6話 戒め
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『夜の森は魔物がうろつくから屋敷の門から出ちゃダメだよ』
アルが納屋を訪れるとき、サティスは時折そういうことを言う。
数え切れないほどの魔物を討伐してきたであろう彼女の口から聞くとどこか冗談めいて聞こえてきた。
仮に本当に魔物がうろついていたとしても、納屋にいる彼女が何とかしてくれるだろう。
そうした漠然とした期待がアルにそれ以上の思考を停止させ、勇者という最大の天敵とも言える者たちが棲む屋敷の付近を一体どんな間抜けな魔物がうろつくのかなど考える理由もなかった。
故に話の中の場面に身を投じることで初めて知ることがある。
アルは生まれて初めて師匠の言い付けを破り、いま森の中を歩いている。
空を見上げれば枝の隙間から星々が垣間見えるものの、森に視線を戻せばこれまで見たこともないほど黒く深い闇が漠然と広がっている。
魔物がうろついているというのも高い信憑性があるように思えた。
「――ろ――……」
通い慣れた道ですら闇においては全くの別物で、ようやく納屋を遠目にしたときにはもう何時間も経過したかのような感覚に襲われた。
納屋に明かりがなければ間違いなく行くべき方を見失っていただろう。
そのことに思い当たり大きく身震いしたアルは足元に注意しつつ小走りに明かりを目指す。
「――おらぁ――!」
納屋に近づくにつれて彼女とは別の異質な声がはっきりと外に漏れ聞こえる。
「おいおい、そんなにがっついちゃ持たねぇぞ!」
「うるせぇ! 散々お預け食らったんだ、ただじゃ置かねぇよ!」
「ぶははははっ! オメェのことじゃねぇよ! その女が飛んじまうって言ってんだよ!」
不意に襲う耳鳴りと共に聞こえてくる声が昼間に聞いた男たちのそれと重なる。
『今日はあれをもてなす晩餐会だ。その間あの女は好きに使っていい』
まるで考えることを拒絶するかのように遠退く意識の中で、パトリックが発した言葉が幾度もアルの脳裏を漂い始める。
背の低い茂みから見える納屋を視界に入れながらも、アルの思考は絶え間なく霧散し、目に映る光景すらどこか別の視点で俯瞰しているかのような感覚を覚えた。
『あれ』とは何だ。
今日ダヌリス家で歓待したのはアダンとミラン。
よって晩餐会でもてなされるのは二人に他ならない。
『その間』とはつまり、晩餐会で二人をもてなしている時間のことだ。
『あの女』とは――
無意味な回り道を経てそこまで思考が追いついたとき、不意にアルを抗い難い嘔吐感が込み上げ、我慢する間もなく一気に口から内容物が噴き出した。
ひりひりと焼けつく喉を不規則な呼気が幾度も吐き出される。
朦朧とする小さなアルの頭を支配したのはいつも執拗に自分を抱こうとする冒険者の男と、不敵な笑みを浮かべて圧し掛かるあられもない姉の姿だった。
その姿が脳裏を行ったり来たりする度に図らずも与えられてきた熱の余波が残酷なまでに鮮明に思い出されアルを苛み続ける。
最早現実のものかも区別のつかなくなった《《絶えず肉を打つ音》》が狭い空間にこだまし、それを嘲笑うかのように渦巻く暗黒が飲み込みじっとこちらを見ている。
「おい、余韻に浸ってんじゃねぇよ! 終わったんならさっさと代わりやがれ!」
「――教えて。勇者たちはいつ出発するの」
「ああ!? 終わるまでその話はすんなつったろ。萎えちまうじゃねぇか」
「お願いだから教えて。たくさん良くしてあげるから」
「ん、おう。明後日だ。俺が言ったって言うんじゃねぇぞ。あのバカ息子に知られると面倒だからな」
「そう。それで、今回の遠征にアルは同行するの?」
「するだろうな。家畜同然に使い潰してやるとか言ってたしな――おい、もういいだろ」
「まだ我慢して。使い潰すってどういうこと?」
「なぁ姉ちゃんよ、そろそろ時間切れだ。そいつのも限界みたいじゃねぇか。気の毒になってくるぜ」
「まさかとは思うが、あんたも奴らと行く気じゃないだろうな?」
「だとしたらどうなの?」
「くっ……! さっさとやらせろぉ……!」
「やめとけやめとけ! あのガキと一緒に始末されて終わりだぜ!」
「ちょ、待って! それはどういう――」
師匠が発する声でどうにか繋ぎ止めていたアルの意識もついに限界を迎えた。
遠退く外界には肉と肉がぶつかり合う音が響き、その振動に呼応するように息遣いが荒く闇に弾んだ。
*
「はぁ、はぁ……最高だぜあんた」
「――アルが始末されるってどういうこと?」
「あんたも懲りないな……いいぜ、教えてやる。パトリックは遠征中の時期を見計らってあんたの弟子を殺すつもりだ。勿論これは同行するヨルベンの旦那も、ネーレ嬢も知らねぇ話だ。遠征ってのは物凄ぇ危険な場所に行くんだろ。そこで死んだとなれば誰にも文句は言えないだろうな」
