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011 「おれは、おれの中の星を客席に放ってやるために」

 新見の言う、コンクールのホールというのは電車で一時間くらい揺られたところにあって、白の壁にガラス張りの、これまた陽に反射したら目が痛くなる類の建物だった。バレエに関わるものはすべてこんな色でなくてはならないのか、美咲には甚だ疑問だ。

「だぁー涼しい……」

 外は、来るまでにすっかり太陽が昇りきってしまっていて、朝とは段違いに暑くなっていた。午前中の熱気がまだかわいいもんだったと実感させられる。そんな炎天下の中を朦朧と歩いてきたせいか、室内の冷房がオアシスのように感じた。

「だねえ」

 普段、ニ学年上なこともあって、しっかりした言動とリーダーシップが目立つ新見も自動ドアをくぐった瞬間、「だねえ」と気の抜けた声を出した。

「まずは受付だよ、みさきち。チケット持ってるね?」

「おー」

 入ってすぐのところに並べられたカウンターで、電車の中でわたされていた券と引き換えに、二人分のパンフレットを受け取った。ざっと目を通すと、前半に相田、中盤に服部の名前を見つける。

「相田が56番、服部が92番」

56(ゴム)92(くに)か」

「ゴムと国になんの意味があんだよっ」

「ああっ!」

 突然新見が奇声を上げたので、美咲はびっくりして、危うく手元のパンフレットを床にばらまくところだった。

「んだよ!」

「あー……こりゃ、律子もツイてないわ……」

「は?」

 軽い口調ではあるが、新見の顔を見上げ、美咲は瞠目する。強張った顔だ。笑みを作るも、ぎこちない。

「律子の一つ前、神野七緒。中学一年生にして、ジュニア部門で何度も受賞してる、いわゆる天才だね」

「それが、服部となんの関係があるんだよ」

「わかってないねえ、みさきち。審査員は神様じゃない。人間だよ。どうしても比べちゃうだろ? 前の踊りが強烈であればあるほどね」

「ふぅん」

 なんだか別世界すぎて、美咲はあまり実感が持てなかった。要は、前の発表者が上手ければ上手いほど、あとに出る自分のダンスが霞むということらしい。

 メカニズムはわかったが、それだけだった。やっぱり自分の、自分だけのバレエでだれかと勝負する、その重みが美咲には、いまいちイメージできない。

「いまはそんなんでもいいさ」

 新見が笑って、ホールのドアを押し開けた。重厚感があるその扉は、ホールの雰囲気とも相まって高級感を醸し出している。

「いずれアンタが、自分の肌で戦場の空気ってやつを感じてくれればね」

 ひらけた視界の向こうに広がっていたのは、扇形に並べられた深紅の座席。座席、座席、座席。そしてこのすべての座席の中央に、幕に覆われた舞台があった。

「うひゃー四月ぶりだねえ、この感じ」

 ホールの中に足を一歩踏み入れると、もわっとこもったような、図書館で嗅ぐような埃の匂いがした。

「四月ぶり?」

「うん、そう。あたしらの教室、秋と春に大きな発表会開くのさ。場所はここじゃないけど、やっぱホールに来ると気ィ引き締まるわぁ」

 前方の真ん中付近は審査員席だと言うので、少し後ろの方に二人して腰掛ける。脳内の天使みさきは手にポップコーン、悪魔みさきはアイマスク着用で完全に寝る体制だったので、「遊びに来てんじゃねぇぞ」と美咲は頭を抱えるはめになった。

