第3話:閃光の荷物持ちと、狂い始めた歯車
森の静寂が、一瞬にしてひび割れた。
茂みから現れたのは、本来この時期、この平穏な街道付近には存在するはずのない異形だった。
漆黒の軽装甲に身を包み、その隙間から覗く肌は病的なまでに白い。細長い四肢にはしなやかな筋肉がつき、何よりもその瞳――獲物を屠ることのみを目的とした、爬虫類のような縦に割れた紅い双眸。
「……魔族の、斥候」
レオンは喉の奥から絞り出すように呟いた。
心臓が早鐘を打つ。これは恐怖ではない。十年という歳月をかけて魂に刻み込まれた、生存本能による警告だ。 斥候、と呼称されてはいるが、その戦闘能力は単独でBランク冒険者数名に匹敵する。魔力に対する高い耐性を持ち、隠密と暗殺に特化した魔王軍の尖兵。
「な、なんだよありゃ……。ゴブリンの親玉か何かか?」
カイトが引きつった笑みを浮かべ、大剣を引き抜く。
彼の直感は「危険だ」と叫んでいるはずだが、まだ若き日の彼は、魔族という存在の真の恐ろしさを知らない。ただの強い魔物だと思い込もうとしている。
「カイト、下がって! そいつは……そいつは、君が今戦っていい相手じゃない!」
「何言ってんだレオン! 俺が下がって誰が戦うんだよ。アリサ、ミラ、援護を!」
カイトの叫びとともに、戦いの火蓋が切られた。
カイトが地面を蹴り、一気に間合いを詰める。『蒼天の翼』自慢の剛剣が、斥候の首筋めがけて振り下ろされる。並の魔物なら、その風圧だけで絶命する一撃だ。
だが。 キィィィィン、という耳を劈くような金属音が響いた。
斥候は、腰に差していた逆刃の短剣を抜くことさえせず、鞘のままカイトの一撃を受け止めていた。
「なっ……!?」
カイトの驚愕を嘲笑うかのように、斥候は最小限の動きで剣を流し、空いた左手でカイトの胸に掌打を叩き込む。 ドォォォォン! と大気が震え、カイトの巨体が木の幹まで吹き飛ばされた。
「カイト! ……『氷結の槍』!」
アリサが即座に詠唱を完了し、鋭利な氷の刃を放つ。
しかし、斥候は逃げようともしない。彼はただ短剣を構え、飛来する氷の槍を真っ向から切り裂いた。
ただ切り裂いたのではない。アリサが込めた魔力そのものを無効化し、氷をただの霧へと霧散させたのだ。
「魔法が、消された……!? 嘘でしょ、私の全力よ!?」
アリサの顔から血の気が引く。
魔族特有の技術――『魔力相殺』
これこそが、かつて多くの魔導士たちが絶望し、命を落とした理由だ。
斥候は、アリサやカイトにはもう興味がないと言わぬばかりに、視線を一点に定めた。
後方で祈りを捧げようとしていた、パーティの生命線――ミラだ。
斥候の姿が、かき消える。
「ミラ、逃げろッ!!」
カイトの悲鳴のような叫び。だが、ミラの反応速度では、魔族の跳躍には到底追いつけない。
斥候は空中で短剣を抜き放ち、ミラの喉元を正確に狙って急降下する。
(ああ、ダメだ……まただ。また、僕は見ていることしかできないのか……!?)
レオンの視界が、一瞬だけ十年前のあの日と重なった。
仲間の肉が裂け、鮮血が舞い、大切な人たちがモノのように転がっていく光景。
その瞬間、レオンの中で何かが「プツン」と切れた。
「――させる、かよぉぉぉッ!!」
レオンは自分の肉体が悲鳴を上げているのを無視し、魔力回路を強引に全開にした。
十七歳の未熟な器に、二十七歳の練達した魔力操作を流し込む。
足元の地面が爆発し、レオンの姿が、斥候をも上回る速度で消失した。
『縮地』
ミラの目の前に、突如として現れたレオンの背中。
レオンは武器を抜く時間さえ惜しみ、背負っていた巨大な革袋を盾にするように振り上げた。
ガキィィィン!!
