第5話:荷物持ちの仮面を剥いで
空が腐っていた。
『忘却の聖域』の頂から舞い降りたその異形は、生物というよりは、この世のあらゆる負の感情を煮詰めて象った「災厄」そのものだった。
骨と腐肉に覆われた巨大な翼が羽ばたくたび、聖域を満たしていた清浄な魔力は、掃除機に吸い込まれるように消失していく。
『虚空の捕食者』。
本来なら数年後、魔王軍の総攻撃に合わせて封印が解かれるはずの魔物。それが今、この未熟なパーティの前に立ちはだかっていた。
「……う、あ……っ……」
アリサの杖から灯っていた微かな光が、ぷつりと消えた。
彼女は、まるで水のない池に投げ出された魚のように、喘ぎながら膝をつく。
この魔物の周囲には「魔力真空状態」が形成される。魔導士にとって、それは呼吸を奪われるのと同義だった。
「カイト……下がれ! 剣を引くんだ!」
レオンの叫びも、カイトの耳には届かなかった。
カイトは恐怖を打ち消すように、愛用の大剣を振りかぶって突進する。しかし、ヴォイド・イーターが放った紫色の腐食波動がカイトの剣に触れた瞬間、金属の焼けるような異臭が立ち込めた。
ギィィィィン……。
カイトの命とも言える大剣が、まるで数千年の歳月を経たかのようにボロボロと朽ち、崩れ落ちた。
「なっ……俺の、剣が……!?」
武器を失った戦士に、ヴォイド・イーターの巨大な鉤爪が迫る。
回避は間に合わない。カイトが死ぬ。十年前と、同じように。
(ああ……まただ。また、僕が歴史をいじくったせいで、死を早めただけじゃないか……!)
レオンの視界が真っ赤に染まる。
胸の奥で、ドクンと不吉な鼓動が跳ねた。
自責の念と、それを上回るほどの「怒り」が、彼の魂を焼き焦がす。
レオンは、背負っていた大きな革袋を地面に叩きつけた。
その衝撃で、これまで大事に守り続けてきた「荷物持ち」としての道具が散乱する。
「……もう、いい」
レオンの声から、一切の感情が消えた。
彼は散乱した荷物の中から、先程のガーゴイルの残骸から密かに回収していた、折れた石の支柱を手に取った。 それはただの石ではない。聖域の結界を制御する、古のエルフの魔導回路が刻まれた『聖槍のレプリカ』――その中核だ。
「レオン……? 何を……逃げて、早く!」
ミラが泣きながら叫ぶ。
だが、レオンは止まらない。
彼は手に持った石の芯に、己の精神を叩きつけた。
「――限定解除。回路接続、一〇〇パーセント……いや、限界突破だ。僕の魂を、すべて喰らっていい」
その瞬間、聖域の空気が爆発した。
レオンの体内から、Cランクの冒険者では到底持ち得ない、漆黒と黄金が混じり合った膨大な魔圧が溢れ出した。 ボロボロの服が風圧で激しく揺れ、レオンの茶髪は、魔力の奔流を浴びて透き通るような白銀色へと変色していく。
何よりも異様だったのは、その瞳だ。
濁りのない黄金色に輝く双眸。そこには、十七歳の少年が持つべき迷いなど微塵もなく、ただ「敵を屠る」という一点に特化した、老練な戦士の意志が宿っていた。
「……カイト。下がっていろと言ったはずだ」
レオンの声が、聖域の四方に響き渡る。
それは命令であり、同時に絶対的な守護の宣言だった。
ヴォイド・イーターが、自分を上回る魔圧の出現に苛立ち、咆哮を上げた。
空間を歪ませるほどの音波が放たれるが、レオンは一歩も引かない。
彼は手に持った石の芯を、虚空へと突き出した。
すると、溢れ出した魔力が物理的な刃となり、美しくも禍々しい『光の槍』を形作る。
「……一度死んだ身だ。今更、代償なんて怖くない」
レオンの足元で、石畳が粉々に砕けた。
次の瞬間、彼は消えた。
カイトたちの目には、レオンの動きが捉えられなかった。
ただ、紫色の空に一条の黄金の線が走ったように見えた。
