7話 血路
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コツ……コツ……
物置部屋の小窓を外から叩く音がある。
曇っているためか星の光すら入り込まない暗闇の小部屋でひっそりと息を潜めていた少年は、その音を合図に予てから開いていた窓から身を乗り出し湿った地面へと着地した。
すでに近くの植え込みに身を隠したハルと一つだけ頷き合い、地を這うような姿勢のまま北側の比較的小さな通用門を目指す。
〈――小さな人の子、狼の子、大きな巣から飛んでった〉
僅かな虫の音のする草むらの間から唐突に誰かの囁き声が聞こえてくる。
アルの耳にその小さな囁きが届くよりも早くハルは彼の身を引き寄せ茂みの中に隠れた。
〈見つけて人の子に教える。良い物、もらえる〉
複数の何者かが二人が潜む茂みのすぐ近くを通過していく。
闇の中をぼんやりと光る小さな飛行体がゆらゆらと庭の表方へと遠ざかる。
「……僕たちを探してる」
「たぶんネーレが呼んだ。アルが逃げるのを知ってたんだ」
ピクシーたちの姿が消えたことを確認したハルはアルの手を取り先を急いだ。
通用門を抜け、いつもより大回りに森を通り表門から続く道を並行して歩いた。
ハルの目に納屋が見えてくるまでの間、周囲を待ち伏せる者や罠の類はなかった。
姸狼族のハルは夜目が利くため暗闇でも物の区別ができることに加え、嗅覚や聴覚も鋭敏であることから仮に何者かが潜んでいたとしても難なく察知することができた。
早くサティスに会いたい気持ちを抑え辺りを確認したハルは納屋前に続く小道に踏み出す。
「――ッ!」
地に足が触れた途端、強烈な刺激臭がハルの鼻を掠める。
散々嗅ぎなれたはずの、吐き気を催すほど濃厚なあの香水の臭いだ。
「ぐぁ……」
「ふぃ。危うくバレるところだったぞネーレ。遠征中は香水禁止だな」
臭いに勘付いた瞬間に飛びずさったハルだが、夜闇から不意に現れた男により捕らえられた。男の腕に飛び込む形になった体は瞬く間に首に掛けられた片手に垂れ下がる。
声に遅れて照らされた小道に三人の姿が露わになった。
「冗談よしてよ。それより、私の〈隠蔽〉は完璧だったでしょ兄さん? あの女なんかよりずっとうまくできるんだから」
「匂いが隠し切れてねぇんだよバカが」
宙吊りになったハルが苦しむ顔をまじまじと見ながらパトリックが毒づく。
自身の魔術の精度を得意気に語るネーレは後ろに佇むヨルベンにしつこく賛同を求めた。
「パトリック。弄んでないで早く片付けろ」
常に周囲を警戒するヨルベンはパトリックが携えた獲物がバタバタと抵抗する様を一瞥し忠告する。
「へいへい」と雑な返事をしながらもパトリックは言われた通りに掴んだ片手に更に力を籠める。獲物の体が伸び完全に弛緩したのを確認した後、その身を地面に放り捨てた。
「きったねぇ! こいつ漏らしやがったぞ」
「仕方ないじゃない。獣はどこにでもするんだから」
一頻り罵った挙句、路傍に転がる獣人に飽きた二人は近くに潜んでいるであろうアルを探し始める。
日頃の躾の成果もあり逃亡するなど有り得ないと考えているだけに二人は驚くほど楽観的で、雑に付近の茂みを掻き分けるにとどまった。
「アルぅ、隠れてないで出ておいでー」
「ったく、手間をかけさせるな! さっさと出てきやがれ!」
次第に焦りを見せる兄妹はアルの予想外の反抗に苛立ちを募らせ時折吐かれる侮蔑の言葉には熱が籠り出した。
「まさかあいつ、あの女と逃げやがったんじゃ――」
アルがすでに納屋にいるサティスと共に逃げたと仮定したパトリックが闇雲に動きかけるも、ヨルベンの片手が先んじて進行を阻んだ。
「早く追い駆けねぇと逃げられちまうぜ!?」
「パトリックはこの方向に進め。そう遠くには行っていないはずだ。ネーレは俺の援護をしろ」
納屋とは逆の方を指示されたパトリックは怪訝な顔をしてみせるがすぐに頷きその方向へと駆け出す。
「はぁ?」
アルの行方に見当が付かず何故か地面に転がるハルを足蹴にしていたネーレは、ヨルベンの意図がまったく分からず眉間に皺を寄せた。
「お互いこそこそするのは無しにしよう、ミラン。正々堂々と騎士らしく闘おうじゃないか」
納屋前の開けた場所に言葉を発したヨルベンは剣を抜き体勢を整える。
「さすが兄さんだ。では、僕もそのつもりで行こう」
補助的に掛けられた隠蔽魔法を自ら解く形で姿を現したミランはすでに抜き身にした剣先をヨルベンへと差し向けた。
「――ぎゃぁあ!!」
対峙する二人をよそに鋭い悲鳴が一つ上がる。
仰け反り体勢を崩したネーレは寸でのところで踏み止まり、己を傷付けた不届き者を悍ましい形相で見据えた。
頬を抑えた手からは遅れて幾筋かの血が滴る。
「っこのクソ犬! ぶち殺してやるっ!」
「ふふっ。ばーか」
怒り心頭の女ネーレを嘲笑うように俊敏な横跳びを披露するハル。
ハルの動きと、何よりその安い挑発の言葉に完全に我を失ったネーレは次の瞬間には複数の火球を空間に練り上げ、忙しく動き回るハルに向けて一斉にそれらを投下した。
「死ねぇぇえ!!」
「やめろネーレ! 挑発に乗るな!」
繰り出された火球はことごとく的を外れ辺りの木々へと燃え移る。
一抱え程もある火の玉は瞬く間に周囲の草木を炎へと変えていった。
「オタンチン、オタンチン! ネーレのおバカさん!」
「クソッ、クソッ! 焼き殺してやるぅうう!!」
納屋を中心に森中を駆け続けるハルに向けて幾度も打ち込まれる火球の勢いは、それを練り上げる本人の大いなる意思とは関係なしに次第に弱まっていく。
ガギッ――!
