005 これを世界征服と言わずして、なんと言う。
――一時間目は数学で、二時間目は古典だ。
「里谷、つぎ」
国語教諭の坂東の平坦な声に、
「……うす」
と、これまたやる気の欠片も感じられない返事をして、美咲はのろのろ立ち上がった。
教室は、数学の授業のガヤガヤした騒がしさから一変、静かなものだ。おおかた、クラスの半分以上が睡魔という名の生理現象に抗えず、本能のままに惰眠を貪っているのだろうが、この静寂は、さらに眠気を誘うのではないかと、美咲は常々思っている。
視界にはいった窓から、真っ白い雲と青い空が見えて、美咲は無性にあの青空の下に飛び出したくなった。窓枠に手足をかけて映画みたいに、こう、ぱあっと。
呆けていたら間髪入れずにうしろから軽く椅子を蹴っ飛ばされて、美咲は我に返った。だれが蹴っ飛ばしたかなんて、もうわかりきっている。真太郎が「よそ見すんな」と言っているのだ。
蹴られた木造りのボロい椅子が床と擦れて、キィと耳障りな音を立てる。しかし、そのおかげで、美咲の一つ前の席で舟をこいでいた山田が覚醒した。きっといまので起きられなかったら、つぎ当たるのは彼だっただろう。
坂東は、特別寝ている人間を注意したりはしないが、授業中に優先的に指す傾向がある。そして答えられなければ、課題なり資料運びをさせるのだ。たまったもんじゃない。美咲もそりゃあ何度もやられた。
『でも……古典って難しいから、少し眠くなっちゃうのは、しょうがないよね』
いまの、この天使みさきの発言を、ぜひ坂東にも聞かせてやりたい。
「20ページ目の和歌。読んでみろ」
無機質な坂東の声に促されて、美咲はようやく手元の教科書に目を落とした。きょうから紫式部の『源氏物語』にはいる。まずは、前書きらしき枠外の、ちいさく書かれた歌を目で追った。
「……めぐりあひて、見しやそれともわかぬまに、雲がくれにし夜半の月かな」
この歌を美咲は知っていた。どこで聞いたのかは定かではないが、不思議とこの歌を聞いたことがあると思い出したとき、ぴったりだと思った。
それはきのう美咲が出会った、バレエそのものだった。初めてのはずなのに、久しぶりにじいちゃんの家を訪れたときのような、懐かしい感じが似ている。
「ひさびさに逢って見たのがその人なのでしょうか、はっきりとわからないうちに、雲隠れした夜中の月のように、姿を隠してしまいました。友とのつかの間のめぐり会いの、なんと名残惜しいことでしょう」
訳まで読んで、美咲は座った。間髪入れず、解説を入れてくる坂東のテノールは、なんだか喫茶店で流れている洋楽のBGMのようでもあって、ひどく落ち着く。眠たくなる。
「――である。この歌は、旧友との再会を詠んだものだが、度々、恋人たちの逢瀬の情景と間違えられることが多く……」
「ふぅん」
と、気乗りしない相槌を打ちながら、美咲は、ぼうっと頬杖をついて、漂浪する雲を眺めた。――恋人。逢瀬。そして夜の煌々と輝く月。
歌から得られる一場面をなんの気なしにイメージしてみたら、すぐに美咲の脳内は、きのうの夜むりやり連れていかれた、あの教室で見た服部のダンスでいっぱいになった。
あとから聞いた話だが、あのとき踊っていたものは、『かぐや姫伝説』をモチーフにしたものらしい。竹やぶをかき分け、みんなのど真ん中で舞う服部は、たしかにほんものの、かぐや姫のようだった。清く澄んだ小川の流れのように、澱みなく廻り、跳ぶ。ときおり見せる彼女の扇情的な視線に、美咲は戦慄しっぱなしだった。
怖かった。そして同時に、彼女はとても美しかった。
息をするのも忘れ、すっかり見入っていた美咲に、練習が終わったあとの服部は、
「いままでのはなんだったんだっ」
