012 一番星の周りには、無数の星が何億も散る。
「あ、やべ。メール来てら」
「だれ?」
「おれのダチ。一緒に見に来たやつ」
「ふうん」
七緒にあてがわれた楽屋の一角までのこのこやってきて、眼鏡をかけたキャリアウーマン風の女――明里さんとの顔合わせも無事に済み、誤解も解けてから(美咲は迷惑な七緒の友人だと思われていた)、美咲は思い出したように携帯を開いた。着信3件、メール受信2件。いずれも新見からのものである。
「なんて?」
絶賛、舞台メイク中の七緒が、鏡から視線をはずさず、スポンジでファンデーションを塗りたくりながら問うてきた。
「『もうコンクール始まるから早く戻ってきな』と『もし間に合わなそうだったら、作品間にそっとうしろのドアから入ってきな』だと」
それに加えて『迷子になったら、係員さんにちゃんと聞くんだよ』なんて幼子に言い聞かせるみたいな文面がくっついていたが、それは死んでも口にするもんかと思う。
読んだ瞬間、危うく携帯を地面に叩き付けそうになるほどの破壊力が、これにはあった。
「一緒に来てって言ったあたしが言うのもなんだけど、大丈夫なの? 友だち」
「ま、平気だろ。初めて来たのはおれの方で、あいつは慣れてるふうだったし。連絡いれときゃ、戻んなくてもいいだろ、別に。ただ見てぇやつが二人いるから、そんときはいいか?」
「もちろん! 何番と何番?」
「56と92」
「……92?」
「おい、七緒?」
七緒は逡巡したあと、何事もなかったように粉をはたきながら「あたしのあとじゃん」と笑った。
「……ほんとは舞台袖まで来てほしかったんだけど、仕方ないか」
「舞台袖? おれみたいな部外者が入っていいもんなのかよ」
「美咲はもう部外者じゃないじゃん。関係者でしょ? あんまりいないけど、付き添いが一人くらいいても平気なんだよ。出演番号が近い友達と一緒に、袖で控えてる子もいるし」
「へぇ」
やっぱりそばにだれかがいた方が心強いんだろうか。
美咲は丸い椅子に腰かけて、行儀悪く足をぶらぶらさせながら考える。じゃあ、そこに行けば、服部とも鉢会うかもしれない。
きのうの服部。さっきの七緒。コンクール前、バレリーナはみんな不安になる。
「……別に行ってやってもいいぜ。袖からでも踊ってるとこ、見えんだろ?」
「え、いいのっ!?」
「お、おう」
あまりの喰いつきっぷりに、美咲の方が引きぎみになる。
七緒はもう、あらかた化粧をおえて、アイライナーに手を伸ばしているところだった。母さんがつけているのを見たことがあるが、あれで綺麗に線を引く女は本当にすごいと思う。あんな細いペン、ちょっと震えたら、すぐに、ぐにゃってなるに違いない。綱渡りみたいな緊張感だ。
「ほんと、ありがと」
「や、別に……」
そう面と向かって言われると、なんか照れる。頭のうしろで手を組んで、美咲はそっぽを向いた。
『そいや、おまえら静かだな』
いつもならここで『やーい! 照れてやんの』ぐらい言いだしそうなちび美咲たちが、いつになく沈黙を保っていた。頭の中を覗いたら、広大な砂漠の中、麻のマントを羽織った二人が、木の枝を支えに流浪しているビジョンが見えた。あ、天使みさきが、ぱったり倒れた。
『の、のど乾いた……』
美咲は左手でポケットの中を探ってみる。爪にあたる冷たくて硬い感触は小銭だ。飲み物を買おうとして出てきたのをすっかり失念していた。
「七緒、この辺、自販あるか?」
「廊下、右手に曲がったつきあたり。どうしたの? ジュース?」
「おう。買ってくる」
「わかった。戻ってくるまでに化粧おわらせとくから、そしたら56番の子――相田さんだっけ? 見に行こう」
「は? もう? 早くね」
「このコンクール、予選は一人一分なの。だからじゃんじゃん順番まわるよ」
「ふぅん。りょーかい」
廊下に出ると、楽屋の熱気から逃れて、ひんやりとした風が肌を撫でた。この舞台裏は、表の高級感とは対照的に市役所みたいな装いだ。なんの装飾もなくて少し寒々しい。
そしてやっぱり壁も白。床も白だった。ただこの白は少し曇っていて、そこまでの刺激は目に与えない。
通路は出演者でごったがえしていた。みんな体を冷やさないようにとの配慮か、夏なのに長袖のジャージやパーカーを着て、ストレッチや振りの確認をしている。なんだか鬼気迫るオーラを感じて、美咲は気温とは違う意味で身を震わせた。
『み、さき……はやくぅ……!』
天使みさきと悪魔みさきのSOSを聞きつけて、「よし行くか」と美咲は気合いを入れた。だってあちこちで足が上がったり回ったりしていて、横を通ろうもんなら蹴り飛ばされそうなのだ。
自動販売機の前に着くころにはもう気疲れでぐったりで、あの女たちの中をまた潜り抜けないといけないのかと思うと、「もう勘弁してくれ」と泣きたくなった。
『おまえら、なに飲みたい?』
とりあえずやってきた目的を果たそうと、砂の上に仰向けに寝っころがってゴロゴロしている悪魔みさきに問いかける。
『んー……コーラ』
『天使みさきは?』
『……りょ、緑茶をっ……』
『二人して別々のモン注文してんじゃねぇよ! んじゃ、間とってオレンジジュースなっ』
『どこの間とってんだよ!』
『美咲が飲みたかっただけじゃん!』
