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春を拾う

作者: 細川ゆうり
掲載日:2025/11/04

失ったものが多いほど、前に進むのが怖くなる。


けれど、誰かの小さな言葉が、

その足をもう一度動かしてくれることがあります。


春の匂いが、少しでもあなたに届きますように。


 会社を辞めたのは、三日前だった。

 机の上の荷物を段ボールに詰めるとき、

 胸の奥は空っぽで、何も感じなかった。


 夜行バスの窓から見える、

 街の灯が遠ざかっていく。

 眠れないまま夜を越え、

 気づけば故郷の町に

 春の匂いが漂っていた。


 誰もいない田んぼ道を歩く。

 枯れた雑草の間から、土の色が見える。


 そのとき、足元に小さなノートが

 落ちているのに気づいた。


 表紙は泥で汚れていた。

 拾い上げてページをめくると、

 子どもの文字が並んでいる。


 「作文帳」と書かれたその中には、

 いくつもの拙い言葉がつづられていた。


 ⸻


 「ぼくはおじさんがすきです」


 「おじさんはいつもつかれてるけど、

 ぼくにえがおをくれました」


 「おじさんが、またわらえますように」


 ⸻


 ──心臓が、少しだけ鳴った。

 この字を、知っている気がした。


 “おじさん”と呼ばれていた頃のことを思い出す。


 会社員だったころ、仕事帰りに寄っていた児童館。

 疲れた顔でふらりと立ち寄ったある日、

 ひとりで絵を描いていた少年がいた。


 はるという名前だった。

 親の迎えがいつも遅くて、よく夜まで残っていた。


 俺はその隣で、黙って塗り絵をしたり、

 ブロックを積んだりした。


 ⸻


 「おじさん、なんで笑わないの?」


 あのとき、彼はまっすぐにそう言った。


 思わず笑って、「疲れてるだけだよ」と返したら、

 嬉しそうに笑った顔を今でも覚えている。


 ⸻


 ──あの晴の字だ。


 作文帳のページをめくる手が震えた。

 最終ページには、貼りつけられた 

 四つ葉のクローバーと、ひとこと。


 「おじさん、またいっしょにあそぼうね。」


 胸の奥が痛い。

 彼は、まだ覚えていてくれたのか。

 俺のことなんて、とっくに忘れられていると

 思っていたのに。


 ⸻


 気づけば、足は児童館へ向かっていた。


 あの日の道は、少しだけ舗装されていたけれど、

 角を曲がった先の白い建物は昔のままだった。


 玄関先で声をかけると、見覚えのある

 保育士の女性が顔を出した。

 俺のことを覚えていたらしく、

 目を丸くして言った。


 「悠さん?久しぶりね。晴くんは去年、

 小学校を卒業してね。もうすぐ中学生なのよ。」


 そう言って、彼女は笑った。


 作文帳を見せると、「これ、たぶん落としたのね」

 と言って受け取ってくれた。



 帰ろうとした俺の背中に、彼女の声が飛んだ。


 「この花、晴くんが植えたのよ。

 『春が来たら咲くから』って。」


 視線を向けると、花壇の隅に小さな

 チューリップが並んでいた。

 まだつぼみのままだが、

 淡いピンク色が透けている。


 風が、やわらかく吹いた。

 どこからか、子どもの笑い声が聞こえた気がした。


 俺はしゃがみこんで、花にそっと指先を伸ばす。


 「……ありがとう。」


 声は震えていた。

 涙がこぼれても、止めなかった。


 それは悲しみではなく、

 ようやく溶けた氷のようだった。


 ⸻


 家へ戻る道の途中、空を見上げる。

 グレーだった雲のすき間から、光が差している。


 まだ冷たい風の中に、春の匂いが確かにあった。


 歩きながら、ふとポケットの中を探ると、

 作文帳のページの切れ端が残っていた。


 そこには、あの拙い字で書かれていた。


 ⸻


 「おじさんが、また笑えますように。」


 ⸻


 その言葉に、口の端が自然と緩んだ。

 胸の奥に、あたたかい火が灯る。


 歩き出す足取りは、少しだけ軽くなっていた。


 ⸻


 ──春を拾った日だった。


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