007 トイレの鍵は、便座に座る前に壊れていないか確認しよう。
「なるほど、こーゆーことな」
と美咲がなったのは、バレエ教室で先生にあいさつすることになってからで、「はじめまして、服部愛子です」と言われたときは、驚きよりも納得が勝った。
「だから、母に会うことになるって言ったじゃないですか」
「おー……だな」
「律子、しゃべっていないで、早くストレッチに行きなさい。里谷美咲くんでいいのよね? バレエの経験は?」
矢継ぎ早にされた質問に、美咲は、つっかえつっかえ答える。なんでこんな、無駄に早口なのか。きのうの指導のときほど大声ではないが、声量も多く、一言一言が鋭い。これが、この先生の気の強さと、きつい印象を裏付けることになっている気がすると、ぼんやり美咲は思った。
「あー……あの、せんせ」
一通り、知りたいことは聞けたのか、「そう」と言って、マシンガンみたいな口をようやく閉じた先生に、美咲はぎこちなくそう呼びかけた。普段から担任の日下でさえ〝日下〟と呼んでいるからか〝先生〟と呼びかけるのに言いようもない居たたまれなさを感じる。
「呼びづらいなら〝愛子さん〟でも、かまわないわ」
「あ、あざっす。……その、愛子さん」
「なにかしら?」
「……おれなんか、入れてもいいんすかね? おれ、バレエに関してはなんも知らねぇし。まだ、やるって決めたわけでも」
「いいんじゃないかしら。だれでも最初から、なんでも知っているわけじゃないでしょう?」
「そりゃ、そっすけど……」と、美咲はどもった。
どうにも美咲は、この女が苦手だ。下手をすれば服部よりも、取っつきにくく感じているかもしれない。自分よりタッパがあるのも一因かもしれないが、口調も丁寧なわりには威圧感があって、非常に居心地が悪い。見下されている気分になるのだ。「おれはヤンキーじゃねぇっ」と言いつつも、美咲の中に眠る反抗心と好戦的な血がむくむくと沸き立ってくる。
「一応、練習のときはレオタードを着てもらっているんだけれど、君はいいわ。……その学ランの下、なにを着ているの?」
「や、ふつうにTシャツっすけど」
「じゃあ上はそれでいいわ。下は持ってきている?」
「ハーパンなら」
「そう。別に下もそのハーフパンツでかまわないのだけれど、パンツの下にタイツだけは履いてちょうだい。いま予備をわたすから」
そう言って差し出されたのは、真っ白いタイツだ。よくよく見れば、五本指のところが切り取られ、指がひょっこり出る仕組みになっている。
「愛子さん、これ……穴開いてますけど」
「滑り止めみたいなものよ。いいから、さっさと着替えてちょうだい。おわったら、律子にストレッチの仕方でも聞いてもらえる?」
問答無用で美咲は、トイレの個室に押しこめられた。ここで着替えろ、ということだろう。
スタスタとせっかちな足音が遠ざかっていって、美咲は本当に一人になった。
トイレは、やはり女ばかりの教室だけあって、花柄のマットレスに、色と匂い付きのトイレットペーパーが置いてある。ファンシーな空間だ。そのカラフルさが目に痛い。
「くっそ、落ち着かねぇ」
無性に自分の家のトイレが恋しい――かとも思ったが、よくよく考えてみれば、乙女思考で頭が年中お花畑(だと美咲が勝手に思っている)母さんが、トイレの内装を四つ葉のクローバーやら暖色系のストライプやらにころころ変えているせいで、自宅のトイレも落ち着ける場所とはほど遠かった。やっぱり自分の部屋が一番だ。
とりあえず制服は脱いで、上はTシャツ、下はパンツ一枚になったところで、渡されたタイツに手を伸ばしてみた。履き方はわかる。母さんが毎朝、リビングで堂々とストッキングを履く姿を見ているからだ。絶対母さんは、美咲を息子だとは思っていない。
『美咲、しょっちゅう女物のお洋服とか着せられて、いつも、着せ替えのお人形さんみたいだもんね』
『あの女、自分で生んどきながら美咲のこと、娘と勘違いしてんじゃねぇの?』
「嬉しくねぇよ!」
茶化すちび美咲どもを一括して、素早く美咲はタイツに足を突っこんだ。さっと上までたくし上げて、手早くタイツを履きおえる。なんだかトランクスがたごまるが、「そのうち慣れんだろ」と、腹回りのゴムを終了の合図みたいに、ぱちんと鳴らした。
「あとは、ハーパン履いておわりだなっ」
便座の上に座っていた体勢から立ち上がって、美咲は、わずかにめくれあがっていたTシャツを軽く前傾姿勢になって下に引っ張る。そのとき事件が起こった。
がちゃ、と軽快な音が個室に響いて、トイレのドアが、ぱたりと開く。
「へ?」
「え?」
くりくりした大きな目が「え?」と、あっけにとられたように、美咲のことを凝視していた。
美咲は美咲で、まさか、鍵は締めたのにドアが開くとは思っておらず、驚きすぎて固まっていた。いや、開いちまったんだから締め忘れたってことなのか? まさか、そんな。
「いや、考え直せ、美咲」
