015 「いまは、おまえの声が聞こえるぜ」
蛙の目覚まし時計がゲコゲコけたたましく鳴いて、美咲はぱっちり覚醒した。
「あー……ねみぃ」
きのうの夜、帰宅して真太郎と少し電話で駄弁ってから、美咲は早々に寝た。なにをしていても、服部の、あの悔しそうな顔を思い出してしまったからだ。
それは一晩たっても変わらない。遮光カーテンから漏れる朝の陽射しがどれだけ明るく爽やかでも、美咲にはずっと雨が降っているように見えた。ぶ厚い灰色の雲が頭上いっぱいに広がっているようにしか、見えなかった。
美咲がこんななのだから、服部にはもっと風景がモノトーンに見えているだろう。
アラームを止めて、美咲はメールボックスを覗いた。晩に「きょうは来てくださってありがとうございました」と送られてきてから、服部からはなんの音沙汰もなかった。
夏休みだから学校もないし、コンクール明けでレッスンもない。服部と連絡を取る手段は、電話かメールだけだが、それすらも来ない。
『話したくねぇんじゃねぇの』
『やっぱり?』
『いまは、そっとしておいた方がいいのかもね』
ちび美咲たちの言葉に、美咲は曖昧に頷く。そうなのかもしれない。服部だって、ついこの間バレエを始めたばっかりの初心者に、慰められたくはないだろう。
『んなことより、メシにしようぜ!』
『おうっ』
階下におりても、だれもいないのはいつものことだ。
ボーダーのシンプルなメモ用紙が、ダイニングテーブルの上に朝食と一緒に乗っていた。そこには、買い物に行ってほしい旨と、『きょうも愛してるわ! 美咲!』なんて恥ずかしいセリフが鎮座している。周りは走り書きなのに、この一言だけは不自然なくらい丁寧に書かれているのもいつも通りだった。
「こんな一言、時間のムダだからいらねぇよ」
と、幾度となく美咲は言ったが、母さんがこれをやめることはなかった。
「なんでよ、愛してるのは本当のことだからいいじゃない!」なんて、言うたびにすっとぼけて笑っていた。
逆に、最近では美咲の方が染められてきて、美咲も書き置きを残すときには、「母さんも気をつけろよ」だの「いってらっしゃい」だの「待ってるから早く帰ってこいよ」だの照れ臭いセリフを吐くようになった。本当に忌々しい変化だ。
それでも、母さんが、美咲からの手紙を大事に引きだしにしまっていることを知ってからは、美咲も、もうなにも言うまいと決めている。母さんからの愛が重いのは昔からだ。もう諦めもついている。
メロンパンを口にくわえつつ、テレビをつけたら、ちょうど星座占いのコーナーだった。
『2位は蟹座のあなた! 大切な人に思いが通じるかも。外に出てみて! きっといいことがあるはず! ラッキーカラーはオレンジ』
可愛いとクラスで噂の女キャスターが、そう言って画面の向こうで笑っていた。
『だってよ、美咲。大切な人に思いが通じるんだと。大切な人に!』
『うるっせえな! なにが言いてぇんだよっ』
『べっつに―』
牛乳をコップに注いで、美咲はそれを一気にあおった。ついた髭を袖で拭いていたら、キャスターが『そして!』と声を張り上げる。
『栄えある1位は……獅子座のあなた! 抱えていた悩みが解決しそう。好きな子が現れて、あなたを笑顔にする手伝いをしてくれるよ! ラッキーカラーは青』
「そんな都合よく、好きなやつが現れたら苦労はしねぇだろ!」
思わず美咲はツッコんだ。呆れて、テレビの電源をプッツンとおとす。
『あー! 見てたのに』
『るっせぇ!』
スクランブルエッグは、少し焦げが雑ざっていた。あんまり美味しくはないけれど、別に嫌いじゃない味だ。
黙々と朝食を口に運んでいたら、テレビを消したことに文句を垂れていたちび美咲たちも静かになった。
しかし、静かにしていたのは、食器を流しに片して、ゲーム機持参で美咲がソファに寝転がったところまでだ。
『それでもちゃっかりオレンジ色のカチューシャつけるところ、嫌いじゃないよ?』
天使みさきはそう言って笑った。その言葉に、美咲はぐっと眉根を寄せる。
『黙ってろよ、天使みさき。仕方ねぇだろ、前髪、じゃまなんだから』