「オーブを奪うつもりなのね」
「そこまでは知らねぇよ。俺たちが知ってるのは『オーブは勇者にしか使えない』ってことくらいだ」
――しかも、殺して得たオーブでは仮に勇者が使っても本来の力はほとんど発揮できない。
それでもあのイカれた男なら実行しかねない。
勇者であることやオーブの所持に異常なまでの執着を見せるあの男なら恐らくやってしまうのだろう。
サティスが被りを振って恐ろしい予感を振り払うのと同じくして、最後に有用な言葉を残した男は糸が切れたかのようにぐったりと床に崩れやがて寝息を立てて眠りについた。
周囲に転がる男たちを跨いで納屋の外に出たサティスは体を清めるため井戸に向かった。
いつの間にか白み始めた空には暗雲が立ち込め、次第に淡く光る星々を覆っていく。
ふと何気なく納屋の近くの茂みに目を落とした瞬間、サティスは思わず短い悲鳴を上げる。
あろうことかそこには最愛の弟子が転がっていた。
彼は恐らくサティスが最も知られたくなかった事実の一端を知ってしまった。
彼女が彼を信頼し溺愛するように、彼もまた彼女のことを最も尊敬し慕い続けてきた。
そんな彼の思いを彼女のたった一面を見せたことによって踏み躙ってしまったかもしれない。
予測できたであろう事態を放置してきてしまった自身の怠慢に対する悔恨の念が刹那の間に怒涛のように湧出する。
だが今はそれどころではない。
気絶したままうつ伏せに伸びたアルから小さな呼気があるのを確認する。
一先ず安堵したサティスはアルを抱え上げ、アルのために納屋の壁に造り付けた小さなベッドにその身を横たえた。
*
アルは昼間近にようやく昏睡から覚めた。
起きて早々、すでに日が差す辺りの様子に慌てふためく彼を屋敷から駆け付けたハルが宥める。
不覚にも寝坊してしまったことに怯える主人を小さな体で力一杯に抑えつけ何度も優しい言葉を囁いて聞かせた。
「屋敷のことは全部やってきた。ネーレもパトリックもアダンとミランがいるから好き勝手できない」
「……うん。ごめんね、ハル。僕の分まで」
ハルの言葉と温もりによってアルが落ち着きを見せたのを見計らい、サティスはベッドから少し離れた位置からにじり寄った。
「あのさ、アル。なんというか、その」
「ごめんなさい、師匠。また修練の途中で倒れてしまって」
昨夜のことをどう言い繕うべきかと考えあぐねていたサティスはアルの一声に唖然とした。
ぎこちないやり取りを二三交わすうち、どうやら昨晩の記憶を心の奥底に沈めてしまったらしいことが分かった。
最愛の師が誰とも知れない男たちに犯されていた事実は無くなり、珍しく行われた朝の稽古で魔力切れを起こし昏倒してしまったという記憶に置き換わった。
「私こそごめんね、アル」
サティスは自責の念に駆られ何も知らないアルをただ抱き寄せ謝った。
〈魅了〉及び〈忘失〉はサティスが種族として生得的に備えていたスキルであり、自身が生き残る上で必要だと無意識的に判断した場面において自動的に発動される。
そして今回も望まない形で愛弟子の記憶を捻じ曲げ、不覚にもそのスキルによってアルからの信用を守る結果となった。
「今晩、屋敷を抜けてここにきて」
どんなに醜い形でもいいとサティスは思った。
アルを守るためなら、たとえ汚い方法で信用を保つことも厭わない。
この先アルが成長して記憶の底から真実が浮上し軽蔑されることがあっても構わない。
腕の内で困惑するアルに、サティスは近い未来にアルに起こる不幸について聞かせた。
屋敷を離れた勇者パーティは今まで以上にアルを苛め抜き、終いには旅の途中で殺すつもりであること。
ヨルベンが率いるパーティが遠征に出発する前日の夜、つまり今晩にでも逃亡しなければならない。
多くの雑務を押し付けられているアルが誰からの不審を買うことなく屋敷を抜け出すには皆が寝静まった真夜中しかなかった。
「ハルは北側の通用門を開けておいて。部屋の窓から出たアルと合流してこの納屋までくること。荷物はこっちで準備しておくから」
「わかった」
サティスから聞かされた勇者パーティの目論みに驚いたハルだが、穢れ切った屋敷から主人を逃がすための策と知るや否やすべてを合点した。
「でも、逃げたらきっと怒るよ。捕まったらハルまで酷い目に遭っちゃうよ」
「だったら捕まらなければいい。アルにはお姉ちゃんが付いてる」
予想もしなかった計画に戸惑い弱気になるアルに向けてハルは得意気に胸を張ってみせる。
「師匠もきてくれるんですよね?」
「ごめん、私は――」
