第4話 石ころ一つ、寿命一つ
草原の前方に現れたのは、ツノウサギ。
ピンと立った耳に、額には鋭い小さな角が生えている。スライムより動きが速く、油断すれば怪我を負いかねない魔物だ。
「ほらゼニマル。先陣を切るんだろ? 君の言う『黒字経営』とやらを見せてよ」
リッチーは革椅子にどっかりと腰を下ろし、優雅に見物を決め込んだ。
一方のゼニマルは無言のまま、背中の銅の剣には手を伸ばさず、腰の袋をごそごそと探った。
取り出したのは――先ほど道端で拾った「ただの石」だ。
「は? なにそれ。武器を使わないの?」
「銅の剣は消耗品だ。斬れば刃こぼれのリスクが生じる。まずは減価償却費ゼロの『無料資源』から使うのが基本だ」
ゼニマルは石の重心を指先で確かめると、ツノウサギの毛皮に傷をつけないよう、狙いを「顔面」の一点に絞って放った。
――ヒュッ。
石は計算し尽くされた放物線を描き、見事にツノウサギの眉間へ直撃した。
「キィッ!?」
脳震盪を起こし、ツノウサギがその場でふらつく。
怯んだその一瞬の隙を突き、ゼニマルは地面を蹴った。
だが、それでも銅の剣は抜かない。代わりに彼が右手に握りしめたのは――「折れた剣の先」だった。
「それ、まだ持ってたのかい? ゴミじゃないか」
「俺にとっては立派な資本だ。柄がなくても、刃の機能は十二分に残っている」
短い刃が、ツノウサギの喉元の急所へと滑り込む。
――ズブリ。
最小の動作。最小のカロリー消費。そして、商品価値を下げる余計な傷を一切つけない完璧な一撃。ツノウサギは声を発する間もなく、その場で崩れ落ちた。
完璧なコスト管理の勝利だ。
「へえ、やるじゃないか。ただのケチかと思ったら、案外動けるんだね」
リッチーが感心して拍手しようとした、まさにその時だった。
ピチッ。
ほんのわずか。
倒れ際に力なく振られたツノウサギの角が、ゼニマルの手の甲をかすめた。
紙の端で指先を切った程度の、極微小な刺激。血すら一滴も出ていない。
だが。
【HP:9,999,999,999】
空中に浮かび上がったステータス画面を見て、ゼニマルの全身が石像のように固まった。
「……おい? どうしたんだい、急に止まって」
不審に思ったリッチーが立ち上がる。
「……減った」
「何が?」
「……『1』」
草原に、冷たい風が吹き抜ける。
ゼニマルは自分の手の甲をじっと見つめた。傷はもう塞がっており、痛みもない。しかし、ステータス画面の数字は、絶対に元には戻らない。
「……なんだ、たった1だろ? 君のHPは100億もあるんだから、誤差みたいなもんじゃないか」
呆れたように言うリッチーに向かって、ゼニマルはゆっくりと振り向いた。
その目は、全く笑っていなかった。
「“たった”って……言ったか?」
「い、いや、その……事実として……」
「いいか。回復手段が存在しない以上、この『1』は永遠の喪失だ。俺は今、己の寿命の一部を永遠に失った。つまり、俺は今、1回死んだのと同じなんだよ!!」
ゼニマルの腹の底から絞り出すような重い声に、さっきまでのリッチーの軽口がピタリと止まった。
ゼニマルは無言でしゃがみ込むと、震える手でツノウサギの死体を丁寧に解体し始めた。
毛皮に血を滲ませない。肉の鮮度を落とさない。角の根元を傷つけない。一切の無駄を省いた、執念の作業だ。
「……毛皮20G、肉15G、角10G……合計45G。スライムの核と合わせて、総資産46G」
血まみれの手で小銭の計算をしながら、ゼニマルは小さく呟いた。
「すごいじゃないか。完全な黒字だろ?」
「……わからん」
「は?」
「俺の失われた『HP1』が、現金換算でいくらに相当するのかが、分からないんだ」
それだけ言うと、ゼニマルは再び黙り込んだ。
命の値段が計算できない。その事実が、希代の節約家である彼を底知れぬ恐怖に陥れていた。リッチーは初めて、目の前の男の異常なまでの「執着」と「恐怖」の正体に触れ、軽く眉をひそめた。
「……そんな、この世の終わりみたいな顔するなよ」
「別に。事実を受け止めているだけだ」
ゼニマルはふらつく足で立ち上がると、解体した素材を丁寧に袋へ納めた。
「次からは、もっと離れて殺す。絶対に接触しない距離からだ」
「どうやって?」
リッチーの問いに答える代わり、ゼニマルは足元に落ちていた「石」をもう一つ拾い上げた。
「……無料だからな」
そして、獲物の血で汚れた「折れた剣の先」を、予備の布で丁寧に包み直す。
「……君さ」
「なんだ」
「怖いの?」
一拍の沈黙。
「当たり前だろ」
即答だった。
「減るんだぞ。俺の命が」
それだけ言い残し、ゼニマルは歩き出した。さっきよりも、ほんの少し背中を丸め、周囲の草木の揺れにまで過敏に反応する慎重な足取りで。
リッチーは100万Gの特注椅子を小脇に抱えながら、黙ってその後を追った。
草原の向こうには、鬱蒼とした森が見える。
たった1。
だが、確実に減った。
金は使っても稼げば戻る。だが、命は戻らない。
二人は初めて、この狂乱のインフレ世界に潜む「真の恐怖」を実感していた。
■贅沢勇者:リッチー
【所持金】9,998,839,900G
●本日の支出
無し
■節約勇者:ゼニマル
【HP】9,999,999,999
【所持金】0G
【装備】 銅の剣×99
【道具】折れた剣の先、石
【換金アイテム】合計時価総額──46G
●本日の収入
石×1、毛皮20G、肉15G、角10G
●本日の支出
石×1、HP1