と言いたくなるくらいに、静かに笑った。そこには、美咲を馬鹿にしたり、からかったりする様子は、欠片も見受けられなかった。
『わたし、バレエは、見ている人を自分の世界に引きずりこむことだと思うんです。さっき、美咲くんが見た場所はただのアパートの一室で、キラキラ輝くステージでも、ましてや月光が惜しみなく降りそそぐ、竹林の中でもなかった。それでも美咲くんは、わたしの踊りから月の姫の姿を見たんじゃないですか?』
別れ際、服部は、美咲に背を向けたまま、そう言った。
電灯の心もとない明かりだけの暗い夜道で、自転車のハンドルを握ったまま、服部は空を見上げていた。
『踊ってさえいれば、わたしたちは、観客と一緒に別の世界へと、旅ができるんです。たとえ一瞬だけでも、タイムリープだって、できちゃいますよ』
『…………』
『ねえ美咲くん、これを世界征服と言わずして、なんて言うんですか?』
「鈴木、つづきから呼んでくれ」
真太郎が当たって、美咲の思考は、きのうの晩からようやく現在に戻ってきた。真太郎の流暢な古文が、ときおりメモを取るシャーペンの乾いた音と不協和しながら教室の中を巡っていく。
「……やりたいとか思っちまってねぇよな、俺」
呟いてから、そのあとすぐに美咲は盛大に顔を顰めた。冗談だろ、あれだけ抵抗あったくせに、服部のダンスを一度見ただけで興味持っちまうなんて。
「うん、気のせいだな、気のせい」
無理やり結論づけて美咲は、くわっと一つ欠伸する。窓から差し込む陽光が気持ち良くて、うとうとしてきたので、机に伏せってしまったら再び椅子の脚を蹴っ飛ばされた。
『真太郎のヤロー……寝かせない気だな。くっそ、立ったまま小突くとか器用かよっ』
恨めしげに整った顔を見上げれば、真太郎は音読の合間に、にやっと口角を上げてアイコンタクトを取ってきた。
『寝んなよ、授業わかんなくなるぞ。あとでどうせ俺に聞いてくんだから、せめてノートぐらいとれよ……つーか俺が当たってるときに寝るとかズルすぎ! させるかっつーの!』
『うっせ!』
んべっ、と舌を出して睨み上げれば、何事もなかったかのように、つん、とあごを反らされた。鋭く舌打ちして、美咲は前を向く。
美咲の真横に座る大人しそうな女子が、その舌打ちに驚いて、「ひっ」とちいさく怯えた声を漏らしたのを内心申し訳なく思いながら、美咲は嘆息した。真太郎は肝が据わってるから、舌打ちや、たとえガラ悪く胸を掴み上げられたとしても、きっと飄々としている。
美咲のダチはそういうやつばっかりだった。だからそれに慣れすぎて、すっかり美咲は不良臭い仕草が癖になっている。
「あー……くそ」
女子と言えば、服部は初めて会ったときから、他の女子のように美咲を怖がることはなかったなと思う。むしろ、かなり馴れ馴れしかった。
「どこかで会ったこと、あんのか……?」
首を捻るが、それらしい記憶は思い当たらない。むしろ、
『これを世界征服と言わずして、なんて言うんですか?』
気を抜けば思い起こされる昨晩の服部の凪いだ声にうんざりして、美咲は記憶を漁るのをやめてさっさと匙を投げた。簡単に美咲の脳内を占拠してしまう彼女の存在が忌々しい。
また舌打ちする。
「うるせぇ……俺はやらねぇっつってんだろ」
そうは言うものの、美咲は本能的なところで自覚していた。どれだけ意識下で否定しても、確かに彼は、バレエと、そしてバレエを愛する彼女に惹かれている。一目惚れ、とも言えるかもしれない。
教室に響く真太郎の涼やかなアルト。耳触りの良い彼の声も、美咲の胸の奥できのうからくすぶって仕方がない、好奇心の権化とも言うべきそのちいさな星を静めるまでには至らない。
真太郎が読みおわるのと同時に、授業終了のチャイムが鳴った。