斥候の短剣が、レオンの革袋に深く突き刺さる。
中に入っていたのは、昨日ゾランの店で買い占めた大量の『月見草の根』。非常に弾力があり、魔力を吸着する性質を持つその雑草が、即席の防弾チョッキのように斥候の一撃を食い止めた。
「レ、レオン……さん?」
背後でミラが呆然と声を漏らす。
レオンは、革袋を貫通して自分の肩を数センチほどかすめた刃の冷たさを感じながら、斥候と至近距離で視線を合わせた。
「……人間、か……?」
斥候が、初めて驚愕の色を浮かべて言葉を発した。
ただの荷物持ちだと思っていた無能力者が、自分の速度に反応し、あまつさえ攻撃を防いだのだ。
「……ただの荷物持ちだよ。お前らに、全部奪われた男だ!」
レオンは、袋に突き刺さった斥候の腕を左手でがっしりと掴んだ。
右手の袖口から、予備の投擲用ナイフを逆手に抜き取る。
二十七歳のレオンが、死地で覚え、磨き上げた『暗殺剣・顎砕き』。
「ハァッ!!」
レオンのナイフが、斥候の装甲の継ぎ目――喉笛の真下へ、正確無比に突き立てられた。
ギィィィィ、という耳障りな絶叫。
魔族といえど、急所への物理的な打撃は防げない。ましてや、レオンのナイフには、彼の残りの魔力のすべてが圧縮されて込められていた。
「今だ、カイト!! 右脚の付け根を斬れ!! アリサ、氷は足元だ、動きを止めろ!!」
レオンの、地獄の底から響くような鋭い指揮。
その声の圧力に、硬直していたカイトとアリサの体が反射的に動いた。
「おおおおおおおっ!!」
カイトの大剣が、レオンの指示通り、斥候の唯一装甲が薄い右脚の付け根を深く切り裂く。
同時にアリサが地面を凍らせ、斥候の回避行動を完全に封じた。
「ミラ、聖なる光を……! こいつを浄化しろ!!」
「はいっ!! ……天にまします慈悲の光よ、『聖域』!!」
ミラの祈りが形となり、純白の光が斥候を包み込む。
魔族にとって猛毒である聖属性の奔流。
喉を潰され、足を封じられた斥候に、それを回避する手段は残されていなかった。
やがて、光が収まると、そこには黒い灰だけが残されていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ……!!」
レオンは、その場に崩れ落ちた。
右腕の感覚がない。無理な魔力操作によって、血管のあちこちが破裂し、皮膚が赤黒く変色している。全身の筋肉が千切れるような激痛を訴えていた。
「レオン!! お前、大丈夫か!?」
カイトが駆け寄り、レオンの肩を抱きかかえる。
アリサとミラも、青ざめた表情で駆け寄ってきた。
「レオンさん、今すぐに、今すぐに治療を……! 『大癒』!」
ミラの温かな光がレオンを包み込む。
痛みが引いていくのと同時に、レオンは言い知れぬ安堵感に包まれた。
(……守れた。誰も、死んでない。ミラも、怪我をしてない……)
だが、安堵の直後、刺すような視線を感じた。
アリサだ。彼女は、灰となった魔族の跡と、レオンのボロボロになった腕を交互に見つめ、唇を噛んでいた。
「……レオン。説明して。今の、何? あなた、魔法は使えなかったはずでしょ? それにあの動き……昨日までとは、別人のようだったわ」
カイトも、支える手に力を込めながら、真剣な眼差しでレオンを見た。
「ああ。俺も聞きたい。……レオン、お前、本当は何者なんだ?」
レオンは、思考を巡らせた。
正直に話すべきか? 「僕は十年後の未来から来た、全滅した君たちの生き残りだ」と。 いや、言えるはずがない。そんな荒唐無稽な話を信じてもらえる保証はないし、何より、彼らに余計な恐怖を与えたくない。
「……昨日、ゾランの店で……無理を言って、秘蔵の薬を買ったんだ」
レオンは、掠れた声で嘘を吐いた。