「当然サティもあとで合流するに決まってる。アルは何も気にせず前だけ向いていればいい」
咄嗟に手首に付いた不可視の枷を気にしたサティスに先んじてハルは尚も「大丈夫だ」と豪語する。
「先ずはこの森をずっと西の方向に進んで。私を知っている人が住んでるから、近くに行けば気付いてもらえると思う。アルはまだ自分を隠せないから、日があるうちはじっとどこかに隠れて、夜になったらハルを前にして歩くこと。道に迷ったら『赤い目』を思い出して」
次第に自身が置かれた状況に意識が追いつき始めたアルはふとサティスと共に見た満天の星空を思い浮かべる。
燦然と輝く無数の星々と、それをじっと見詰める『赤い目』のような一際大きな星。
***
できるだけ普段通りを装うため日が傾くまでに屋敷に戻ろうとアルと共に表門を潜ったハルは庭から感じる妙な違和感に毛を逆立てた。
「こんなところにいたのね、アル。どこにもいないから〈妖精たちの囁き〉を聞いていたところよ」
丸い天蓋のある石造りのガゼボから聞き慣れた声が上がる。
傾いた日によって天蓋の影に隠れた表情は不気味なまでに黒く禍々しい微笑を湛えていた。
「ネーレ様。ただいま戻りました」
「やだぁ、そんなによそよそしくしないでよ。私たちの仲でしょ?」
アルよりやや前に立ったハルを押し退けるようにして迫ったネーレは「これからもずっと」とアルの耳元で囁き、アルの小さな顔をその胸へと力任せに取り込んだ。
突如呼吸を遮断されたアルは身を硬直させ為すがままにされる。
「おい毛玉。邪魔したら殺すからね」
傍で佇むことしかできないハルを憎々し気な目で睨みつけたネーレはこれまでになく低い声で吐いた。
「おーい、ハル!」
屋敷の方から新たな声が上がると同時に舌を鳴らしたネーレはアルを解放し、声の主とは別の方へと急いで行った。
庭に佇む二人の前にミランが駆けてやってくる。
「アル、遅れてすまなかった」
「いえ、ネーレ様とはご挨拶をしていたところです」
「怪我は、していないみたいだね」
「それよりミラン兄様、どうかされたんですか?」
弟の無事を確認した兄は一先ず安堵した様子で屋敷の方を指してからアルと共にゆっくりと歩を進める。
「明日の朝、ここを出発することに決めたよ。きっとアルは眠っている頃だろうから、先に話をしておこうと思ってね」
「……そうですか。兄様、どうかお体にお気をつけてください。ご武運をお祈りしております」
「アル。これはアダン様にご相談したことなんだけど、もしもアルが望むならヌアザート家の養子になってみるのはどうかな。恐らくお父様は渋るだろうけど、ダヌリス家にとっても悪い話ではないと思うんだ」
それに、と言い掛けたミランは言葉を飲み込み、アダンがアルのことを心底気に入っているという周知の事実だけを伝えるに留めた。
「これは完全に僕の勘なんだけど、ダヌリス家は近い将来良くないことが起こりそうな気がするんだ」
「良くないこと、ですか?」
「うん。これは誰にも言ったことはないんだけど、僕のオーブは〈力〉に敏感なんだ。個人よりも家みたいな大きな力の流れともなると、それがよりはっきりと分かるようになる。まぁ、予言者じゃないから何が起こるかは分からないんだけどね」
ミランは自嘲気味に笑ってみせ、アルの頭にそっと手を乗せ呟く。
「だけど、不思議とアルを見ていると落ち着くんだ。もしかしたらアルはこの家を、いや、もっとすごいことをやり遂げる勇者になる」
「そんなことありませんよ。僕はただ隠すことしかできないんですから」
「でもその〈隠蔽魔法〉があったから、古代の勇者は魔王に打ち勝つことができた。サティス様がいなければ今でも僕らは大きな戦いを続けていたかもしれない。アルはそんなことも知らないのかい?」
「!? 知ってますよ!」
からかうように頭を撫でるミランに腕を振ってはしゃぐように抵抗するアル。
「じゃあ、元気でね。お互い自分に誇れる勇者であろう」
「はい! お兄様もどうかお元気で!」
固く握手を交わした二人はエントランスで別れ互いにあるべき場所へと戻っていく。
「兄様――」
ふとアルは振り返り自身が今晩発つ旨をミランに離さなかったことを後悔した。
しかしここで話せば彼らの内の誰かに知られてしまうかもしれない。
そうなればきっとミランにも迷惑を掛けてしまう。
その思いがアルを薄暗い階下の小部屋へと下がらせる。
だが弟思いのミランがその僅かな機微を見逃すはずがなかった。
歪み切った他の兄たちと応対しながらも、弟の寂しげな姿を横目に捉え次に何をすべきか己の〈力〉に問いただした。
*アルベロン・ファン・ダヌリス(5)♂
<種族>ヒューム
・南東大陸シウテロテ王国ダヌリス伯爵領ダヌリス家五男