非難轟々の二人をシャットアウトして、美咲は、ガコンッと落ちてきたペットボトルのキャップをその場で捻った。柑橘系の爽やかな香りが鼻腔いっぱいに広がって、ジュースが渇いたのどを潤していく。やっぱり、最高だな、オレンジジュース。
「あら、美咲くん。さっきぶりね」
自販機の横の壁にもたれてジュースを堪能していたら、そんな声が聞こえた。ひょいと顔を覗かせると、ミネラルウォーターのボタンに手を伸ばしている明里さんと目が合う。
「あ、ども」
「なあに? 小休止ってとこかしら」
「あーまぁ。おれ、楽屋にいてもすることねぇっすし」
「ううん、そんなことないわよ。現に美咲くんはすごくいい働きをしてくれたわ!」
急にテンションの上がった明里さんに、美咲はたじろぐ。女が感情の起伏が激しい生き物だということは、この数か月で重々承知の上だ。
「へ?」
「七緒のことよ。本当にありがとう。きょうはいい感じで本番に入れそうだわ! 最近、なんだか気落ちしているようだったから、心配だったの。私、口下手なもんだから、なんて声かければいいのかわからなくて」
口下手と言うわりにはサブマシンガン並みにまくし立てているが、これが口下手というなら世の中の無口な人たちはどうなってしまうのだろうか。
美咲は疑問に思ったが、口に出すほど愚かなマネはしなかった。復活した天使みさきが『賢明な判断だよー』と叫んでいる声がする。
「美咲くんはバレエ、やってるの?」
「あー……二週間前に始めたばっかっすけど」
「そう。じゃあ、人前で踊るようなことがあれば、きっと教えてね! 七緒と二人で絶対見に行くから!」
「は? なんでそんな……」
「美咲くんは、きっといいバレエダンサーになるわ。私が保証する。なんとなくだけれど、貴方は人を魅了する力を持ってるような気がするの。ダンサーの重要な素質の一つを」
「買いかぶりっすよ」
美咲は苦笑したが、明里さんの評価は変わらなかった。
「いいえ、だって七緒を立ち直らせてみせたじゃない」
「それは……!」
それは本当に偶然だ。たまたま。そう、たまたま上手くいっただけ。
美咲は、自分が人をどうこうできるほど、器用に立ち回れないことを自覚している。七緒は自分に少し似ていたからこそ、いいタイミングでかっちり歯車が噛みあっただけなのだ。
「美咲くんがそう言うなら、本当にそうなのかもね」
明里さんは穏やかな表情のまま、微笑んだ。
「でも、私、人を見る目はある方よ! 美咲くんは……そうね、気配というか、匂いがするの」
「匂い!?」
美咲はゴロゴロピッシャーン!! という効果音に相応しい威力の、脳天がかち割れるほどの落雷をあびた気分になった。
匂いって、
『加齢臭! 加齢臭ってことなのか!?』
『落ち着いて、美咲! まだ加齢臭の年齢じゃないよっ』
『じゃあなんだよ! 汗臭ぇってことなのかよっ』
『確かに、そりゃあるかもな。さっき全力疾走してたし』
『マジかよぉ……そんなに臭ぇのか、おれ』
『だ、大丈夫だよ、美咲! せ、制汗剤! 制汗剤借りよ! ね?』
『んな落ち込むなって。男は多少汗臭え方がワイルドだろ?』
ちび美咲たちのフォローが逆につらい。こんな面と向かって「匂う」と言われたのは初めてだ。
「そんなに臭ぇっすか、おれ!」
半ば半泣きで明里さんに縋ると、明里さんは一瞬きょとんとしたのち、ゲラゲラ笑いだした。
「ち、違うの! ごめんね。言い方が悪かったわ」
「は?」
「眠っている才能がありそう、って意味よ! そうね、なんとなく美咲くんは……生まれながらの演技者の匂いがするわ」
「はぁ」
汗臭いうんぬんの話じゃなくて、美咲は脱力した。
『よかったね、美咲』
『おう』
明里さんはまだ笑い止まない。相当に、いまの美咲の発言はツボだったんだろう。
むっと口を尖らせて、美咲は明里さんから視線をはずした。明里さんの言葉に感じる既視感。これはきっと、それがすべて、かつて服部が言ったことだからだ。
――服部はいま、なにをしているのだろうか。なにを、思っているのだろうか。
なぜか、この瞬間、服部も同じように、こうやって天井を見上げている気がした。
「美咲くんは一番星みたいな人ね」
急にそんなことを言われても、戸惑うだけだ。自覚がないだけによけい。
「キミは輝いて見えるわ。きっと悩んでいても、迷っていたとしても、キミの周りだけは色褪せず、いつもキラキラ光っているんでしょうね。そして、いつか周りの人間まで巻き込んで、満天の星空を作ってそう……なんて、喩えが過ぎるかしら」
ニコニコ笑って明里さんは「じゃあ、また」と去っていった。嵐のような人だった。
「……戻るか」
いつの間にか、カラになっていたペットボトルをゴミ箱にほうって、美咲は壁から身を離す。なんだか気持ちがふわふわしていた。綿あめにでもなった気分だ。
「おかえり、美咲――って、どうしたのっ!?」
「あ?」
楽屋に戻ると、七緒が飛んで来て、そして首を傾げた。真っ赤に塗りたくられた薄い唇が、弧を描いている。
「んだよ」
「だって、なんかいいことでもあった? すっごい嬉しそうな顔してる」
「へ?」
そっと顔に手をやった。頬が、ぽかぽかあったかい。口角が上がっているのは七緒だけじゃなくて自分もだった。
「なんでもねぇよ」
「えー、教えてよぉ」
「るっせ、行こうぜ」
「んーもー」
七緒と肩を並べて歩く。ホールのぶ厚いドアの向こうから、微かにホールアナウンスの声が漏れ聞こえていた。