002 日誌にある〝きょうの一言〟の欄は、たいていスペースが広すぎる。
美咲たちが通う中学校は、この地域唯一の小学校と並立して立っている。白塗りの小学校の少し錆びついた校門を出て、学童保育のプレハブを左に折れれば、数分歩いてもう中学校の西門だ。
西門はおもに車通勤の先生たちの入り口で、安全面を考えて生徒が使うことは原則禁止されているため、美咲も例にもれず服部のあとについて昇降口から正門の方に向かった。
「おい! どこ行くんだよっ」
美咲に「ついて来てください」と言ったきり、無言でスタスタ歩いていってしまった服部の背中に美咲は叫んだ。
「バレエ教室に行きましょう、美咲くん。実際に見てもらった方が早いので」
「おれは、話は聞いてやるっつったけど、やるとは一言も言ってねぇぞ!」
「わかっています」
本当にわかっているのか、抑揚のない返事をして服部は正門横の駐輪場に近寄っていった。右はじにそっと停められていた、薄緑色の自転車のチェーンをガチャガチャいじっている。
「……おまえ、チャリ通だったんだな」
少し意外に思ってそう言うと、
「ええ、駅まで距離がありますからね」
と、平然と返された。
「駅ィ!? は、遠くね? おまえ毎日、駅の方から通ってんのかよ」
「いえ、家自体は小学校の方なんですけどね。バレエ教室が駅前なので、レッスンがある日は、学校がおわったら直行しているんです」
「へぇ」
駐輪場から自転車を押し出してきた服部が、ふいに右手を差し出した。
「なんだよ」
「がばん、カゴにいれますよ」
「……さんきゅ」
二人がいま立っている、昇降口から正門までの幅広いまっすぐな一本道には、沿うように桜の木が何本も植わっている。花のピークはもうおわり、すっかり濃緑に変わった葉っぱたちが、ぶわっと湧いたつむじ風にあおられてザワザワ鳴いた。
舞い上がった長い髪を片手でいなして、自転車にまたがった服部が美咲の方を嬉々として見た。
「うしろにどうぞ、美咲くん」
「ってぇ乗れるか! ふつう逆だろ!? なんで女のお前がこぐ方で、男のおれが乗ってるだけなんだよ! つーか二ケツはダメだろさすがにっ」
「ええっ」
「いや、なんでそんな驚いてんだよ」
「これはすみません。少し意外だったもので。美咲くんは、ヤンキーのくせにちゃんと危機意識を備えているんですね」
「おれはヤンキーじゃねぇよっ」
「まあまあ、二ケツは今回だけですよ。わたしは安全運転ですから、普段からバイク無免許で乗りまわしてそうな美咲くんみたいに、ヘマはしません。安心して乗ってください」
「バイクなんて乗ったことねぇよ! だいたいへましたこともねぇっ」
「はいはい、落ち着いて。そういうことにしておいてあげますから」
「おいっ」
のれんに腕押しとはこのことを言うに違いない。くってかかれば、服部が「どうしてわからないの、この子」みたいな、呆れたような視線を送ってきた。ため息のおまけつきで、だ。
だけど本当に嘆息したいのは美咲の方である。
「だいいち美咲くん、いま自転車に乗らなかったら駅まで歩くことになるんですよ? 何分かかるか知れたもんじゃありません。そんなのに付き合っていたら、わたしがレッスンに遅れちゃうじゃないですか!」
「だったら、おいて行けばいいだろ!」
「それじゃあ美咲くん、来てくれなさそうなので」
「ぐっ」
「それに」と、いたずらっぽく人差し指を唇の前に立てて、服部が笑った。女のこういう仕草には、ぐっとくるものがある。あと美咲的に、いいなと思う女の行動は、髪を耳にかける仕草と、グロスやリップを塗ったあとの、唇をこすりあわせる動きだ。マニアックで細かいかもしれないけれど、これがなかなかいい。ちょっぴりエロいのがまた。
服部は、と言えば、この短時間で美咲の押しポイントを二つも的確に突いてきているが、いかんせん、出会い方が悪かった。好感を持つどころか、「苦手なタイプだ」と美咲は思っている。
だから、仕草をする相手が、顔は良くても中身はまるで残念な、かの服部であるという事実には、ちょっとエロスのまじったドキドキも半減だ。
「それに」
仕切りなおすように、再度服部は、「それに」と言葉を区切った。
「無茶は中坊の特権じゃないですか?」
「ちぇっ」
そっぽを向いて、美咲は黙った。なんだか自分の方が優等生な気がして、非常におもしろくない。
『そういうところが、ヤンキーって言われる理由なんじゃないのかな』
すかさず天使みさきのツッコミが入った。そうなのだろうか。
『そうだな』
悪魔みさきの援護射撃に美咲は怯んだ。たしかに男らしくはなりたいが、別にヤンキーになりたいわけではない。美咲は『うるせぇっ』と、この話を無理やり切り上げて、元凶の服部をジト目で睨みつけた。
「……ほんといい性格してんな、おまえ」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてねぇよ!」
