春を拾う
失ったものが多いほど、前に進むのが怖くなる。
けれど、誰かの小さな言葉が、
その足をもう一度動かしてくれることがあります。
春の匂いが、少しでもあなたに届きますように。
会社を辞めたのは、三日前だった。
机の上の荷物を段ボールに詰めるとき、
胸の奥は空っぽで、何も感じなかった。
夜行バスの窓から見える、
街の灯が遠ざかっていく。
眠れないまま夜を越え、
気づけば故郷の町に
春の匂いが漂っていた。
誰もいない田んぼ道を歩く。
枯れた雑草の間から、土の色が見える。
そのとき、足元に小さなノートが
落ちているのに気づいた。
表紙は泥で汚れていた。
拾い上げてページをめくると、
子どもの文字が並んでいる。
「作文帳」と書かれたその中には、
いくつもの拙い言葉がつづられていた。
⸻
「ぼくはおじさんがすきです」
「おじさんはいつもつかれてるけど、
ぼくにえがおをくれました」
「おじさんが、またわらえますように」
⸻
──心臓が、少しだけ鳴った。
この字を、知っている気がした。
“おじさん”と呼ばれていた頃のことを思い出す。
会社員だったころ、仕事帰りに寄っていた児童館。
疲れた顔でふらりと立ち寄ったある日、
ひとりで絵を描いていた少年がいた。
晴という名前だった。
親の迎えがいつも遅くて、よく夜まで残っていた。
俺はその隣で、黙って塗り絵をしたり、
ブロックを積んだりした。
⸻
「おじさん、なんで笑わないの?」
あのとき、彼はまっすぐにそう言った。
思わず笑って、「疲れてるだけだよ」と返したら、
嬉しそうに笑った顔を今でも覚えている。
⸻
──あの晴の字だ。
作文帳のページをめくる手が震えた。
最終ページには、貼りつけられた
四つ葉のクローバーと、ひとこと。
「おじさん、またいっしょにあそぼうね。」
胸の奥が痛い。
彼は、まだ覚えていてくれたのか。
俺のことなんて、とっくに忘れられていると
思っていたのに。
⸻
気づけば、足は児童館へ向かっていた。
あの日の道は、少しだけ舗装されていたけれど、
角を曲がった先の白い建物は昔のままだった。
玄関先で声をかけると、見覚えのある
保育士の女性が顔を出した。
俺のことを覚えていたらしく、
目を丸くして言った。
「悠さん?久しぶりね。晴くんは去年、
小学校を卒業してね。もうすぐ中学生なのよ。」
そう言って、彼女は笑った。
作文帳を見せると、「これ、たぶん落としたのね」
と言って受け取ってくれた。
⸻
帰ろうとした俺の背中に、彼女の声が飛んだ。
「この花、晴くんが植えたのよ。
『春が来たら咲くから』って。」
視線を向けると、花壇の隅に小さな
チューリップが並んでいた。
まだつぼみのままだが、
淡いピンク色が透けている。
風が、やわらかく吹いた。
どこからか、子どもの笑い声が聞こえた気がした。
俺はしゃがみこんで、花にそっと指先を伸ばす。
「……ありがとう。」
声は震えていた。
涙がこぼれても、止めなかった。
それは悲しみではなく、
ようやく溶けた氷のようだった。
⸻
家へ戻る道の途中、空を見上げる。
グレーだった雲のすき間から、光が差している。
まだ冷たい風の中に、春の匂いが確かにあった。
歩きながら、ふとポケットの中を探ると、
作文帳のページの切れ端が残っていた。
そこには、あの拙い字で書かれていた。
⸻
「おじさんが、また笑えますように。」
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その言葉に、口の端が自然と緩んだ。
胸の奥に、あたたかい火が灯る。
歩き出す足取りは、少しだけ軽くなっていた。
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──春を拾った日だった。




