014 rouge
美咲はいま、とても興奮していた。知らなかったのだ、舞台袖がこんなにも秘密基地みたいだなんて。
暗闇の中を、舞台から差し込む眩い照明だけを頼りに、七緒と歩く。
舞台袖なんて言うからもっと狭いのかと思っていたが、ここは思っていたよりもスペースがあった。上にもあがれるようになっていて、コードやらライトやらがごちゃごちゃ置いてある。
「ここで遊んだら、退屈しねぇだろうな」
なんて、子どもっぽいことを考えて、天使みさきと悪魔みさきに笑われた。
一階の奥には、なにに使うのかわからないようなセットがたくさん並べられていた。造花の蔦がびっしり巻き付いた柵なんかも陳列していて、思わずその葉に手を伸ばす。
「ちょっと! 美咲!」
小声ではあったが、嗜めるような慌てた声に、美咲はびっくりして動きを止めた。首を傾げて七緒を見れば、呆れたように「触らないの」と諭される。
「……へーい」
しぶしぶ美咲は指を引っ込めた。「好奇心が強いのはけっこうだけど」と言いながら、とても「けっこうだ」とは思えない表情で、七緒はまた歩き出した。
前には放送機材がどっしりと構えていて、関係者らしき大人たちがアナウンスをしたり、出演者の整理をしたりしていた。
「私ならできる、私ならできる」
まるで呪文みたいに何度も繰り返しそう言って、祈っている少女の横を通り過ぎた。番号と題名が呼ばれて、彼女は強張った顔のまま、幕の裏に控える。
「なんだか、変だよな、この空間」
「変ってなにが?」
「みんな、なんか変」
上手く言葉にできなくて美咲は押し黙ったが、七緒は気にした様子もなく「そっか」と言った。
『おい、美咲。そういえば服部は?』
視線を巡らせるが、あの凛とした背中はどこにも見当たらなかった。いま美咲がいる方の袖は〝下手側〟と言うらしいが、服部は、もしかしたら上手で待機しているのかもしれない。
「90番、『砂漠を歩く』」
抑揚のない、機械みたいな女のアナウンスがスピーカーから流れた。かかった曲と共に、先程の少女があの光の下へと飛び出していく。その表情があまりにも気高くて、美咲は茫然とした。あの怯えていた少女とは別人かと錯覚するほどだった。
「美咲? 大丈夫?」
なにもする必要のない美咲は別に大丈夫じゃなくてもいいのだが、自分がいま、余裕のない表情をしている自覚はあったので、美咲は素直に「平気」と頷いた。
「美咲がそーんな顔してどうするの? もう」
この場の空気にすっかり呑まれて体が強張っている美咲とは対照的に、七緒は落ち着いているようだった。「おまえこそどうなんだよ。平気なのか?」と聞けば、「もっちろん」と満面の笑みが返ってくる。
「美咲がいるから大丈夫。一分だけだからって、寝たり、よそ見したりしちゃダメだよ!」
「しねぇよ、あほっ」
七緒がスタッフに呼ばれて、「じゃあ、いってきます」と片手を振って駆けていくのを、美咲はぼんやり見送った。真ん中の幕の裏に控える彼女のスレンダーな体が、姫を救いに行く勇ましい騎士の姿と重なって見えた。
七緒の衣装は、フリルのついたブラウスに、赤と青と白のジャケットとパンツ。動きやすいようにあちこち手が加えられてはいるが、外国の、さながらお城を守る衛兵のような出で立ちだった。カッコいい。七緒によく似合っている。
「91番、『お城の門番』」
曲はスネアの音から始まった。リズミカルな軽い音に合わせて、七緒が威勢よく歩きだしていく。足を開いて、沈んではまた歩いて。アラベスク(片足を軸にもう片方の足をうしろに上げる形)はブレることなく綺麗だ。
七緒の振りはステップが多かった。タップダンスでも踊っているかのように、軽やかに七緒は飛び跳ねる。一番美咲が驚いたのは、空中で開脚するジャンプだ。綺麗に平行に足が開いたときには、思わず拳を握った。
