8.幕間・バスタブと令嬢たち
公爵家に到着すると、すぐにお風呂に案内された。
この世界だと貴族でもバスルームは保温のために結構狭かったりするし、お湯を溜めるのは猫足のバスタブだったりするんだけど、流石は公爵家だけあって、立派な大理石造りの湯殿で一度に十人くらいお湯に浸かっても問題なさそうだった。
ヘンリーの「歯車」を壊して以後、公爵家ってすごいと何度も思ったけれど、今日もしみじみと思い知ることになった。
「侍女たちに洗わせてもいいけれど、あなたはそれだと落ち着かなそうね」
薄い入浴着を着たエヴァが波打つ金髪をかき上げ、惜しげもなく揺らす。この世界ではお風呂は家族しかいなくても入浴着を着るのが当たり前だし、私は経験がないけれど、侍女たちに洗ってもらう時もそうらしい。
薄い入浴着越しでもエヴァのプロポーションは完璧だった。服を着ていても完璧なんだから、薄着になればそれはもっと完璧に決まっている。
渡された石鹸はこれまで使っていたのは何だったんだろうって思うくらい泡立つし、めちゃくちゃいい匂いがした。
血の匂いが取れるまで徹底的にあらって、これは元日本人のさがとして髪をタオルで上にまとめて湯舟に浸かる。熱すぎず、温すぎず、脚を思い切り伸ばすことができて、全身がポカポカと温まる。
「血まみれになってよかったかも」
「大袈裟な子ねえ。お風呂が好きなの?」
「お風呂も好きだし、この大きな湯舟が最高! 気持ちいい……ずっとここで暮らせるかも」
首までどっぷり浸かると全身からストレスが抜けていく気がする。体は異世界人のソニアのものだけれど、私の魂はやっぱり根っからの日本人らしい。
お米も食べたいし、しょうゆや味噌も欲しい。この世界のどこかにあったりしないだろうか?
大豆があるか分からないし、世界観的になさそうだなあ。チート能力も「歯車」を壊すこととソニアの聖女属性のおこぼれのような治療の魔法だけみたいだし、平民として暮らしていくのにどっちもあまり役立ちそうもない。
そもそも料理もそんなに得意だったわけじゃないから、料理の才能が欲しかった気もする。
「あなたの実家にも、お風呂くらいあるでしょう?」
「子爵家はちっちゃいバスタブだったよ。寮にはお風呂はあるけど、下位貴族の使える浴場には湯舟はないし。はぁーたっぷりのお湯気持ちいい」
高位貴族のための浴場には、たぶん湯舟があるのだろう。エヴァは綺麗に整った顔をちょっとだけ顰めた。
「そうなの? 公平が建前の学園で、身分によってそんな差があるなんて」
「建前だもん。じゃなかったら使える施設が分けられてるわけないし」
「それもそうね……どうして気づかなかったのかしら」
ゲームのエヴァは我儘で傲慢で高慢で意地悪だったけれど、「歯車」から解放された彼女は公明正大な考え方をする人らしい。
考えてみれば、未来の王妃となるべく教育を受けてきたんだから、高い目線で周囲を見る癖もついているんだろう。
「私が在学中は無理だろうけど、エヴァが王妃様になったら、そういう差もちょっとずつなくしていってほしいなぁ。特に学食の差は辛いし」
学園の学食は、学生なら誰でも無料で利用できることになっているけど、当然だけど食事が無から湧いてくるわけじゃなく、それらは各貴族家からの寄付で成り立っている。
高位貴族と下位貴族とでは、その寄付金の額が全然違うんだろうなあというのは予想ができるし、シュレジンガー家が家の役に立たない妾腹の娘のために大枚を寄付してくれたとも思いにくい。
貴族学園にはソニアのような立場の子は結構いるので、そうした寄付金の差が浴場や学食の差につながっているという理屈はよく分かる。