「でも、アンタには悪いけどさ、ちょっと意外だったわ」

 視線は手元に落としたまま、新見がぽつりと言った。

 その真意を測りかねて美咲は「は? なにが?」と返しつつ新見を見つめたが、

「いやね」

 彼女はこちらを見る素振りすら見せなかった。薄暗いホールの橙色の光が、新見の顔に影を落としている。

「別に悪い意味じゃないけどさ、アンタけっこうさばさばしてるから。来るとは思わなかったよ、人の応援なんて」

「……誘っといて人を薄情なやつ、みたいに言うんじゃねぇ」

「あはは、ごめんって。でも本当に悪い意味じゃなくて……うーん、なんて言ったらいいかな」

「けど」

 美咲は背もたれに頭頂部を乗っけて、天井を見上げた。真太郎のこともあったし、きのう服部のあんな様子を見ていなければ、来る気がなかったのは事実だ。

 バレエを見るのは好きだが、わざわざ遠出までして来たかったわけではない。

「けど、できることがなんもなくてもよ、不安がってる女がいたら、とりあえず姿ぐれぇは見えるとこにいてやっか、とは思うぜ、おれは」

『恥ずかしいやつ』

 間髪入れず悪魔みさきが茶々を入れてくるが、美咲は無視した。だってこれは美咲の本心に違いない。尾行が嫌だったのもあるが。

「ほんっと、可愛い顔して男前」

「ざっけんな! だれが可愛いってぇっ」

「あーはいはい。怒らない、怒らない」

「……新見……てんめぇ」

「おっと、もうすぐ始まるよ!」

 演技めいた口調で、わざとらしくホールの電光時計を見ながら、新見は美咲の肩を押した。

「トイレ行ってきな。あと飲み物とか口に入れたきゃそれも。ホールの中は飲食禁止だからさ。荷物はあたしが見とくし、ね?」

「ったく」

 上手く逃げられたような気がするが、美咲は仕方なく見逃してやることにした。小銭だけをポケットに入れて――このとき『おじさん臭いよ、美咲』とぬかした天使みさきには、左ストレートをお見舞いした――そして美咲は席を立つ。

 少ししかホールにはいなかったのに、外に出た瞬間、陽光に目がくらんだ。静寂が支配していた中とは対照的に、廊下は喧騒に包まれている。

 ちいさな子供が駆けまわる足音と、役員らしき人の慌ただしい靴音が、耳鳴りみたいに美咲の中に響いてきた。騒がしいが、静かなよりは美咲の好みだ。やっぱり美咲は、たとえ品がなくとも、お高くとまる金持ちになるよりは自分の足で走れる庶民でいいと思う。こんな上品な場所には、美咲は似合わない。「早く帰りてぇな」とまでは言わないが。

 入り口で目が慣れるまでぼうっと立ち竦んでいたら、

「どわっ」

 横っ腹に衝撃を受けて、美咲は勢いを殺しきれず地面に転がった。なんてタックルだ。一瞬、イノシシかなんかだと思った。痛ぇ。

「あ……ご、ごめん」

 きまり悪そうな謝罪が聞こえて、そこでようやく美咲は、目蓋を持ち上げた。あまりの衝撃に思わず目を閉じていたのだ。痛みでぼやける視界の中、捉えたのはジャージ姿の女で、見たことのない顔だった。

「最近、女にばっかひどい目にあってんな」

 と、思わずぼやく。ホラー映画のように、校内でひたすら追いかけて来る女もいれば、人が入っているトイレを(事故とはいえ)無断で開ける女もいる。

 本当にこの二週間と少しあまり、美咲は散々だ。

「痛かったよね、ごめん。立てる? 足とか挫いてない?」

 イノシシ女はそう言って、少し筋張った細くて白い手をそっと差し出した。相手を気づかう優しい言葉ではあるが、発言の端々に焦りが見え隠れしている。息も上がっているし、ときおり背後を振り返っている様子から見るに、

『悪いやつらから追われてたりして』

『ばっか、漫画じゃねぇんだから。んなわけねぇだろ』

 悪魔みさきの言葉に首を竦めてはみせるものの、それを期待しなかったかと言えば嘘になる。男ならだれでも憧れるシチュエーションだ。ヒロインを助けてあわよくば、という楽観的な考えが頭をよぎる。あほか。

 そんなことを考えていたら、焦れたイノシシ女がふいにしゃがみ込んで、美咲の両腕を逆手にむんずと掴んだ。

「っ!?」

 思わず「ぎゃあ!」と、声を上げるところだった。危ない。こんなことでビビッて悲鳴を上げるなんて、情けないにもほどがある。男が廃るところだった。

 イノシシ女は、そう命名したとおり行動も猪突猛進で、予測ができない。美咲が瞠目している間に、女は背中から美咲の腕を前に持ってきて、「よっこいしょ」と抱え上げた。

 つまり美咲はおんぶされたのだ。女に!