ネーレの蛮行に気を取られたヨルベンをミランの剣が左側面を狙う。
やや上から振り降ろされた一撃をヨルベンは盾を使うことなく剣で受け切った。
咄嗟のこととは言え躱しにくい角度と重く強烈な一閃を剣で受け止めた技量に思わずミランは感心する。
同時に成長したとばかり思っていた自身の技量では容易に押し切れない相手だと確信した。
少なくとも小手先だけの剣術では圧倒的に不利に思えた。
「前よりは幾分か上達したようだな。しかしまだ力に頼るところが大きい」
「久しぶりに兄さんと手合わせできて光栄です。此度は胸を借りるつもりで全力で行かせていただきます」
「ふっ、白々しい。殺すつもりでこい!」
血のつながらない両者はこれまでの言い知れない感情の数々をぶつけ合うかのように剣を交える。
「俺は、お前を弟だと思ったことはない。お前は俺を強化する物たちの一つでしかない」
「――僕も、あなたを本当の意味で兄と思えたことはありません。一人の戦士としては認めますが」
大きく踏み込み一刀両断の一撃を得意とするミランに対して、ヨルベンの動きは常に機先を制することに特化している。
ミランが踏み出すより早く手近の足元や眼前に切っ先が飛ぶため、ミランは思うように剣を振るうことができずにいる。
ミランの本領は初撃で止まり、剣先を巧みに扱うヨルベンの手数が圧倒する。関節や正中線を中心とした避けにくい急所を執拗に狙う攻撃は浅くはあるものの、すでにミランの肉を切り裂き出血させている。
「苦しそうだなミラン。俺はまだ一つも受けてないぞ」
「ははっ……これほどの技量がありながら、何故あの人たちと関わるんですか?」
「ふっ、時間稼ぎのつもりか――。まぁいいだろう。すべて家のためだ。俺があいつらをどう思うかなど関係ない。いずれ家督を継ぐ者として当然のことをしていくまでだ。他所から来たお前には到底理解できないことだがな」
「できませんね。僕にはまったく理解できません。血のつながった弟を蔑ろにするあなたたちが目指す『家』とはなんですか? まだ力のない家族を無能と決め付け、奴隷にするのがあなたのやり方なんですか?」
剣先を維持できず宙に彷徨わせるミランを前にニ歩引いたヨルベンは剣を正面に構え直し、音のない溜息を吐いた。
「お前はすでに気付いていると思っていた。正当な勇者の家系であるダヌリス家がわざわざ血筋も定かでない領民の家から子を迎える理由とはなんだ。オーブを持つ勇者として尊重するなら家の駒として使うのもいいだろう。だが、俺の考えはそうではない」
奇しくもミランが最も得意とする上段の構えを取ったヨルベンは一刀両断の一撃に向けて大きく息を吐き出した。
「俺はお前のオーブが欲しい」
「――師匠、お願いします!」
僅かに吸った息を再び吐き出すよりも速く踏み込んだヨルベンは瞬く間にミランとの距離を詰め、剣先はミランの頭頂部を正確に捉え切り裂いた。
「ほう、俺が教えただけのことはあるな。しかし、それは感心せんな」
ミランの技の多くは騎士学校に入る以前から兄であるヨルベンから学んでいる。
よってその技の対処法も当然理解している。
「技を知っていても対処できなければ意味がありません。ですから、僕が今できる方法を取ることにしました」
突如として姿形を消したミランは声だけでヨルベンに応じる。
「なるほど。あの女も近くにいるようだな」
「近くかどうかは分かりませんよ。何せあの方は視界に関係なく何でも隠すことができますから」
――ビュッ、ガッ!
