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003 「あなたと踊ってみたかったんです」

「美咲くん? 美咲くん、うとうとしないでください。そんなにわたしのテク、良かったですか?」

 なんだかまぎわらしい言いまわしに、美咲は眉をひそめてゆっくり目蓋を持ち上げた。ここがベッドなら、完全にピロートークだ。『あっはーんっ』と、マットレスに寝そべった天使みさきと悪魔みさきが、セクシーポーズ(+ウインク付き)でこっちを見てきて、美咲はぞっとした。

「おれでなんつーことしてんだっ」

 と、脳内で二人を一括して、わずかに前傾姿勢だった体を起こしたところで、ようやく彼は、自分が居眠りしていたことに気がつく。ほんのり額があったかいのは、きっと服部の体温が移ったからだ。

「よく不安定な自転車の上で寝れますね? 無償で背中を貸してあげた、わたしに感謝してください」

 そんなことを言いつつ、「早く降りてください」と、尻を叩かれる勢いで追い立てられて、美咲は慌てて飛び降りた。ふわぁっと欠伸を一つして、固まった体をゆっくりほぐす。なんだかよく眠れた気がした。自転車の上なのに不思議だ。

 無意識に制服の袖で口元をぬぐっていたら、それを目ざとく見つけた服部が、そのきれいな曲線を描く眉をわずかに跳ね上げた。

「よ、だれ、垂らしたんですか……わたしの背中に!」

「んなわけねぇだろ! 癖だよ癖っ」

「そうですか、それはよかった。まったく驚かさないでください」

「おまえが勝手に勘違いしたんだろ!」

「それもそうですね、すみません。でも、美咲くんのよだれって一部の人にはご褒美になりそうですよね」

「おいやめろ、言うな……っ」

「寝顔の写メ、撮れればよかったですね。きっと高く売れたでしょうに。知ってます、美咲くん? 美咲くんのファンクラブがあるんですよ。まだ入学してニ、三ヶ月しか経っていないのに、なかなか美咲くんもやりますね」

「言うなって言ってるだろぉぉぉぉ」

 美咲の脳裏に、小学校時代の恐怖体験が甦る。そのころ喧嘩っ早かった美咲は、同級生のガキ大将たちだけでなく、上級生にも何人か目をつけられていて、昼休みや放課後に呼び出されては、取っ組み合いをしていた。その中でも、一番体も大きくて腕っぷしも強かった一つ先輩の結城とは、よく殺りあっていて、当然美咲は、「結城は、おれんこと嫌いだから突っかかってくるんだろーな」と思っていた。

「でも、違ってたんですよね? 当時、小学六年生だった結城要先輩は、美咲くんのことを女の子と勘違いしていて、ずっと『好きな子に好きと言えなくて、どうしてもいじわるしちゃうっ』と、美咲くんに喧嘩をふっかけていた。小学生ぐらいだと、女の子でも気の強い子ってけっこう多いですから、まあ……ありえなくはないです」

「ありえねぇよ! おまえも自信ねぇんじゃねぇかっ……ん?」

「どうしました?」

「ちょ、おまっ、なんでおれの小学時代のトラウマNO.2のこと知って……」

「っふぅー、ふ、ひゅー」

「口笛ふけてねぇよっ」

「まあまあ、わたしの情報網を甘く見ないでくださいってことですよ」

 きょう一番の胡散臭い笑顔で煙に巻かれて、美咲は煮えきらずぶすくれた。怖ぇ、服部の情報網、ちょー怖ぇ。

「あ! そろそろ行かないと」

 服部の弾んだ声に誘われて、美咲は彼女の視線を追って、顔をあげた。服部の腕時計をひょいと覗けば、練習が何時から始まるのかは知らないが、かなりいい時間であることがわかる。

「わたしは駐輪場にこれ置いてきますから、美咲くんはここにいてくださいね」

「おー」

 服部のぴんと伸びた背中を見送って、美咲はすぐそばの縁石に腰かけた。

 周囲は、古ぼけた背の低いビルばっかりだった。そのビルの中には、ぜんぜん知らない名前の小企業や、カラオケ店などが入っている。見慣れない景色だ。人気もまったくなく、横の道路を、車が猛スピードで走り抜ける程度。なんだか寂れた雰囲気が漂っている。

 ふいに背後から、ゴーッと電車の通る音がして、美咲はようやくここが駅の裏側だと理解した。そもそも駅を使うことがほとんどない美咲だが、駅の裏など警察署にお世話になることがない限り、まったくいかない。