「ん? 見た目より重い……って、こんなこと女の子に言うのは失礼か。いや、悪い意味で言ったんじゃなくてね、筋肉あるんだね、すごい! ってつもりだったんだけど……ねえ、なにかスポーツやって――」

「ざっけんな! おろせよてめぇ! おれは男だっつのっ」

「え? ……ええ!? お、男!?」

 唖然としたイノシシ女の隙をついて、暴れてなんとかその背からおりる。ゼェゼェ肩で息をしながら「なにすんだよっ」と怒鳴りつければ、女はまだ呆然としたまま、

「……その、足痛くて立てないのかと思って?」

 と、なぜか疑問形で口にした。

「なんともねぇよ」

 思ったよりまともな理由で、美咲は仕方なく溜飲を下げた。しかし、思い返せばたしかにそうだ。前の「足とか挫いてない?」という発言から考えても、自分を心配しての行為だったことがうかがえる。

「ま、いつまでも腹立てててもしょうがねぇしな」と一息ついてから、

「急いでたんじゃねぇの? おれ平気だから、行けよ、ほら」

「え」

 女はまだ動揺から抜け出せていないのか、口をあんぐり開けたまま、じっとこちらを見つめていた。アホづらだ。あごがとれるんじゃないかと馬鹿な考えが浮かんで、美咲は自分に苦笑した。

「七緒ッ!」

 そのときだ。喧騒に負けず、一際大きく鋭い声が場を貫いた。

「ナナオ?」

 どこかで聞いたような気がするが、いまいち覚えていない。一応ちび美咲たちにも聞いてみるが、『さあ?』と二人とも、一様に首を傾げるだけだ。

「っ! 明里さん……」

「七緒ッ!」という声に反応して、人々が一瞬、発言主の女を振り返ったが、すぐに興味を失ったように、携帯を弄りだしたり、おしゃべりに戻っていった。

 唯一、その声に囚われているのはイノシシ女だ。微動だにしない。美咲を完全に置いてけぼりにして、彼女は驚愕の表情を顔面に張り付けている。

「……なんなんだよ、きょうは」

〝アカリさん〟なんてまた知らない女の名前を聞いて、美咲のクエスチョンマークは頭上に飛び出るばかりだ。ナナオ、アカリ。だれだ、ほんと。しかもまた、女の名前。

「もう埒が明かねぇな」と美咲は嘆息した。自分だけで、ぐるぐるしていても仕方がない。まずはこの状況を理解することが先決だ。

 タックルされたんだから、事情を知る権利くらいあるはずだった。

 しかし、固まったまま後方をじっと見つめているイノシシ女に、いま事情を聞こうとも、建設的な答えが返ってこないような気がする。いや、絶対に返ってこない。

 それなら、いま美咲がすべきは、

「ったく、来いよっ、逃げんだろ!」

「えっ?」

 イノシシ女の手を引いて駆けだした。逃走は得意だ。服部に鍛えられている。

「ちょっと! 待ちなさい、そこのキミ!」

 美咲を指すであろう、非難の声が聞こえたが、罪悪感はあれど止まることはできない。

「ねえっ」

「だまってろ! 手ぇ貸してやるっつってんだよ!」

 進行方向にあった絨毯張りのらせん階段を上がって、二階に上る。そこで気づいた。「このホールは二階席もあんだな」と感心してしまう。本当に大きなホールだ。金がかかってそうなだけはある。