本当に一分なんてすぐだ。
七緒は、もう最後の、回転してポーズをキメるところまで来ている。来る前に、苦手だと言っていたところだ。回転数を多くすると、どうしてもぴったり止まれないらしい。
『頼む!』
祈るような気持ちで「成功してくれっ」と呟いたら、天使みさきと悪魔みさきも一緒に願ってくれた。それに勇気をもらって、美咲は再び舞台を食い入るように見つめる。
「美咲、行くよっ」
と、七緒が言った気がした。一瞬だけ、光の下の七緒と視線が交錯する。彼女の口は綺麗な弧を描いていた。
「ああっ、いける」と、なんの根拠もなくそう思った。
曲が止み、七緒は満足げな表情で、客席を見つめていた。あごを伝う汗すらきらめいていて、一生懸命なにか一つのことに打ち込むというのは、きっとこういうことなんだな、と思った。
振りあげていた手を下ろし、七緒は、踵を揃えて一度、気をつけの姿勢を取ってから、パタパタと足音をさせて、袖に引っ込んできた。
「美咲っ」
美咲を呼ぶ声は、場所柄遠慮してか、ちいさかったけれど、興奮と喜びと、そしてほんのちょっとの感謝の気持ちで弾んでいた。
「っ、七緒」
真っ先に駆け寄ってきた七緒はそのまま、出会ったときとなにも変わらず、タックルするように美咲に抱きついてきた。そこで美咲も感極まって思わず涙目になる。
「七緒、七緒!」
「やったよ美咲! いままでで一番いい出来だった! あたし、やったよ!」
「見てた! すげぇカッコよかった……っ」
本当にすごかったのだ。こんな小学生の感想文みたいな、薄っぺらい言葉でしか表現できないけれど、七緒のバレエは、あの舞台でとっても輝いていた。綺麗で、勇ましかった。
美咲もぎゅう、と抱きつき返した。
「やったな、七緒。すっげえよ! やっぱりおまえはすっげえ!」
「だって天才だもん!」
「自分で言うなよ、あほっ」
「ありがとう」
七緒が額をこつん、と合わせてきた。ちょっと汗の匂いと衣装のタンス臭がした。
「美咲」
「おう」
「ほんっとうに、ありがとう!」
「92番、『深窓の魔女』」
ホール内アナウンスで、美咲は我に返った。ついに来た。服部の番だ。
ようやく周りが見えるようになって、そこで美咲は二人が注目を集めていることに気がついた。同じ出演者の少女たちは、七緒を羨ましそうに、係員の大人たちは、美咲と七緒を横目で眺めながら微笑ましそうな表情をしていた。
顔から火が噴くかと思うほど赤面して、美咲はそっと七緒から離れた。不思議そうな顔をしつつも素直に離れてくれた七緒は、それでも美咲の右手をぎゅっと握っている。服部の発表が残っていて少し不安だったのを、見透かされたのかもしれない。
ありがたく美咲もその手を握り返して、二人で並んで舞台に向き直った。
――服部が、驚愕した表情でこっちを見ていた。
「服部!」
思わず大声を上げそうになって、美咲は慌てて口を覆った。反対側の幕の裏で、服部がひどく狼狽している様子が伝わってきた。なにが理由かはわからない。だけど、一瞬目が合った彼女は、なにか見てはいけないものでも見たかのような、罪悪感と羨望と嫉妬と、まぎれもない絶望を瞳に宿していた。
服部の唇が、なにかを形作る。
美咲はそこまで目がいい方ではないが、なぜかこのときだけは、服部がなにを呟いたのか、はっきりと読み取ることができた。
『なんで……美咲くん』
服部はそう言ったのだと思う。なら、服部の動揺は、美咲が誘発したことになる。血の気が失せた。服部が失敗したらどうしよう、とそればかりが頭の中をぐるぐるする。
さっき会ったときは特に気にならなかったのに、彼女の薄い唇が、暗闇に浮き出るかのように異様に赤く、紅かった。それは妖しく艶めいていて、美咲は言いようもない恐怖に襲われた。鳥肌が立つ。
このまま舞台に上がらせちゃいけない!
