9. ジュリアン・オーガスタス貴族学園教諭1
貴族学園は文字通り、貴族が通うための学校であり、いずれ社交界を牽引する若い貴族のためのプチ社交界の一面も抱えている。
私のイメージする学校との最たる違いはサロンの存在だろう。
サロンは、特に高位貴族の女性が開催する小規模な集まりのことで、詩作や文学、芸術やグルメなど毎回テーマを決めて語りあう女性だけの集まりのことだ。
これに対応する男子の集まりは紳士クラブと呼ばれ、どちらも主催者と仲のいい同性の集まりになる。
サロンや紳士クラブは学園から正式に認められた活動なので、それぞれの集まりで利用が許された施設もある。大体日当たりのいい場所に建てられたガゼボやコンサバトリー、高位貴族用の学食の二階に併設されているカフェや、同じく高位貴族用の寮に併設されている応接室、慎ましやなところだと、中庭にあるガーデンパラソルの設置されているテーブル席の一角などがそれにあたる。
そうした学園中にあるサロンのために維持されている施設の中、教室からアクセスしやすい学園内の一室に、最近は足しげく通うようになった。
「こーんにーちはー!」
「あら、来たわねソニア。こちらにいらっしゃい」
広くて豪華な内装の室内にはすでにエヴァとヘンリーが揃っていて、メイドのシャーリーさんがお茶と昼食を並べているところだった。ちゃんと自分の席があることに破顔して、さっとエヴァの隣の席に腰を下ろす。
「今日も君が一番遅かったぞ」
「まったく、何度同じことを言うのヘンリー。ソニアの教室が一番遠いのだから仕方がないと、この間話したじゃない」
「姉上、ソニアの立場で僕たち二人を待たせていることが外部に漏れれば、危うくなるのはソニアです。だから私が迎えに行くと――」
ヘンリーの言葉をエヴァはすっと扇を取り出して制し、広げた扇で口元を隠してため息を吐いた。
「それも、ソニアが目立ちすぎるからすでに却下になった案でしょう。まったく、身分がどうの、エスコートがどうのとあなたは回りくどいのよ」
「ですが……」
「素直に、下位貴族の女子がひとりで歩いていたら性質の悪いのに絡まれる可能性があるから心配だと言えばいいのに」
ヘンリーは大抵口うるさいことを言ってはエヴァに窘められているので、このお説教される光景にも随分慣れた。目がちかちかするような輝かしい美形の姉弟がやり取りをしているのを鑑賞できて、役得ですらある。
お昼もう食べていいかな。やっぱりエヴァが食べていいと言ってからだよなあと思っていると、メイドのシャーリーが新しいお茶を出してくれた。
「あ、ありがとうございます、シャーリーさん!」
「いえ、本日はミルクティに合う葉を選んで参りました。気にいって頂けるとよいのですが」
「香りだけでもう最高なのが分かります!」
ニコニコとカップを傾けると、シャーリーさんがふっと微かに息を吐いた音が響く。
シャーリーさんはいつもメイドのお仕着せを着ていて自己主張もしないけれど、これで相当な美人さんだ。クール美人にそうと分からないくらいに微笑まれたのに気づいて、照れくさくてえへへと笑う。
「……あなたがそんなだから、いつまで経っても進展がないのではなくて?」
「なんのことですか」
「わたくしの口から言ってもいいなら言うけれど、姉としてそんな野暮はできるだけ避けたいところだわ。もっとがんばりなさいな」
それで今日のお説教は終わったらしい。苦々しい表情をしているヘンリーに構わず、エヴァがこちらを向き直る。
「ごめんなさいね、おなかがすいたでしょう。温かいうちにおあがりなさいな」
「いただきます!」
今日は前菜として温野菜、小さなプレートにはひと口サイズのハンバーグとローストビーフ、貝の殻を器にした貝のグラタンに、ふわふわのパンとほんのちょっとのパスタ、チーズの盛り合わせとトマトの冷製スープ、デザートは小さなガラスの器に入った柑橘のゼリーという組み合わせだった。
「今日も口の中がいっぱい幸せ」
「それはよかったわ。ローストビーフとハンバーグはお代わりがあるわよ」
「嬉しい!」
温野菜に掛かっているソースは甘酸っぱくて、夏の暑さの中で元気が出る。モンターギュ公爵家の本領は畜産とその加工品が盛んということで、出てくるお肉も卵も乳製品も、本当に美味しい。野菜は新鮮でどの料理も最高の味付けだ。
「歯車」を壊す作戦会議の名目で、最近はエヴァがサロンを開くために借り切っているこの部屋に入り浸るようになった。大体昼食時で、ヘンリーも同席しているので、勿論サロンが開催されていない時に限る。
ハンバーグは近くで料理人が直接料理しているらしく、まだ温かい。お替りを頼めば新しく焼いてくれるってことだろう。