レオンはヴォイド・イーターが放つ腐食の波動を、槍の先で「受け流し(パリィ)」ながら、重力を無視した軌道で空中を駆ける。
「ガァァァァッ!!」
ヴォイド・イーターが翼を振り下ろすが、レオンはその羽の「隙間」を一瞬で通り抜けた。
未来の戦場で、彼はこの魔物の攻略法を嫌というほど学んでいた。どのタイミングで喉が開き、どの瞬間に魔力真空が途切れるのか。
「アリサ! 立て! 杖をこっちに向けろ!」
空中で回転しながら、レオンが叫ぶ。
アリサは、変貌したレオンの姿に圧倒されながらも、本能的に杖を突き出した。
「僕が魔力を流す。君の火力を、僕の槍の軌道に乗せて放て! ……できるな!?」
「……え、ええ……ッ! やってやるわよ!!」
アリサは、レオンから逆流してくる強烈な魔力の波動を感じ、絶叫した。
それは彼女の許容量を遥かに超える、純度の高すぎる魔力。
レオンがアリサを「増幅器」として利用し、本来なら十秒かかる詠唱を一瞬で完了させる。
「『焦熱の審判』!!」
レオンの槍の先から、アリサの炎を纏った黄金の閃光が放たれた。
『零式・瞬天斬』。
かつての時間軸で、彼が最強の守護者と呼ばれた所以たる、回避不能の神速。
ドゴォォォォォォン!!
ヴォイド・イーターの胸部に、巨大な穴が空いた。
光の槍が敵の心臓部を貫き、内部からアリサの劫火が爆ぜる。
災厄と呼ばれた巨鳥は、悲鳴を上げる暇もなく、光の塵となって霧散していった。
激しい爆風が収まり、聖域に再び静寂が戻る。
レオンの手にあった光の槍が砕け、ただの石の破片となって地面に落ちた。
同時に、レオンの体から力が抜け、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちる。
「レオン!!」
カイトが真っ先に駆け寄り、レオンを抱きかかえた。
レオンの体は、ひどく熱を帯び、全身の毛穴から血が滲み出していた。
無理な限界突破の反動だ。
さらに異様な変化が彼を襲っていた。
白銀に変わった髪は元の茶色に戻り始めていたが、その一部は、雪のように白いまま残ってしまった。
そして――。
「レオンさん、嘘……その傷……!」
ミラの悲鳴に近い声。
レオンの左頬。
今まで何もなかったはずのその場所に、十年前のあの日、魔族によって刻まれたはずの「深い裂傷」が、赤黒い呪いのように浮かび上がっていた。
歴史が、レオンが「本来の力」を使ったことで、彼を『十年前のレオン』ではなく『十年後のレオン』として認識し始めたのだ。
「……ミラ……カイト、アリサ……。みんな、怪我は……ないか……?」
レオンは、血に濡れた唇を震わせながら、仲間の無事を確認するように手を伸ばした。
「バカ野郎……怪我なんてしてねぇよ! お前だよ! なんだよ今の……お前、本当にレオンなのか!? なんでそんな傷が……!」
カイトの瞳には、困惑と、自分を助けてくれた親友への激しい申し訳なさが渦巻いていた。
アリサは、震える手でレオンの傷跡に触れようとして、ためらった。
彼女の目には、もう疑念はなかった。そこにあるのは、残酷なまでの「真実」への予感だった。
ミラの治癒魔法のおかげで、レオンの容態は辛うじて安定した。
だが、聖域の神殿の一角で休む一行の間に、会話はない。
崩れ落ちた荷物、朽ちた大剣。そして、横たわるレオン。
すべてが、日常が崩壊したことを告げていた。
やがて、レオンがゆっくりと上体を起こした。
彼は、自分の左頬にある、ズキズキと疼く傷跡を撫でた。
「……もう、隠し通せないな」
レオンは、自嘲気味に笑った。
その笑みは、十七歳の少年が浮かべるものでは到底なかった。