『はいはーい!』
コントローラーを操作する音が、静かなリビングでカチャカチャ響く。
夏休みとはいいもんだが、休みが何日もつづくといい加減飽きてくるのもまた事実だ。学校でもいいから外に出たい、と、ちょっとだけ美咲は思う。
ゲームをやめて、漫画にシフトチェンジした美咲は、数時間後には、それも読みおわってしまって暇をもてあましていた。友達を誘って遊びに行こうにも、みんな家族旅行やら、プールやらで予定が空いていない。さて、どうしたもんか。
掛け時計は、ちょうど十一時をまわったところだった。まだ昼には少し早いが、母さんに頼まれていた買い出しもあるし、外に出かけるのもいいかもしれない。
『星座占いでそう言ってたから?』
『うっせぇ!』
ラフな格好のまま財布をポケットに突っこんで、美咲はサンダルを履いて玄関を出た。美咲の家は一軒家で、隣の公園ともかなり距離が近いが、炎天下のせいか、いつもは子どもで賑わっている原っぱは、だれもいなかった。
公園のわきの歩道を「とけるー」と言いながらダラダラ歩いていたら、向こうから人が歩いてきているのに気がついた。茹だる空気の中で、美咲が特別その人物を目にとめたのは、ぴんと張った背中に、仲間の少女を重ねたからだ。
って――
「服部!?」
「美咲くん、奇遇ですね。お出かけですか?」
服部はいつも通りだった。きのうのは美咲が見た幻だったのかと思うほどに、彼女は通常運転だった。
「へ? あ、ああ、まぁ、買い出し」
「そうですか、こんな暑いのにご苦労様です」
「そういうおまえは、なんでここに」
「暑中見舞いです」
そう言って、服部は手にぶら下がっていた袋から棒アイスを取り出した。
「それ、ぜってぇ溶けてるだろ」
「アイスは溶けるものですよ、美咲くん」
訳の分からない返しをする服部に、美咲はとりあえず「あがれよ」と家をあごで示した。けれど服部は、それに首を振って、「あの下がいいです」と滑り台を指さす。
「やだよ、暑ィ」
「いいじゃないですか! 日陰ですよ日陰!」
嫌々ながら服部に引きずられて、公園の中の滑り台の下に二人してしゃがみ込むと、思ったより涼しかった。強い陽射しが遮られて、気温が下がっているのだろう。
「うっへぇ……アイス、べったべた」
「ふふっ」
服部が買ってきたのはバニラアイスだった。爽やかな甘さが口の中いっぱいに広がる。手はアイスで酷いことになっていたが、外で食べるのも悪くないなと、素直に美咲は思った。
「ティッシュ、いります?」
「準備いいな、おい」
「こうなることは予想できてましたから」
「だったら、こんな暑いんだし、アイスはやめときゃよかったんじゃねぇか?」と言ったら、「アイス、好きなんです」と服部は静かに笑った。
「ところで美咲くん」
服部の十八番、〝急な話題転換〟が出た。
「改めまして、きのうは、ありがとうございました」
「あ?」
まさか、服部からその話題を振ってくるとは思わなくて、美咲は瞠目した。自分が予選落ちしたコンクールの話なんか、だれだってしたくないだろう。
「美咲くん、せっかく来てくれてたのにすみませんでした」
「いや、別に」
「ああでも、美咲くんは神野さんの応援だったんですかね? ……お付き合いされてるんですか?」
「んなわけねぇだろ! 七緒とはきのう初めて会ったっつの!」
「会ったばっかりの女の子と抱き合うんですか?」
「ちっげぇよ! あれは感極まって」
必死で弁解していたら、服部がふっと笑った。気の抜けた笑みだ。なんか安心しているようにも見えてちょっと驚く。
「なあんだ、美咲くんの彼女じゃなかったんですね」
そんな風に言われたら、勘違いしてしまう。
「よかったです。わたしの思い過ごしだったんですね」
――そんな言い方、まるで服部が美咲のことを好きみたいじゃないか。
「服部、おまえ……」
「あ!」
突如、大声を出して服部が、滑り台の下から這い出て立ち上がったので、美咲は思いっきりずっこけた。
『残念! 美咲』
「くっそ! こんの雰囲気クラッシャーがっ」
がっくり肩を落とした美咲をちらとも見ずに、服部が両手を大きく広げて美咲を呼ぶ。
