのこと。
あぁ、また明日から仕事が始まる・・・と憂鬱な気分を味わいながら着ていく服を選びつつ、たった2日前の出来事が嘘のように思えてきたのだった。
それを打破したのは・――現実だと認めざるを得なくなったのは、1通のメール。
消音にしていた携帯がテーブルの上で小刻みに震え、メールの着信を告げる。
メールを確認すると、件名に『篠乃宮です』とあり、本文にはただ短く『これが僕の連絡先です』とあった。
(本当だったんだ…夢じゃ、なかったんだ……)
まず真っ先に思ったのは、それが現実だったということに対する驚き。
夢ではなかったという事実を、この1通のメールは確実にしてくれたのだ。
・・・・・・携帯を持つ手が震えるのが、自分でもわかった。次いで膝も震えてくる。
震えは次第に、全身に渡った。
私は何度も携帯の画面を見返した。何度見ても文面は変わらない。
その当たり前のことに私はようやく、先日の出来事を現実として受け止めることができたのだった。
震える手で、返信をする。
一文字一文字、とても時間をかけて『メールありがとうございました』とだけ入力し、送信をした。
しばらくして、やはり短く『明後日の夜ウチに来てください』とメールが送られてきた。私は了承する旨の返信をするのがやっとだった。
(どうしよう……)
メール送信のボタンを押してから、私は事の大きさに愕然とし始めた。
本当のことだったという驚き、喜び。
体の震えは止まらない。私はしばらくの間、ずっと携帯の画面を見続けていた。
* * *
――2日後。
私は再び彼のマンションを訪れた。
駅の改札を通り、商店街を抜け、閑静な住宅街の奥まった場所に彼の住むマンションはある。高級そうな…とはわずかに言い難い、ごく普通の15階建てのマンション。
その最上階の角部屋が彼の部屋だった。
エントランスに入り、インターフォンで彼の部屋番号をプッシュすると、くぐもった声で応えの声があった。
「私です」
名乗ろうかと悩みつつ、それだけを言うと無言が返り・・・・・・静かに眼前の自動扉が開く。エレベーターに乗り、15階に着くと角部屋までの廊下はとても長く感じられた。
静まり返った廊下に、私の靴音だけが響く。
部屋番号を確認し、インターフォンを鳴らすと少しの時間の後、扉が開かれた。
わずかに開いた扉の奥で、長身の彼が顔を覗かせる。その、何気ない仕草を見て心なしか気分が和んだ。
「入って」
短く言うと更に扉を大きく開く。
「お邪魔します」
扉の隙間に体を滑り込ませるようにして私は室内へ上がりこんだ。
部屋の中は、2日前に訪れたときとさほど変化はなかった。
わずかに篭った空気に混じる煙草とアルコールの臭い。
「なにか飲む?」
「・・・・・・お構いなく」
「そう。適当に座って」
ソファを指し示して促され、私はソファに腰を降ろす。
「とりあえず・・・・・・コレ」
向かいに座った彼が徐にテーブルに載せたのは、鍵。
問う前に煙草に火を点け、一服をはじめてしまったその顔を私は凝視した。
(合鍵・・・・・・ってこと、かしら?)
そうとしか考えられなかった。
深く紫煙を吐き出してから彼は言う。
「一昨日はちょっと冷たい態度ですまなかったと思ってる。どういった経緯であれこういうことになったのは・・・割り切りの関係も必要だけれど、できる限りで誠意は見せておきたいと思ったから、渡しておく。これからはコレを使って入ってきて。一応マネージャーにも話してある。あまりいいカオはされていないと思うけれど特に何も言われなかったから問題ないと思う」
そこまでを一気に言うと、残り少なになった煙草を軽くひとさしし、灰皿に押しつけるようにして揉み消した。
「・・・・・・」
どう反応していいかわからなかった。
「ありがとうございます」
そう返事をして鍵を受け取り、その場でキーホールダーにつけた。
金属の触れ合う冷たい音が耳に響く。
「連絡して、OKなら勝手に部屋にあがってくれて構わないから」
「わかりました」
キーホールダーを鞄の中に収めながら私はそう返事をして、それからどうしていいかわからず、所在なげにただ、部屋を見回すことしかできなかった。
・・・・・・締め切ったカーテンから漏れるわずかな光。
灰皿から立ち昇る紫煙と、煙草の臭い。
(それで・・・・・・どうすれば・・・・・・?)
私には、どうすればいいのかわからないことだらけだった。
そもそも今目の前で起きていることが現実として認識できずにいる部分が多い。性質の悪い夢でも見ていると思ったほうが気分が楽だと思える程の珍事。
『事実は小説より奇なり』という言葉がこれほどまでにしっくりくることはない、というような出来事だった。
「・・・・・・どうする?」
突然囁かれた言葉の意味が私にはわからなかった。
「先にシャワー浴びる?」
意を察し、私は頷いた。
一度転がった石は、どこまでも転がり続ける――。
そう、感じた。