 なんだかもの珍しくてきょろきょろしていたら、すぐに服部が戻ってきた。

「さあ行きましょう」

 服部が美咲を先導して歩いていったのは、はじにある蔦の這ったレンガ造りのアパートだ。五階建てくらいだろうか、廃工場にあるような鉄の外階段を上って、視界に現れた黒いドアの前に立つ。

「ここです」

「……愛子、モダンダンススタジオ?」

「はい。さあどうぞ、入ってください」

 ギィィとゲーム世界のダンジョンの扉のような重苦しい音を立てて、ドアが開く。妙な緊張感だ。

 開けてくれた服部にちいさく礼を言って、照明の煌々とついた教室の中に一歩、美咲が足を踏み入れると、

「だから、そうじゃないって言ってるでしょう! 手はこう! 違う、もっと高く上げなさい。いったん止まって――ちょっと、体を流さないで! もっとキビキビ動きなさいって何度言わせるの!」

 女の甲高い怒鳴り声が響きわたった。思わずビクついて、声の出どころに視線を向けると、かなりタッパのある痩せた女が、鬼の形相で手を叩いてリズムを取りつつ、仁王立ちで指導していた。美人だがきつめの顔立ちだ。さっきの発言といい、相当気性の荒い女だろう。

 天使みさきが言う。

『怖い、帰りたい』

『ばっかお前、男だろ! 女相手にビビッてどうすんだよ。根性見せてやろうぜ』

 悪魔みさきの言葉で多少、最初のインパクトから落ち着いた美咲は、ぎこちなく後ろを振り向いた。「なあ、服部」と呼びかければ、彼女は平然とした様子で「なんですか?」と応じる。

「だれだよ、あの女」

「この教室の指導者です。〝先生〟とでも呼んでくれれば、けっこうですので」

「お、おう」

「靴脱いで入ってくださいね? ああ、靴入れは右わきにありますから」

 仕方なくスニーカーを脱いで、下駄箱の一番下の段に突っこむ。隣に同じく靴を入れた服部が、「こんにちは」と誰にともなくあいさつして奥へと歩いていくので、美咲はちいさく会釈だけして、あとにつづいた。

 教室は、なんだか全体的に白っぽかった。壁紙も白。フローリングの平らな床も白。唯一、色があるものと言ったら、窓辺に置かれた、たくさんのぬいぐるみぐらいだ。

 教室の前と思われる場所には、一面鏡が張ってあって、残りの壁には、手すりみたいな棒がくっついていた。真ん中では美咲と同い年か、それより少しちいさいぐらいの子供たちが手拍子に合わせて必死に踊っていて、そのまわりを、高校生ぐらいのお姉さんたちが、壁の手すりにつかまって自由に、ストレッチをしたりその下で開脚したりしている。

 そう、お姉さん。美咲は盛大に、舌打ちをつきたい衝動に駆られた。これは由々しき事態だ。美咲にとっては世界滅亡並みの大事件。

〝モダンバレエ〟というジャンルから、なんとなく想像はしていたものの、服部が男の美咲を誘ったことで、少なからず教室に男のダンサーがいると美咲は思っていたのだ。

つまり、なにが言いたいかというと、

「服部! てめぇ女しかいねぇじゃねぇか!」

「あれ? 言ってませんでしたっけ? うちの教室には、男子の生徒はいませんよ。でも安心してください。この業界に男性の踊り手がいないわけではありませんから」

「安心できるかっ」

 悪態をついても、どこ吹く風な服部は、美咲を奥の少し窪まったスペースまで引っ張ってきて、ようやく向きなおった。彼女のうしろには、小ぶりなロッカーが所狭しと並んでいて、制服やら、かばんやらが無造作に詰め込まれている。

「さて、ここが、わたしたちのバレエ教室です。レッスンの時間帯は、だいたい年齢や世代ごとに分かれていて、わたしのレッスン時間は、この次からです」

「世代?」

「この教室に通い始めた時期のことです。同期、という言い方をすればわかりますか?」

「おーまあな。ってか、おれが聞くって言ったのは、そういう話じゃねぇよ!」

「なにがですか?」

「だからぁ! おれを勧誘した理由を聞いてんの。なんかワケありなんだろ? ほら、『生徒が少なくて、教室の経営がむずかしくなった』とか『急遽、男のダンサーが必要になった』とか」