サティスの隠蔽魔法により形こそ消えたものの、寸でのところでヨルベンの剣がその軌道を阻む。
盾と鎧によって意図的に作り出された「隙」に剣先が誘導されたのだ。
「騎士道とやらはどうした? 正々堂々と正面からこないのか」
「生憎と戦力差のある相手に正面から対峙するほど僕は勇者じゃありません。『使えるものは何でも使え』というのは師匠の言葉です。あの方から学んできたのはなにもアルだけじゃないんですよ」
声が遠退いたかと思えば、不意に炎の塊がヨルベンの眼前に飛んだ。
目くらましと分かっていてもこれをまともに受ければ火傷は必至である。
故にヨルベンは炎をまとった太い枯れ枝を剣で払い除け、すぐに次なる不意打ちを迎えるべく体勢を整える。
しかし、その予測に反し追撃されることはなかった。
「――ネーレ、壁を作れ!」
ミランの意図を瞬時に察したヨルベンが焼け焦げた木々の間でハルと対峙するネーレに指示を下す。
声と共に辺り一体に冷気が漂い出し、ハルの周囲に人を裕に越す高さの氷の壁が現出した。
「よく僕の動きが分かりましたね、姉さん。てっきりご自分を守られるかと思いました」
「意気地なしのあんたが私を殺せるわけないじゃん。つーかキモイよそれ。歳一緒だし、あんたと血も繋がってないし」
一頻り火球を打ち尽くした挙句、急激な魔力消費によって一時的な眩暈を起こしていたネーレだが、むしろそのお陰で仕切り直し冷静さを取り戻していた。
「正気に戻ったようだな。ついでに森全体を氷で囲えないか?」
「さすがにそれは無理。でもどうしよう。隙があればまた逃げるよ、こいつら」
即席の氷壁を軽く飛び越えた姿を片眼で追ったネーレの火球が掠め飛ぶ。
「やむを得ん。こいつを使う」
ヨルベンはネーレに自分の周りに氷の防御壁を作らせ、暗雲垂れ込む夜空に向けて鈍く光る腕輪を掲げてみせた。
直後、近くの茂みで何かが倒れる音がハルの耳に入る。
鋭敏な感覚を持つハルの反応を注視していたヨルベンは盾を構え、ハルの耳が向いた方向に猛然と突進を始めた。
辺りに砕け散る氷の塊を払い除け、全身を露わにしたミランが全力でその後を追う。
「もう逃がさんぞ。その状態で魔法は使えまい」
茂みで苦しみ藻掻くサティスを前に、彼女の指や喉の自由が効かないことを確認したヨルベンは躊躇い頭上に掲げていた剣を振り降ろした。
「師匠!」
「――うっ……!!」
ミランの剣先が横に割って入るもその一撃はサティスに致命傷を負わせた。
刃は左の鎖骨を砕き胸部に届いている。
剣の軌道が僅かにずれ辛うじて即死を免れたに過ぎない。
倒れるサティスの両手首にはヨルベンの腕にある物と同じ怪光を放つ枷が嵌っている。
守り切れなかった不甲斐なさと後悔の念に我を忘れたミランの愚直な剣がヨルベンの一打の内に無惨にも空を舞い飛ぶ。
「あああああ――!!」
それでも尚果敢に突進するミランの胸を間髪入れず刃が突き抜ける。
「やはりその程度か。お前にそのオーブは荷が重かろう」
――ガッ!
ヨルベンが剣を動かすより早くハルの爪がその身にまとう鎧を掠めていく。
「ネーレ、そいつの相手をしておけ」
まるで獣のように両手を地に着き尾の毛を逆立てるハル。
その手の爪は先の衝撃で捲れ上がり止め処なく血を流している。
再び剣が動くと同時に宙を飛んだハルの身を狙い澄ました火球が襲う。
「――あ、熱いぃ! 熱い熱い熱い!!」
「このクソ犬! よくも私の顔を!」
衣服や手足に引火した炎を消そうと必死に地を這いずる少女をネーレの足蹴が幾度も振り降ろされる。
顔面を中心に執拗に繰り出される蹴りは容易にハルの肌を破り骨を陥没させた。
「ミラン、死ぬ前に教えろ。お前のオーブは何だ」
「……ふっ。ばーか」
地に伏したミランは胸部を抑えながら最早虫の息となった力を振り絞り顔を上げ、できる限りの憎々しい表情でヨルベンに応えた。
「では死ね」
刹那体を反応させた男は静かに言葉を吐き、死に行く弟の首元目掛けて剣を振るった。
――ビュッ……
「……どういう、ことだ?」
空を切る音に伴い遅れて切断されたはずのミランの首は未だ繋がったままだ。
息を飲んだヨルベンはしばらく佇み、振り切られた剣が異様に軽くなっていることに遅れて気付いた。
「ミラン兄様!」
未だに燃え盛る炎の間から一人の少年が姿を現す。
*アルベロン・ファン・ダヌリス(5)♂
<種族>ヒューム
・南東大陸シウテロテ王国ダヌリス伯爵領ダヌリス家五男