「美咲?」
無情にも曲が鳴りだして、服部は強張った表情のまま、あの眩い照明の下に飛び出していった。その姿は、なにかから逃げるようだった。
「ねえ、美咲。……どうかした?」
さっきの興奮はもうどこかに掻き消えていて、美咲は、なにか冷たいものが自分の体の中を駆け巡るのを感じた。指先が冷たくなって、感覚がなくなってくる。
「美咲!」
七緒の声が聞こえにくい。水の膜で耳が覆われてでもいるように、鈍く振動して聞こえる。
美咲の意識は、どんどん底に底に沈んでいった。沈むにつれて、周りも静かになってくる。深海というのはこんな感じなのかと、漠然とそう思った。
服部はまだ踊っていた。なにかが噛みあっていない、奇妙な違和感の中で狂ったように回っていた。その姿は、まるで壊れた人形だ。
さっきまで、あんなにキラキラしていた舞台が、いまはその輝きも色褪せて、どんどん真っ黒に塗りつぶされていく。
かっくんと膝が折れて、美咲はそのまま地面にくずおれた。目を瞑って口元を覆う。視界まで、ぐるぐるしていた。煌々とした照明と、この場の雰囲気に完全に酔ったのだ。
「美咲!?」
七緒の悲鳴に近い叫び声で、美咲は少し落ち着いた。対処不能の状況に頭が混乱していて、パニックを起こしかけていたところを彼女に引き戻されたのだ。
大人の足音がいくつか近づいてきていて、七緒が焦った様子で状況を説明しているのが聞こえてきた。といっても、七緒もなにが起こったのかわかっていないのだろう。説明は要領を得ていなくて、焦る気持ちばかりが先走っているような話し方だった。
ここで美咲は、ちゃんと聞こえていることに気がついた。目は閉じたままだが、次の番号がホールにアナウンスされていて、服部の発表がおわっていたことを悟る。「ようやく音が正常に戻ってきたな」と他人事のように思いながら、彼は一言ぽつんとこぼした。
「気持ちわりぃ」
控室で横になっていたら、眩暈も吐き気も治まった。七緒は、私服に着替えてメイクを落としたら、またすぐに美咲のもとに駆け寄ってきて、なにを言うわけでもなく、ずっとそばでしゃがんでいた。
少しだと思っていたら、ずいぶん時間が経っていたらしい。天使みさきと悪魔みさきが起きぬけの美咲にいまの時刻を教えてくれて、ちょっとびっくりした。
「七緒、結果は?」
七緒はぐっと親指を立てた。
「通ったよ! 入選した」
「っしゃあ!」
さすがに、さっきの服部の発表を見たあとでは手放しでは喜べなかったけれど、美咲がそう言ってガッツポーズすれば、七緒はそれでも嬉しそうに笑ってくれた。
「美咲は? 平気?」
「おう、もう全然」
楽屋の明け渡しの時間も迫ってきているので、美咲と七緒はそれからすぐに別れた。きょう出会ったばっかりの女と、こんなにも仲良くなるとは思ってなかったけれど、七緒とは今度遊ぶ約束もしたし、「つぎは一緒に踊ろうね」とまで言われた。素直に嬉しかったので、美咲は迷わず頷いた。
会場の入り口を目指して通路を歩いていたら、前の部屋から怒気を含んだ女の声が漏れ聞こえてきた。
「どういうつもりなの、律子! あんな酷いダンスなんか見せて」
「…………」
「振りを間違えるならまだいい。だけどなに? 律子、あのときなにを考えていたの! 全然気持ちが入ってなかったじゃないっ」
薄く開いた扉の隙間から見えたのは、愛子さんの後ろ姿だった。両体側で拳を強く握った愛子さんは「反省しなさい」とだけ吐き捨てて、踵を返す。
服部は、ぎゅっと唇を噛みしめてうつむいていた。その表情は、後悔でいっぱいだった。