「見てください! お天気雨です!」
天を仰げば、たしかに、ビー玉みたいな澄んだ雫が地上に降りそそいでいた。全身で雨をあびる服部にならって、美咲も外に出る。
「気持ちいですね」
「おう」
なんとなく口寂しくなって、美咲はなんの気なしに、最近お気に入りの曲を口ずさんでみた。とたん、服部が反応する。そりゃ、彼女も知っているはずだ。美咲が教えたのだから。
『上手いもんですね』
七月上旬ぐらいだったと思う。ある月曜日、教室の掃除当番で箒片手に口笛吹いていたら、ひょっこり引き戸から顔を覗かせた服部が、そう言って感心したように鼻を鳴らした。
『そーか?』
『ええ、その曲、なんて言うんですか? わたしにも教えてくださいよ』
美咲は、音楽を聴くのは好きだし、よく歌も歌う。それは服部も同じようで、その掃除の時間以来、二人でお気に入りの曲をすすめあったり、歌ったりすることが増えた。
このころからだ。美咲が服部に、苦手意識以外の、なんと言うか、仲間意識のようなものを持ち始めたのは。
「♪、♪」
目を閉じて、慣れ親しんだ歌詞を並べたてていたら、ふと隣にいた服部が動くのが気配でわかった。
服部が、踊っている。
美咲は、目は開けなかった。なんとなく、開ければ彼女が踊るのをやめてしまうと思ったからだ。
「……♪、♪……♪ッ」
なにか伝えたいことがないと、バレエは輝かない。これは美咲が、七緒の踊りを見て痛感したことだ。強い思いが――星と言ってもいい――そんな、バレエダンサー自身の意志がないと、観客には、ただ滑稽なピエロが道化を演じているようにしか見えない。
あのとき失敗した服部は、自分しか見えてなかったんだと思う。対話も忘れ、ただ見ている人の心を侵略しようとした。愚かな支配者だったのだ。
「美咲くん、わたし、バレエが好きですよ」
服部がそう言った気がした。否、これが服部の伝えたいことなのかもしれない。
「♪」
しとしと降る雨が、美咲の頬を濡らして地に落ちる。きのうの雨は憂鬱なだけだったけれど、いまの雨は涼やかで、優しい雨だった。
『美咲、この歌は青春がモチーフらしいぜ?』
そう、悪魔みさきが言った。青春なんて考えたこともなかったけれど、たくさん失敗して、たくさん悔しい思いをして、たくさん新しいことを知ることが〝青春〟なら、いま美咲たちはその真っ只中にいる。
――それを教えてくれたのが、バレエであり、服部だ。
服部のサンダルが、砂利を蹴る音がする。その音はリズミカルで、楽しげに弾んでいた。きのうも、こうやってできたらよかったのだ。そしたらあんな、異様な世界にはならなかったのに。
「いまは、おまえの声が聞こえるぜ」
美咲は心の中でそう言った。
最後のサビ。服部の薄い唇が、美咲の旋律に合わせて滑らかなメロディを紡ぐ。不協和音。
はたから聞いたらきっと不格好なカタチだけれど、それは、いまの美咲たちの生き様をそのまま写し取ったような、とても愛おしくて、キラキラが溢れている宝石箱のようなものだ。
「……♪、♪」
服部が、ふいに、湧きあがる春風みたいに美咲の手を取った。美咲を引っ張ったまま、ぐるんと強引に回って、さらに声を張り上げる。
完全に油断していた美咲は、だから驚いて、思わずぱっちり目を開けた。一番に視界に映ったのは、どこまでもつづく青空だった。綺麗だ。無性にそう思った。
遠心力でくうに投げ出された美咲の薄い上体は、ぶらぶらと頼りなげに漂っていたもう片方の手も服部に捉えられたことで、引き戻された。
額がくっつきそうなほど近い距離。
二人して歌の合間に、荒い息づかいと忍び笑いを滲ませて、お互いの瞳を見つめ合った。鼻先を熱い息がそっと掠めていく。
向かい合って止まった靴の先と先はまだ少し遠いけれど、これから詰めていければいいと、美咲は思う。 まだ自分たちは中学生なのだ。きっと時間は十分にある。
組み合わせた手と手。汗ばんだ手のひら。そして、そこから感じるお互いの体温と、鼓動。
美咲と彼女、瞼を閉じたのはどちらが早かっただろう。
――歌いおわった瞬間、二人はそっと唇を重ねた。