分かるけど、ソニアの体は育ち盛りでたくさん食べたいし、どうせなら美味しいものを食べたいのだ。隣の学食から漂ってくるバターやクリーム、香辛料をたっぷりと使った豪華な料理の匂いを嗅ぎながら安いパンとつなぎがたっぷり入ったハンバーグを食べるのは、中々切ないものがある。
エヴァは考えるようにしばらく黙り、ぴちゃん、としずくが落ちる音とともに顔を上げた。
「ねえソニア。あなた、全員を「歯車」から解放したら、本当にどこかにいってしまうつもり?」
「もちろんぱっと消えるわけにはいかないけど、元々庶民出身だし、成人したら実家から手切れ金もらえることになってるから、どこかに引っ越して働いて暮らすことになるかなあ」
「……ひどい家ね」
「仕方ないよー、愛人の子だもん」
男性は未婚の女性に手を出して子供ができたら、その生活を支援するのはほとんど義務だけれど、その義務だって子供が成人するまでだ。
よほど器量がいいとか特別な能力があるなら実子同然に扱ってくれる場合もあるみたいだけれど、ソニアは外見は十人並みだし特出した能力もないことになっている。市井で育ったから、政略結婚に使うにも使い勝手が悪いという感じなんだろう。
「皇太子の歯車だけでも残しておけば、王妃にもなれるのではなくて?」
「いやいや、怖いってそんなの。そもそも王妃なんて器じゃないし、本気で好かれているわけでもない相手と結婚しちゃって、何かの拍子に自然に「歯車」が壊れたりしたら、その時点で詰みじゃん」
ゲームの中では、お目当ての相手と結ばれて二人は幸せに暮らしましたってエンディングだけれど、その幸せがいつまで続くかは言及されていなかった。
一国の王妃の立場が破綻した場合、円満にお別れしてというわけにも多分いかないだろうし、その場合どうなるのか、全然想像もつかない。
「貴女って、大胆かと思ったら変に慎重なのね」
「自分の手に余ることはしたくないってだけ。……ほんとのこと言うとさ、「歯車」も、ちょっとだけ放っておこうかと思ったんだけどさ。だってやっぱり高位貴族の子弟に近づくのなんて怖いし」
「でも、踏み出してくれたのね。あなたの勇気に感謝するわ」
エヴァがあでやかに笑う。お風呂で温まっているおかげか頬はばら色に染まり、いつもとは違う美しさはうっかり湯あたりしそうなくらいだ。
「っていうか、皇太子はエヴァの婚約者でしょ! そんなこと言っていいの!?」
「……だって、この婚約は王家と公爵家が決めたことだもの。私は子供の頃から殿下をお慕いしているけれど、殿下は「歯車」が理由で変わってしまったのではなく、私のことがお嫌いかもしれないじゃない。その場合、殿下の幸福のためなら身を引くのも、臣下の務めだわ」
こんなに美人で、こんなに優しくて、こんなにプロポーション抜群で、こんなに可愛いエヴァでも、好きな人に好かれていないのかもしれないと悩んだりするものなのか。
「私が男の人でエヴァと婚約できたりしたら、もう絶対手放したりしないと思うけどなあ」
「あら、この顔は貴女好みかしら?」
「そんな綺麗な顔を嫌いな人なんて、この世にいないよ」
「ほほほ」
断言すると、エヴァはおかしそうに声を上げて笑う。
「貴女と話していると楽しいわソニア。今日は泊まっていきなさいな。夕飯には約束の、美味しい牛肉を出してあげる」
「あー、でも寮に外出届しか出してないからなあ」
「うちから使いを出してあげる。誰にも文句は言わせないわ」
さすが公爵令嬢かつ皇太子殿下の婚約者である。
堂々と宣言したその姿は威風堂々としたもので、心も体も庶民に染まっている私はその雄姿に、思わず拍手が出てしまうのだった。