 すれ違う観客らしき女二人組に、ぎょっとした顔で二度見された。そりゃあそうだ。女の手を取って逃げるなんて「洋画かよっ」とツッコみたくなる。恥ずかしい。

 映画のワンシーンみたいに、タッタッタッと颯爽と廊下を駆け抜ける。止まれない。止まらない。

「くっそ、もう、いいかよ」

 息もたえだえに美咲がしゃがみ込んだのは、とある壁の一角だ。もうどこをどう走ってきたのか覚えてもいない。関係者以外立ち入り禁止というわけではないだろうが、ここには人っ子一人いなくて怖いくらい静かだ。美咲とイノシシ女の荒い息づかいだけが木霊している。

「その……ありがとう」

 ようやく跳ねる心臓も落ち着いたころ、イノシシ女がぼそりと言った。

「別に? ま、これもなんかの縁だろ」

「縁? 面白いこと言うんだね。女の子に吹っ飛ばされたのが……縁」

「ケンカ売ってんのかっ、てんめぇ!」

「売ってない! 売ってない!」

「ったく」

 逃げ切れたのがわかったとたん、調子の良いイノシシ女。呆れた。まったく単純なもんだ。

「……なんか、悪いことでも、したのか?」

 普通に会話しながらさりげなく事情を聴きだすなんて器用なことのできない美咲は、とりあえず、そうド直球に口にした。ただ気まずさでつっかえつっかえになってしまったのが、なんとも締まらない。

「悪いこと? あー……うん、どうだろ? 悪いこと、なのかな」

 イノシシ女も歯切れ悪かった。眉尻を下げて困ったような表情を作る。

「言いたくねぇなら……別に」

「あははっ、優しいね! 別に言いたくないわけじゃないよ。ただ、ちょっと情けない話だから恥ずかしいだけ」

「おう」

「なあに、その反応」

「あァ?」

「だから、なんかないの? 『聞いてやるから話せ』とか『事情は、お前が話したくなったらでいい』とか」

「真逆の対応じゃねぇか! つーか、てめぇのその情けない話っつーのは、見ず知らずのおれなんかに、ホイホイ口に出来るモンなのかよ」

 女が意外そうな顔をした。いや、見ようによっては「急になに言いだすんだ? この人」と訝しむ表情にも捉えられる。解せぬ。なりゆきで逃げる手伝いをしてやっただけなのに、なんでこんな待遇を受けねばならないのだろうか。

「うん、そうだね。確かに知らない男の子の前で話す話でもなかったかも」

「てめぇ……自分から言っておいて」

「でも!」

 イノシシ女が、突然美咲の言葉を遮って声を荒げた。なにか気にくわないことでも言ったのだろうか。引き金がわからなかったが、その表情があまりに必死すぎて、美咲は非難するのはやめてあげた。

「じゃあなんで手、貸してくれるって言ったの? 本当に手助けしてくれるなら、あたしをバレエから解放してよ! 自由にさせてよ!」

 その叫びは、さながら悲劇のヒロインのようだった。赤いカーペットが一面敷き詰められたここで、彼女は劇のクライマックスを演じている。

 そしてこのとき美咲が受けた衝撃を表現するなら、まさに、どてっ腹に風穴を開けられた気分だった。自分のセリフに相手が激昂しているのがわかって、ちょっとショックを受けたのだ。