子爵家に引き取られる前も後も、こんな美味しい料理を食べた記憶はとんとない。
こんなにいい想いをしていては、世俗に戻れないかもしれないなんて危機感を抱いたりすることもあるけれど、ソニアの人生でこんなボーナスタイムは二度と訪れないだろうと思うと、今を楽しまねばという気持ちもある。
「……よく食べるな」
「美味しいです!」
「……そうか」
「モンターギュ領って、本当に素晴らしいですね。学園を卒業したらチーズ屋さんとかお肉屋さんに就職させてもらいたいくらいです」
「あら、それならもっといい就職先があるわよ。本領は王都から遠いのだから、王都でできる仕事にするといいわ」
加工品を王都で売る商会かなにかのことだろうか。そう尋ねようとすると、ごほん! とヘンリーが咳払いをした。
「不確かな未来の話はともかく、喫緊の問題の話をするべきでしょう、姉上」
「はぁ、ヘンリー、あなたって本当に……」
エヴァが優雅な手つきで小さなグラタンをさらに半分に切り分けて、口に入れる。エレガンスという概念が服を着ているとしか思えない、優雅な仕草だった。
「でも、そうね。後顧の憂いは早めに排除しておいたほうがいいわ。最近、エドワード・ヴィクターが自分を助けた乙女を探し回っているらしいし」
「ああ、今日も元気にあの日参加していた貴族たちに癒し手のことを聞き回っていたらしいですね。そのうち諦めると思いますが……」
「あのエドワード・ヴィクターが、本当にそのうち諦めると思っているの?」
エヴァの冷たい言葉にヘンリーがうっと言葉を詰まらせる。私にも不都合な話題なので、最高に美味しいローストビーフを咀嚼して、気分をアゲることにする。
肉のうまみが口の中に広がるのに、それでいてちっともくどくなく、大変に柔らかい。簡単に歯で噛み千切ることができて、飲み込んだ後は上等な牛肉の余韻だけが残される。
うーん、美味しい……。こんな美味しいものを食べさせてもらっているのだ、やはり頑張らなければならない。
「次はジュリアン先生かなと思います」
二人は緊迫した空気をふっと緩めて、そっくりな表情でこちらを振り返る。
「ジュリアン・オーガスタス教諭ね……。あの方は変人で、自分の研究室で危ない実験をしていると噂もあるし、次はトリスタンの方がよくないかしら?」
ジュリアン・オーガスタス・ボーフォートは貴族学園の教師で、魔法学の理論担当の先生だけれど、実際の授業は彼の弟子が分担して受け持っていて、私も本人を見たことはない。
ボーフォート侯爵家出身の天才で、貴族学園の敷地の北の端にある塔を占有し、そこに閉じこもって日々魔法の研究をしているという変わり者だ。
北の塔は元々怪談めいた噂が絶えないし、雰囲気も悪いし、なんだか薄暗く、生徒もほとんど足を運ばない。そういうこともあって、エヴァがそう言うとおりジュリアンの周囲には悪い噂が絶えなかった。
いわく、違法な魔法の実験をしている。いわく、怪しげな魔法薬を研究している。いわく、あの周辺に小動物がいないのは危険な魔術を使っているからだ。いわく、学生を実験の材料にしている――。
ゲームの知識から言うと、最後の噂以外全部本当だったりするから、まあまあの危険人物であるのは間違いないけれど、それでも名前を挙げたことには理由があった。
「ジュリアン先生は居場所が居場所なので、元々人気がありません。「歯車」を壊す抱擁に関しても、私が珍しい魔法を持っていると耳打ちすれば乗って来るんじゃないでしょうか」
貴族学園の先生と生徒がハグなんて露見したら大変な騒ぎになるのは目に見えているけれど、目撃者がいなければなかったことと同じだ。
段々私も物騒な考え方をするようになってきたなあと思いながら、パスタをパクリとすると、オーダーしていないのに新しいハンバーグが運ばれて来た。最初に出たものよりちょっと大きくて嬉しい。
「わたくし、あの方のことは苦手なのよね……。まあ、得意な女性はいないでしょうけど」
一応攻略対象の一人です。それなりに人気がありました。私も今はごめんですけど。
「トリスタンは皇太子の側近として傍にいるので、攻略難易度は高めです」
逆に言えば、トリスタンさえこちら側に引き込めれば、皇太子エイドリアンに近づく手引きをしてもらうことが期待できる。
「残りは三人、彼を二番手にして協力者に引き込み、一気に皇太子殿下までいきましょう!」
こうして次の標的は、貴族学園教諭、ジュリアン・オーガスタス教諭に決まった。
――それにしてもこのハンバーグ、めちゃくちゃ美味しい。ずっと口に入れておきたくて、飲み込むのがもったいないくらいである。