先ほどの昇降口での一件といい、この女に出会ってから、いいように振りまわされている気がしてならない。「これからもこんな調子がつづくのか」と思ったらぞっとして、なんとか主導権を取り返すべく、美咲はてくてくとハンドルの方にまわった。
「ほら行くぞ。そこどけよ」
「いやん! なにする気ですか」
「運転変わるんだよ!」
しかし、一枚上手なのが服部だった。「ほーらほーら、先行っちゃいますよー」なんてふざけた調子で、ペダルに片足をかけたまま、上体をゆらしている。
ここで殴らなかった自分の精神力に、美咲は内心で感涙した。黒い服を着た天使みさきと悪魔みさきが、『おー美咲の精神力、おー美咲の精神力』とあやしい宗教のように、崇めている声が聞こえる。
「ったくしゃーねぇな。あとで重いって文句言うんじゃねぇぞ」
「心配しなくても大丈夫ですよ。美咲くんがたとえ重くたって、わたしは嫌いになったりしませんから」
「だから、女扱いするんじゃねぇよ! なにナチュラルに『体重気にする彼女を安心させる彼氏』的なセリフぶっこんでくんだっ」
「ふふ」
がっちゃん、と派手に音をたてながら、美咲は勢いよく自転車の荷台にまたがった。
「じゃあ行きますね」
と、服部がかけ声をかけてこぎ出してから、そのあとはなにを言うわけでもなく、すーっと滑り出した自転車が切る風に、二人は身をあずける。
夕方だか、使う道がよかったのか、人通りは少なくて、学校帰りの小学生の笑い声と、カラスの鳴き声だけがどこか遠くで鳴っていた。
まさしく閑静な町の夕暮れの光景だ。
ときおりすれ違う人たちに、「あれ、女の子がこいでんの?」みたいな、奇異な視線で見られるのが恥ずかしくて仕方なくて、好奇の目から逃れようと目を閉じていたら、
「そういえば美咲くん」
「あ? どうした? 運転変わるか?」
「別に疲れたわけではありませんよ。美咲くんが先ほど教室にみごとに放置していった、あの日誌の件ですが」
「うげっ、やなこと思い出させんなよ。あー……あした日下にしばかれんだろうなぁ」
「と言うと思って、つづき書いたあと、日下先生に提出しておきました」
「うぇっ! マジ!?」
美咲が勢いよく身を乗り出したせいで、自転車がガッチャンバッタン音を立てた。
「ちょっと! 危ないじゃないですか」
うしろに座っているので顔は見えないが、彼女の声には険がまじっている。
「わりぃ……で、マジ?」
「マジですよ。つづきと言っても〝きょうの一言〟だけでしたから、『体育が死ぬほど楽しかった』と殴り書きしておきましたが」
あまりに雑なコメントに美咲は一瞬言葉に詰まった。しかし、よくよく考えてみれば、自分がそれ以上に上手いセリフを捻出できるとは到底思えない。せいぜいが、『給食のカレーが最高だった』と大きな字で枠めいいっぱいに書くぐらいだ。きっとそれでもスペースが埋まらないから、下手くそだと自覚のあるイラストもつけて。
「だいたい〝一言〟って言ってるのに書くスペースが大きすぎるんだよな」
美咲のグチに、服部は鷹揚に頷いた。
「ええ、それには同感です。そもそも日誌なんて書く意味あるんですかね? あんなの、先生しか読みませんよ」
「……おまえ、意外と校則守んねぇタイプだろ」
「制服着崩してる美咲くんには言われたくないですけどね。でもまあ、意味のないことには、極力体力割きたくないっていうのは本音です」
「おー、おれも。だけど、日誌って、けっこうおれらのクラスだと読んでるやつも多いぜ? そのつもりで自作の詩とか書くやつもいるし」
「なんですかそれ、変なの」
服部がケラケラ笑った。それからすぐに、
「じゃあわたしも、さっきの一言の欄になにか面白いことでも書けばよかったですかね」
なんて言うもんだから、
「それ、おれの日誌だろーが! 自分のに書けよ!」
「ところで、日下先生に日誌を出したときですが」
「おいっ、聞けって!」
「そのときに変なことを言われまして」
「は? 変なこと?」
美咲は、彼女に見えていないことも忘れて首を横に捻った。
「『ゴキブリは大丈夫だったのか』と」
「へ?」
ゴキブリは確かにゴキブリなのだが、これをまったく怖がる素振りのない女子中学生に、「おれのまわりの女どもはどうなってるんだっ」と、美咲は頭を抱えたくなった。さっきの日下といい、服部といい、最近の女は肝が据わりすぎじゃなかろうか。
絶対この二人みたいなタイプは、この昆虫が出ても、新聞紙を丸めて容赦なく叩き殺す人種だ。冷却スプレーとかホイホイなどといった、人類のすばらしい発明には頼らない。頼る必要もない。
「ゴキブリなんていたんですかね?」
「ま、まぁ、日下の勘違いだろ、きっと」
「それもそうですね」
会話はそれ以上つづかず、再び無言のまま、二人の乗った自転車は人気のない歩道を走った。