「『狂戦士の雫』っていう、一時的に魔力回路を強制拡張する劇薬だ。……どうしても、みんなの役に立ちたくて。荷物持ちのままじゃ、いつか君たちに置いていかれる気がして、怖かったんだ。……ごめん、黙ってて」
レオンは、顔を伏せて震えるフリをした。
あざとい、と自分でも思う。だが、今の自分は「必死で仲間に追いつこうとする健気な荷物持ち」でいなければならない。
「……バカ野郎」
カイトが、レオンの頭をごしごしと乱暴に撫でた。
「置いていくわけないだろ。俺たちはパーティだぞ? ……でも、ありがとうな。お前があの時動いてくれなきゃ、ミラは……いや、俺たち全員、危なかった」
「レオンさん……もう、あんな無茶はしないでくださいね。私のために、あなたが傷つくのは……悲しいです」
ミラの瞳に涙が浮かんでいるのを見て、レオンの胸が締め付けられた。
アリサだけは、まだ納得いかないような、探るような目をしていたが、それでも小さく溜息をついて杖を収めた。
「……その薬、後で私に見せなさい。成分を調べないと、後遺症が怖いから。……でも、助かったのは事実よ。ありがとう、レオン」
「……ああ」
仲間たちが、倒した魔族の残滓を片付け、周囲を警戒している間。
レオンは、斥候が持っていたはずの「遺留品」を探した。
灰の中に、一つだけ燃え残った、奇妙な意匠の筒があった。
中を開け、中身を確認したレオンの指先が、凍りついた。
「……嘘だろ」
そこにあったのは、羊皮紙に記された『魔王軍・第三軍団進軍計画図』。
そして、その日付だ。
(おかしい。……この計画は、本来なら来年の冬に実行されるはずのものだ。どうして、今ここに……!?)
レオンの背中を、嫌な汗が伝う。
自分が「お墓参り」という行為からこの世界に戻り、本来受けるはずだったキマイラの依頼を拒絶した。その、ほんのわずかな「運命の変更」が、世界全体に波及している。
歴史が、レオンの知っているものよりも遥かに早いスピードで、破滅へと向かい始めている。
(『因果の揺り戻し』か、それとも僕の行動がトリガーになったのか……。どちらにせよ、のんびり成長している暇はない。カイトたちが今の実力のままじゃ、半年も持たずに、世界が滅ぶ)
レオンは、筒を懐に深く隠した。
仲間たちの笑い声が聞こえる。まだ彼らは、自分たちが置かれた絶望的な状況を知らない。
「カイト! アリサ! ミラ!」
レオンが、決然とした声で仲間を呼んだ。
振り返る三人に、レオンはこれまでの「ただの荷物持ち」としての弱気な顔をかなぐり捨て、かつて戦場で仲間を鼓舞した『守護者』の瞳で告げた。
「次の目的地を変えよう。……リュミエールには戻らない。北の『忘却の聖域』へ向かう」
「え? 聖域って……あそこ、Aランク以上の冒険者しか立ち入り禁止の、超危険地帯だろ!?」
「あそこなら、一ヶ月で君たちを十倍強くできる。……大丈夫。僕が、全部ナビゲートする。……信じてくれるかい?」
カイトたちは、レオンの変貌ぶりに言葉を失った。
だが、先ほどの戦いで見せた圧倒的な結果と、その瞳に宿る真剣さが、彼らの「NO」という言葉を飲み込ませた。
「……わかったよ。お前がそこまで言うなら、付き合ってやるぜ。お前には、何かが見えてるみたいだしな」
カイトが笑い、拳を差し出す。
レオンはその拳を、力強く突き返した。
狂い始めた歯車。加速する滅びのカウントダウン。
だが、レオンの心は折れてはいなかった。
(変えてやる。加速する絶望よりも早く、僕がみんなを最強にしてみせる)
一歩、また一歩。
レオンは、死の匂いが漂う森の奥へと、愛する仲間たちを連れて歩き出した。
その背負い袋には、もはや荷物だけではなく、世界の運命そのものが詰まっていた。