「…………」

 美咲は女の言葉を反芻した。なにかが引っ掛かるのだ。彼女の言葉にはつじつまの合わないところがあるような気がする。

『逆に〝モダンバレエ〟は、自由を重んじるバレエです!』

 その答えは、服部の夕陽に照らされて橙に染まった頬と、興奮で弾んだ声と共に甦った。

 服部が、美咲に最初にバレエを語ったときに使った言葉だ。

「……おれの……」

「……なに?」

「おれの、ダチが、モダンバレエは自由のバレエだって、前におれに言ったことがある」

「自由のバレエ?」

「おう。おまえは自由になりてぇんだろ? なのにバレエから解放しろって……そりゃ、おれにはできねぇよ」

 そう言ってすっきりした。上手く伝わったかはわからないが、美咲は、言いたいことは言えた。

「…………ごめん。完全に八つ当たりだった」

 長い沈黙のあと――実際は数秒、数十秒のことだったのかもしれないが、気を落ち着けた様子の彼女が、ため息と共にそう吐き出した。

「でも、よくわかったね。あたしがやってるのがモダンバレエだって」

「クラシックバレエ? ってのは、きょうがコンクールじゃないって聞いた」

「そっか、そうだね」

 二人して同時に口をつぐんだ。やっぱり周囲は静かで、なんとなく孤島に置き去りにされたような感覚を覚える。

「君の言うとおりだね」

「は、なにが?」

「あたしが解放されたかったのは、バレエじゃなくて」

「おう」

 女は、そのつづきは言わなかった。ただ、「バレエにも八つ当たりしちゃったから、謝らなきゃね」と、どこまで本気なのかわからない口調で笑って言った。

「ねえ、ちょっとでいいの……暇つぶしでもいいから、あたしの話、聞いてくれる?」

 いままでとは打って変わってしおらしい。なんだかそれがムズムズして、イノシシ女には、「さっきまでの猛進っぷりはどこいったんだ」という意味も込めて、美咲は、にっと挑発するように笑った。からかい口調でこう言う。

「知らない男の前では話さないんじゃなかったのかァ?」

「いいの! きょうだけ例外!」

「へいへい。ま、いいぜ。その代わり」

 美咲はあぐらをかいた自分の足に両手をやって、ぐいと胸を反らした。そうしてようやく壁にもたれて立っているイノシシ女と視線が交錯する。

「自分の番――91だっけ? それまでには戻れよ、七緒」

「どうして……っ!」

 この言葉には「知っているの」とつづくんだろう。そう言われて、正直に理由を述べることに、いまの美咲はなぜか抵抗を感じていた。だから、

「ないしょ、つったら怒るか?」

 からかうみたいに、べって舌を出して見せたら、女は一瞬の間ののち、くすくす笑い出した。楽しそうでなによりだ。

 実のところ、この女のことは〝ナナオ〟で思い出したのだ。息を整えている間に、天使みさきと悪魔みさきが記憶の本棚という本棚を引っ掻き回して、見つけてきたものだった。

 神野七緒。服部の一つ前の出演者で、天才と名高い少女。

「で? なにが情けねぇって?」

 天才というと、なんでもそつなくこなすイメージが、美咲にはあった。京介しかり、真太郎しかり。美咲の周りで天才と呼べるのはこの二人だけのような気がするが、二人とも、目の前のこの女みたいに、精神的に取り乱す姿は見たことがない。

 もしかしたら、美咲の知らないところで情緒不安定になることがあったのかもしれないが、それでも美咲の目には、二人はいつも真っ直ぐ前だけを見て、歩いているように見えていた。周囲に流されず、ぴんと胸を張って生きている、そんな感じ。

 ――そんな彼らも、こうやって思い悩むことがあったのだろうか。

「あたしね、バレエではそれなりに実力もあって、〝才能がある〟とか〝天才少女〟とか言われてるんだ」

 天を仰いだ彼女は、そう前置きをして話し始めた。美咲も自分から聞いた手前、大人しく聞いていてやろうと思うが、その前に、

「本人の口から聞くとなんかムカつくな」

 これだけは言っておかねばならない。腹立つものは腹立つのだ。

「あはっ、正直! うん、でもね、本当はそんなことないの」

 七緒は目を伏せて、自嘲気味に笑った。

「ちいさいころから、バレエをずっとやってきた。好きだったよ。そのころはまだ、先生もお母さんも優しくて、本当に楽しかったんだ」

 七緒の声は、さっきの激昂ぶりとは対照的に、ひどく静かだった。凪の海みたいに波紋もなく深い声だった。

「みんなが変わっちゃったのは、あたしが初めてのコンクールで入選してから。『次は賞を狙え!』、『賞が取れたら次はこのコンクールでも!』って、みんな口々に言いだすようになったの」

