その一噛みは、王都を呑み込む牙
王都エルドラン。
かつて人類の希望の象徴だったその街は今、静まり返った恐怖に包まれていた。
民衆は家々の窓を閉ざし、隙間から「魔王の行進」を覗き見ている。
その中心を通る豪華な飛竜の馬車の中で、俺は緊張のあまり吐きそうになっていた。
(……人、全然いないじゃん。やっぱり嫌われてるよね? 歓迎されてないよね?)
俺は現実逃避のために、ゼノビアに小声で尋ねた。
「……ゼノビア。この街に、有名な『小麦の祝福亭』というパン屋があるらしいな。……そこへ行きたい」
(せめて、美味しいクロワッサンでも食べて落ち着きたい。それだけなんだ……)
だが、俺の言葉を聞いた瞬間、隣に座っていた新顔のアイザックが、眼鏡を光らせて手帳を取り出した。
「……『小麦の祝福』。……ほう、なるほど。陛下、あえてその場所を選ばれたのですね。……かの店は、王都で最も多くの貴族や兵士にパンを卸している、いわば物流の『心臓部』。……そこを最初に叩く。……合理的、かつ徹底的ですな」
「えっ、いや、ただのパン屋で――」
「わかります! 魔王様!」
セシリアが身を乗り出した。
「食べ物は生命の源。それを魔王様の手に収めるということは、この街の全住民の『生殺与奪』を握るという宣言ですね? ……毒を盛るまでもない。供給を止めるだけで、王都は飢えに喘ぎ、貴方の足元に跪く……。ああ、なんて完璧な『無血の制圧』なのでしょう!」
(違う! クロワッサンが食べたいだけなんだ! 誰を飢えさせるつもりもないよ!)
「……ああ、そうだとも。……早めに行こう。売り切れると、困るからな」
(人気店だって聞いたから、早く行かないとなくなっちゃうし……)
俺のその「焦り」は、四天王たちには「迅速な兵糧攻めの開始命令」として伝播した。
馬車がパン屋の前に止まる。
店主は腰を抜かして震えていた。
俺は馬車から降り、威厳たっぷりの(足が震えてゆっくりしか歩けない)動作で店に入った。
棚に並んだ、焼きたての香ばしいクロワッサン。
俺はそれを一つ指差し、震える声で言った。
「……これを、一つ。……全部、私のものだ」
(「これ一個ください」って言いたかったけど、緊張で言葉が変になった!)
だが、店主は「このパン屋にある全ての食糧権益を接収する」と理解し、涙を流して地面に額を擦り付けた。
俺はとりあえず、差し出されたクロワッサンを受け取り、その場で一口齧った。
サクッ、という心地よい音。
バターの香りが口いっぱいに広がり、俺は一瞬だけ恐怖を忘れて、ホッと溜息をついた。
「…………ふぅ。……悪くない」
その瞬間、背後のアイザックが激しくペンを走らせた。
「……聞いたか! 『悪くない』……! 王都の生命線を一口で評価された! これは『この街の価値を認めた』という宣言だ! つまり、この街を滅ぼさず、魔王領の『食糧供給基地』として再定義するという慈悲……! 陛下の一噛みによって、数万の民の命が救われたのだ!」
「……流石は陛下。パン一つで、王都の経済を魔王領の支配下に組み込まれたわ」
フェリスが影の中から感嘆の声を漏らす。
俺は、クロワッサンを咀嚼しながら、店主がなぜか「ありがとうございます! ありがとうございます!」と号泣しているのを見て、首を傾げた。
(……ここの店主、サービス精神がすごいな。一個買っただけでこんなに喜んでくれるなんて)
俺が店を出ると、街の様子が一変していた。
「魔王様がパンを食べた!」「我々を見捨てなかった!」「あのパンを食糧の基準にされるそうだ!」という噂が、四天王たちの意図的な(?)情報操作によって爆速で拡散されていたのだ。
気がつけば、道端に伏せていた民衆たちが、恐る恐る、しかし縋るような目でこちらを見始めていた。
「……陛下。……次は、どこへ向かわれますか?」
ゼノビアが、勝利を確信した笑みで問いかける。
俺は、パンのクズを払いながら、遠くに見える巨大な時計塔を指差した。
(あそこの展望台なら、景色が良さそうだな……)
「……あそこだ。……高いところが、いい」
(景色を見て、心を落ち着かせたい……)
だが、アイザックのノートにはこう記された。
『王都全域を俯瞰する時計塔の占拠。……全方位監視魔法の起点とする御意志。……人類の時間は、今この瞬間、陛下の支配下に置かれた』
俺の「王都観光」は、一歩進むごとに人類の自由を奪い、新たな秩序を構築していく「神の行軍」へと神格化されていった。