「いいえ、そんなことありませんよ? 別に多いわけではありませんが、生徒はそれなりにいますし、バレエで男性が入り用になるなんて話、聞いたこともありません」

「はぁ? じゃあ、なんでおれにバレエやれ、なんて言ったんだよ! おれがやらねぇと困るって言ったじゃねぇか!」

「一緒に踊りたかっただけですが」

「あァ?」

「だから、あなたと踊ってみたかったんです、美咲くん。あなたならきっと、いいバレエダンサーになるから」

 服部の真っ黒い目は、照明の光でなんだかキラキラして見えた。

 彼女の純真無垢な視線に、美咲はたじろぐ。「だまされちゃダメ」と思うのに、美咲は服部から目を離すことが出来なかった。

『え? なにこれ、褒められてんのか?』と問えば、天使みさきも悪魔みさきも、首が取れんばかりに、うんうん頷いた。

 内容は非常に不本意だ。別に偏見とかがあるわけではなくて、美咲は自分の顔にコンプレックスがあるから、女の多いバレエ界にどうしても抵抗があるだけなのだ。普通の男なら、男らしさを生かして力強いパフォーマンスを見せることも出来そうなもんだが、美咲ではそれが叶わない。だから、不本意。

 それでも褒められたのならちょっとだけ嬉しくて、彼は急に恥ずかしくなった。褒められ慣れていないから尚更だ。

 とっさにそっぽを向いて、赤くなっているだろう顔を学ランの袖で隠せば、天使みさきと悪魔みさきが、服部よりも先に茶化してきた。

『美咲、褒められてるよ? ありがとーは? ありがとー』

『やーい! 美咲、赤くなってやんの』

「美咲くん? 照れてるんですか? 隠さなくてもいいのに」

「うるっせぇよ!」

「ふふっ、すみません。それで、話のつづきですけどね? きょうはなんの準備もしてないでしょうから、どうぞレッスンでも見学していってください」

「は!? おいなに勝手に」

「帰りの心配してるんですか? 大丈夫ですよ。レッスンがおわったら、ちゃんと家まで自転車で送りますから」

「んなわけねぇだろ! つーかいらねぇよっ」

「まあまあ、いいじゃないですか。きっと美咲くんもバレエのこと、気に入りますよ。それに……わたしの踊りを、あなたに見てほしいんです」

「うっ」

 服部の方が背が高いくせに、うまく上体を倒して、上目づかいしてくるのは反則だと、このときの美咲はただそう思った。ある意味現実逃避しているといってもいい。あざといな、服部。

 美少女の、「あなたに見てほしいんです」なんて「ギャルゲーかっ」とツッコみたくなるような、健気なセリフ(+おねだりポーズ)をもろにくらって、美咲のライフは、もうゼロどころかマイナスだった。

 この状況で首を横にふれる男子がいたら、美咲はその者を勇者と呼んだだろう。

「くっそ、女にここまで言わせておいて、帰るわけにはいかねぇじゃねえか」

「じゃあ……!」

 なんだか上手く乗せられているような気がするのは、きっと幻想じゃない。美咲の性格をよく知っていて、 それをきっちり利用する服部の手腕に、美咲は舌を巻いた。

 それがわかっているなら本当はここで断れればいいんだろうと思うけれど、美咲は知っている。今こうして目の前でにこやかに笑っている服部の背後に回された手には、あのおぞましい写真が握られていることを。

「見えてないと思ったら大間違いだぜ……!」と、美咲は心の中で嘆息した。

『今はとりあえず頷いといて、近いうちに絶対あの写真取り戻して、服部なんぞとはさっさとオサラバしちまえばいいんだ』

『そう上手くいくかな?』

『いく! いかせるんだよっ』

 天使みさきの懸念に、美咲は「やってやるぜ」と息巻く。そうしたら、脳内の二人も『ならもう何も言わない』と静かになって、美咲は服部の願いを断るのを早々に諦めた。

 ここで抵抗したって事態が好転するわけじゃない。美咲はすでに負け戦に片足突っこんでいるのだ。

 美咲は形だけのため息をついて、「ま、見学だけなら」と渋面を作りつつ返した。

「ありがとうございます!」

「見学だけだからなっ」

「わかってますって」

 ちょうど手拍子と檄が止んだので、服部が顔面に喜色を浮かべて、先生の方へ駆けていった。おおかた見学の件を伝えに行ったのだと思う。

 このとき美咲は、「なんでこんなことになったんだ」と内心ぼやいていたが、彼が本当に「どうしてこうなったっ」と空を仰ぎたくなるのは、このときからさらに数時間経ってからのことである。

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