 最後まで話を聞いてはいないが、美咲は最終的に、この話がどこに帰結するのかを、ここで悟った。

 ――七緒は、プレッシャーという名の重圧に耐えきれなくなって、逃げ出したのだ。

「あたしもみんなが喜んでくれるのが嬉しくってね、一生懸命頑張ったよ。嫌いなレッスンだってちゃんとこなしたし、もっとうまく! って一日何時間も練習した」

「ああ」

「本当につらくなってきたのは最近。いままでは力になってたみんなの声援が、最近なんだか枷みたいに感じるの。……あたしは、もっと自由に生きたいのに! もっと自由に踊りたいのに!」

 この葛藤はわかる気がした。性格は男勝りなのに、身体の成長と容姿が伴わない。そのせいでクラスメートにはからかわれるし――美咲を女と勘違いして告白してくるやつもいた。

 特に小学生のころは、美咲はそれで少し悩みだってしたのだ。いまは諦めもついて、服装でなんとかすればいいや、と気付いたから、そこまででもないが。

『そうやって、ヤンキーと呼ばれる美咲ができあがったんだね!』

『るっせぇ!』

「むかし好きだった絵本の中でね?」

 急な話題転換に、美咲は危うくコースアウトするところだった。慌てて頷くと、七緒もこっくんと頷き返してくる。

「女の子が、ある日綺麗な小鳥を拾ったの」

「おう」

「その女の子は、小鳥を掴まえて籠の中に閉じ込めちゃって、小鳥が『出してくれ』って頼んでも、出してあげなかった」

「……定番だな」

「でしょ? でもあたし、この話はすごく好きだったからよく覚えてるんだ。……で、小鳥は何日も、外に出られないことを嘆いて、泣いてばっかりいるんだけど」

 それから七緒は目を伏せた。その憂いの表情に、美咲の方が緊張してしまう。

「ふとね、自分が、まるでその籠の中の鳥みたいだなって思ったんだ。そしたら、もう無理だった。耐えられなかった。好きで始めたバレエが……嫌いになりそうだったの! だからっ」

 想像してみた。籠の中の鳥。金色の洒落たアーチの籠の中に、毛先の青い小鳥が止まり木に足をかけて、隙間から見える大空に思いを馳せている。籠の隙間から足は出る。羽は出る。でも体だけがつっかえて出なくて、どれだけ想い焦がれても、空の中に飛び込むことはできない。

 金の格子が邪魔をする。そんな図が。

 七緒の話は、バレエに触れてまだ日が浅い美咲には、やっぱり想像がつかなかった。意味はわかるが、イメージができない。こんなとき服部なら気の利いた一言ぐらい言えたのだろうか、と、少しだけ思った。

「だからね、逃げちゃった」

 ぽーんと一回だけ弾かれた鍵盤の音みたいに、七緒の口から言葉が飛び出る。

 今度は美咲が目を伏せる番だった。遥か彼方で微かに曲が聞こえる。きっとコンクールが始まったのだろう。

「これでぜーんぶ! ね? 天才少女とか言われておきながら、情けない話だったでしょ? でも、だれにも話せてなかったから、すっごくすっきりした」

「ありがとう」と、いままでの雰囲気を払拭するみたいに、七緒が突如、明るい声を出した。この場には不釣り合いなくらい陽気な声だ。

 美咲は片目で様子をうかがった。朗らかな笑顔が視界いっぱいに広がる。ドヤ顔みたいな服部の笑みとはまた違う、屈託のない笑いだ。

 美咲の中に眠っていた面倒見のよさが、雪解けのころのふきのとうみたいに、にょきにょき顔を出す。

「おまえさ、なんのためにバレエやってんの?」

 突き放す言い方になったのは、その言葉が自分にもブーメランで返ってくるとわかっていたからだ。案の定、「えっ」と呟いた七緒は、ひどく狼狽していた。けれど美咲は迷わない。なんのためにバレエをやるか、美咲の答えはもう出ている。