「アリサ。君が言った通りだ。……行商人の知恵でも、薬のせいでもない。……僕は、知っているんだ。この先、何が起こるか。……そして、君たちがどう死ぬかを」
カイトの肩が、びくりと跳ねた。
アリサは息を呑み、ミラは祈るように手を組んだ。
「僕は、一度死んだんだ。……いや、死にたかったのに死ねなかったんだ。……この『黒の断崖』で、カイト、君が僕を庇って死んだ。アリサ、君は魔力が尽きて喉を掻き切られた。ミラ……君は、僕に生きろと言って、光の中に消えた」
レオンの言葉は、淡々としていた。
だが、その一言一言には、十年間積み上げてきた血の匂いと、涙の塩気が混じっていた。
「それからの十年間、僕はただの『荷物持ち』として、君たちの死骸を越えて生き延びた。……毎日、毎日、あの日を思い出して、自分を呪って、剣を振り続けた。……そして、気がついたらお墓の前で願っていたんだ。もう一度、戻りたいと」
レオンは、震える自分の手を見つめた。
「……気がついたら、馬車の中にいた。君たちが笑ってた。……だから決めたんだ。どんなに嘘をついても、どんなに歴史の理に逆らっても、今度こそ、君たちを死なせない。……僕の命なんて、どうでもいい。君たちが笑って明日を迎えられるなら、僕は悪魔にだってなる」
沈黙が、聖域を支配した。
あまりにも荒唐無稽な告白。普通なら、狂人の戯言だと切り捨てるだろう。
だが、先程のヴォイド・イーターとの戦い、そしてレオンの頬に刻まれた「未来の傷跡」が、何よりも重い証拠としてそこに鎮座していた。
「……レオン」
カイトが、低く掠れた声で呼んだ。
彼はレオンに歩み寄り、その胸ぐらを、先程のアリサよりもずっと力強く掴み上げた。
「……ふざけんなよ」
カイトの瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「お前が俺たちを守るために十年間一人で戦ってきたって? ……俺たちが死んで、お前だけをそんな顔にさせたってのか? ……そんなの、俺が許さねぇ。リーダー失格じゃねぇか……!」
カイトは、レオンを抱きしめるようにして、その肩に顔を埋めた。
「……苦しかっただろ、レオン。……一人で、全部背負い込んで……。もう、いいんだ。これからは、俺も背負う。……お前が未来から来たってんなら、その未来を一緒にぶっ壊してやろうじゃねぇか!」
「カイト……」
「私も……協力するわ」
アリサが、レオンの隣に座り、その傷跡を優しく指先でなぞった。
「あなたの言う『未来』がどんなに絶望的でも、今の私たちにはあなたがついてる。……最強の『荷物持ち』がね。……それに、私の魔法をあんな風に使いこなすなんて、百年早いわよ。次は、もっと完璧に合わせてあげるわ」
ミラも、レオンの手を両手で包み込み、聖女としての穏やかな、けれど強い光を宿した瞳で見つめた。
「レオンさん。あなたが守ってくれたこの命、次はあなたが辛い時に支えるために使わせてください。……二人で一人、いえ、四人で一つのパーティなんですから」
レオンの目から、十年間溜め込んでいた涙が、溢れ出した。
(ああ……。そうか。僕は、一人じゃなかったんだ)
仮面は剥がれた。
「ただの荷物持ち」としての平和な日常は、もう戻ってこない。
だが、レオンの心は、かつてないほどに晴れやかだった。
「……ありがとう。……行こう、みんな。……絶望の未来を、僕たちの手で塗り替えるために」
聖域の塔に、朝日が差し込み始める。
歴史の修正力という強大な敵に対し、一人の「逆行者」と、その運命を共有することを決めた「英雄候補たち」の、真の反撃がここから始まる。
レオンは、散乱した荷物の中から、一つだけ残ったボロボロの革袋を、今度は「誇り」を持って背負い直した。