と、だれかが言った気がした。そうだ、もしかしたら、前提が間違っているのかもしれない。これは、鍵を締め忘れたうんぬんの話ではなくて、きっともっと根本的な問題の話だ。
つまり、目の前の少女が、鍵のかかったドアでも簡単にこじ開けられるくらい怪力だった、という可能性について、検証してみよう。
『って、んなわけあるかぁぁぁぁ!』
心の中で、美咲は自分にノリツッコミした。そうとうに混乱している。
『んな、ゲームキャラみたいな女、現実にいるかよ! 可憐な見た目だけど実は怪力って、ギャップ萌え、狙いすぎにもほどがあんだろっ』
正直、そのトイレのドアをこじ開けた少女は、なかなかに可愛かった。痩せているとは言いがたいが、ほどよい肉づきの良さで、小柄。胸は豊満だし、動くたびにツインテールが揺れて、小動物を彷彿とさせる。
「こんな女が、ドアぶち破れるか?」
自問自答して、「いいや」と、美咲は首を横に振った。やっぱり、驚きで頭が湧いちまったんだ。
『だーるーまーさんがぁ、転んだ!』
唐突に、天使みさきの間延びした声が、脳裏に響いてきて、悪魔みさきと天使みさきが、二人『だるまさんが転んだ』をやっている情景が目に見えた。ある意味、現実逃避だ。事態に美咲のキャパがオーバーして、ついに、ちび美咲たちが、昔ながらの遊びを二人でし始めた。
『おまえらっ、いいかげんに』
「きっ」
少女が声を漏らしたので、美咲は我に返った。いけない、完全にぶっ飛んでいた。
一応、どう反応していいかわからなくて、「き?」と、おずおず聞きかえすと、少女が大きく息を吸いでかい胸がさらに膨らむのと、整った鼻梁が勢いよく鼻血を噴射するのが、スローモーションみたいに映った。
「きゃあぁぁぁぁぁ!!」
絹を裂くような女の奇声ってやつを、美咲はきょう、初めて聞いた。しかしそれ以上に、この女の鼻血を噴射するポイントがいつどこにあったのかさっぱりで、美咲はとてもビビッていた。
女という生き物は、美咲が思っている以上に得体が知れず、理解不能な生命体だった。
「お、おれ、ど、どうしたら」
とにかく美咲はいま、パニック状態だ。なんとかパーフパンツは履いて、ひっくり返ってしまった少女に駆け寄ろうとしたら、それより先に電光石火のごとき速さで別の女がトイレの中に駆け込んでくる。
あまりの勢いのよさに、ぶつかった美咲は、跳ね返って便座の上に逆戻りした。このとき、「どんだけみんな、トイレに切羽詰まってんだっ」と思った美咲を、だれも責めることなど、できないだろう。
「美咲くん! 平気ですか!? 姫子に変なこと、されてませんか!?」
「てめぇは心配する相手まちがってんだろ! つーか、変なことってなんだよっ」
弾かれたのが服部だと認識する前に、美咲は彼女のセリフが聞き捨てならなくて思わず叫んでいた。いまのは完全に立場が逆だった。美咲が『トイレを覗かれた、いたいけな少女』ポジションだった。
「まあまあ。静まりたまえー、鎮まりたまえー」
「……服部ィ……」
「すみません! 実はここのトイレの鍵、壊れてるんですよね。まあ大丈夫かと思ったんですけど、まさか姫子が開けるとは……彼女も壊れていること、わかっていたはずなんですけど。美咲くんに心の傷を負わせてしまいましたね」
「負ってねぇよっ! けど、まぁうん、そういうことなら」
怪力少女じゃなくてよかった。美咲はとにかく安堵した。
「でも本当に平気ですか? なんにも、されてませんか?」
「大丈夫だっつの! そ、それより……そっちの女のほうがへーきなのか? なんか伸びてっけど」
「ああ、姫子なら放っておいて平気です。持病みたいなものですので」
「持病?」
よくよく見わたせば、確かにみんな「またかー」って顔して笑っている。深刻そうな様子は欠片も見られない。
「そう、持病です」
服部は、神妙そうに頷いた。
「〝ちいさいもの、可愛いもの大好き病〟です」
「…………服部、てめぇ……」
「お察しの通りです、美咲くん。この場合の、ちいさくて可愛いものは、ズバリ! 美――」
「言わんでいいっ! くっそ、バカにすんのもいい加減にしやがれっ、ゴラァ!」
「あははっ」
「あっ、てめっ、逃げるな!」
拳を振りあげて、ぎゃんぎゃん喚く美咲と、陽気に笑って逃げる服部の構図。
追いかけっこが、ようやく収まるころには、美咲はゼエゼエだった。たいして、服部はタフにもほどがある。息一つ乱していない。やつの体力は底なしだ。
「バレエで鍛えてますから」
心を読んだみたいなタイミングで、服部からの解説が入って美咲は肝を冷やした。エスパーがいる、エスパーが。
ところで、服部を追い回して走っている最中、美咲は終始、奇怪な音を聞いていた。パシャパシャという軽い音。もの凄い勢いで連写されるシャッター音にも似た音。それが、復活した鼻血少女の構える携帯から鳴っていたとは、美咲は死んでも信じない。
ああっ、だれか違うと言ってくれ。