「おれは、おれの中の星を客席に放ってやるために」

 美咲の答えはこれ一択だ。たとえば、服部ならきっと、「世界征服のためですよ」なんてあの特徴的な笑いと共に言ってくれるだろう。

「星ってなに?」

「星は星だっつの! おまえの中にはねぇの? なんつーか、こう……星なんだよ星っ」

「わっかんないよ」

 七緒が声を上げて笑った。うん、なかなかにいい笑顔だ。

「じゃあ、君にとってバレエは、星がいーっぱい散らばってる夜の空みたいなものなんだね」

 そんなことは言われたことがなかったので、少し驚いた。でも、

「おう! そうだなっ」

「ロマンチスト」

「るっせぇ! おまえは?」

「あ、たしは……」

 七緒の視線が泳ぐ。せわしなく眼球があっちにいったりこっちに来たり。

「…………もしねぇならさ、探そうぜ」

「えっ?」

「見つかんねぇんだろ、理由。なら、『自分さがし』。これを理由にすりゃあいいんじゃねぇか」

 ひどく名案みたいに感じた。政治家の演説みたいに拳を振りあげて、美咲は熱弁した。

「自分、さがし」

「おまえはこれから〝なんで自分がバレエするのか〟って理由を探すの目標に、これからも頑張る。ほかのだれのためでもねぇ。先生のためでもねぇ! もちろんおまえの母さんのためでもねぇっ! 自分の掲げた大義名分のために、嫌なレッスンもこなすし、コンクールにだって出る。これならプレッシャーなんて感じねぇだろ? だって人のために踊るわけじゃねぇんだから。……な、どうだ?」

「どうって……」

「自分のためだけに頑張るって、すげぇかっこよくね?」

 自己犠牲に美咲は男を求めない。自分を磨きつづけることにこそ、美咲は真の男が宿ると思っている。これが美咲のモットーであり、真理だ。

「イマイチ言ってること、よくわからないけど」

「おいっ」

「そっか……自分探しかぁ」

 七緒の沈んでいた声がどんどん浮き上がる。

「なんか、すっごい単純っ」

「たっ!? ざっけんなよ、てめぇ! シンプルこそ正義じゃねぇかっ」

「正義って……子どもみたい」

「あっ、くっそ、笑ってんじゃねぇよ! 人がせっかくっ」

「うん、そうだね! ごめんごめん! でも自分探しか……いいね、カッコいい!」

「だろ!?」

「うん、あたし頑張るよ! ……あ、あとね」

「あ? なんだよ」

「えっと……」

 言い淀んだ七緒がなにを求めているのか、美咲はキラリと閃いた。そうだ、名前だ。

「里谷。里谷美咲」

「美咲? 女の子みたいな名前!」

「……なんか言ったかぁっ」

「なんでもなーいよ! 美咲、あのね、もしよかったら本番まで一緒にいてほしいの」

「先生でもシメに行くのか?」

「言動がヤンキー!!」

「おれはヤンキーじゃねぇっ」

 七緒はうしろで手を組んで、廊下に飛び出した。一つに結わいた七緒のウェーブがかった髪が、弾んで横に広がるのがスローモーションみたいに映る。

「あたしをやる気にさせたんだからさ、責任とってよ」

 一瞬でも恋愛方向にぶっ飛んだ思考を蹴り飛ばしたい衝動に、美咲はかられた。そんなことあるわけがないのに、美咲も母さんのことは言えない。脳内、春爛漫だ、もう夏だというのに。

「これはギャルゲーじゃねぇんだぞ」とよく言い聞かせつつ、美咲は倦怠感の残る足で立ち上がる。

「責任?」

「そう。……最後まで、そばで見ててよ、あたしのバレエ」

 七緒の真摯な声が、美咲の脳髄を縦に貫く。服部、相田、新見、そして七緒。女の真っ直ぐな背中を見るのは好きだ。

「ああ、いいぜ」

 めいいっぱい挑戦的なドヤ顔を作ったつもりだったが、上手くいかなかったらしい。

「なあに、その顔っ」

 と七緒に笑われて、美咲はちょっぴり落ち込んだ。

「……美咲、ありがとう」

 楽屋に戻る道のりで、少し前を行く七緒が泣きそうな声で言ったこの言葉を、美咲は聞こえなかったことにしてやった。

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