7. エドワード・ヴィクター伯爵令息3
残酷な描写があります。苦手な方はお気をつけください。
外の空気はどんどん険悪なものになっていくけれど、誰も避難を呼び掛けに来ないのが逆に不思議な気分にさせられた。
私なら先に何か匂わされていたとしても、こんな騒ぎになっていたらやっぱり心配して逃げないのかって聞きに来てしまいそうだ。それなのに天幕の外を護衛している騎士たちは声を掛けにこないし、同じ天幕にいるメイドのシャーリーさんもいつもと変わらない落ち着いた態度を貫いていた。
大貴族の命令ってすごいし、大貴族に仕える人もすごいなあと思っていると、不意にヘンリーが顔を上げて立ち上がる。
「そろそろだな。行くぞ」
「うぇ?」
「……君、ここに何をしに来ているか忘れていないよな?」
「もちろん! 忘れてません!」
美味しいお菓子と飲み物に完全に甘やかされていて少し反応が遅れてしまった。ヘンリーの懐疑的な視線がざくざくと刺さってくるけれど、勿論忘れていない。慌ててエヴァの隣から立ち上がり、しゃきっと背筋を伸ばす。
「でも、なんでそろそろだって分かるんですか?」
「明らかに空気が変わっただろう。先ほどまで襲撃側と拮抗していた戦線が乱れている。主力が力尽きた証拠だ」
「ほえー……」
「君、本当に大丈夫か?」
「いや、ヘンリー様ってすごいなぁって思ったんですよ。私には全然分からなかったですし」
「……まあ、私は訓練も受けているからな」
モンターギュ家の姉弟は褒めに弱いらしく、ひくっ、とヘンリーの頬が軽く痙攣したけれど、エヴァのように扇で隠す必要はギリギリなかったようだ。
「外はまだ混乱のさなかだ。私が君の周辺を守るから、君は仕事に専念してくれ。周囲の安全については心配はいらない」
「わかりました! よろしくお願いします!」
握りこぶしで食い気味に言うと、ヘンリーは顎を引いて、うむ、となぜか重々しく頷いた。
「それでは姉上、行ってまいります」
「ええ、あなたもソニアも、十分に気を付けて。無理をしては駄目よ。チャンスはまた巡ってきても、あなたたちの代わりはいないのだから」
「はい! 行ってきます!」
そうは言っても、私の知るシナリオはあくまでゲームの中で起きたことだけだ。パワーモンスターのエドワードにがばっといく最大のチャンスが今日であるのは間違いない。
そうしてやるぞ! と勢いこんで天幕を出て、三秒で怖気づいた。
すでにめぼしい貴族家の令嬢や王族たちは避難した後らしく、社交でにぎわっていた広場はイベントに参加していた学生や護衛の兵士たちの急ごしらえの野戦病院状態になっている。規則性なくそこら辺に倒れ込んでいる人たちは、幸い全員息があるようだけれど、うめき声をあげたり逆に静かだったりして、異様な雰囲気だった。
画面越しに見るのとは違う、生々しい血なまぐささがそこかしこから漂ってくる。こんな中を平然とエドワードを探して駆け回っていた原作のソニアの胆力たるや、すさまじいものがある。
「大丈夫か? 恐ろしければ周りを見なくてもいい。私がエドワードのところに連れて行ってやる」
多少嫌味っぽくてしょっちゅうジト目を向けてくるヘンリーだけれど、やっぱり彼の根っこは紳士らしい。嫌な感じに脈動する心臓を押さえて頷き、その後ろを早足についていく。
「ヘンリー様は、平気なんですか、こういうの」
「平気というわけではないが、冷静であろうと戒めているだけだ」
ハードな空気に負けて先行する背中に話しかける。くだらない内容だし無視されるかなと思ったものの、意外とちゃんとした返事が戻ってきたことに少しほっとした。
「すごいですね。私なんか足ガクガクですよ」
「君はか弱いレディなのだから、当たり前だろう」
何故かいつも優しいエヴァには大分慣れてきたけれど、いつもはこいつ大丈夫かといわんばかりの態度の美形にそんなことを言われたら、思わずくらりとしそうになってしまう。いけないいけない。それこそ目的を忘れるな、だ。
攻略対象やその周辺の人たちを意図的に動かしている「歯車」を残しておけば、後からどんな影響が出るか分からない。なにしろ本来は私から見れば見上げる首が痛くなるくらい身分が上の人々なのだ。
ヘンリーとエヴァという心強い協力者を得た今のうちに「歯車」を全部壊す。そうして私はシュレジンガー家からいくらかの手切れ金を受け取って静かにこの世界で暮らしていく。その時にはエヴァとヘンリーとは会話も交わせない関係になっているだろうけれど、元々生きる世界が違う人たちだ。それが一番安全安心な未来というものだ。
ちょっぴり感傷に浸っていると、一際大勢の人々の喧騒が響いてくる。
「あっちだ、行くぞ!」
「あっ、ちょっ、まっ」
手を掴まれてヘンリーが走り出す。ヘンリーは十分こっちに配慮した速度のつもりなのだろうけれど、股下が二メートルもあるんじゃないかってくらい脚の長いヘンリーといいとこアヒルの脚の私とでは、そもそも一歩の大きさが違う。小走りどころか半ば全力疾走でついていくと、不意にヘンリーが足を止めた。
「ぶふっ」
後続車は急には止まれないのを知らないらしいヘンリーの背中に思い切りぶつかって、変な声が出る。何をしているんだといつものように呆れられるかと思ったけれど、ヘンリーはこちらを振り返りもしなかった。
「ソニア、じっとしていろ」
「えっ」
緊迫した声に、頭ひとつぶんも大きい彼の体の向こうを覗き込み、ひぇっ、と声が漏れる。
黒い煙を纏う巨大な猪が荒々しく威嚇の声を上げ、いらだたし気に前足で地面を掻いている。その大きさたるや、ほぼ軽トラ並みのサイズだった。
「ダーク・ボア……」
ダーク・ボアは魔物の一種で、狩猟祭の会場にもなっている森の主だ。エドワードが討伐を成功させたものの力を使い切る原因にもなった戦闘である。
タイミングはばっちりだけれど、生の魔物は想像よりも恐ろしかった。
体毛の一本一本がまるで針金のようだし、怒りに狂っているその目は真っ赤に染まっている。少し離れたこの距離でも、野生動物みたいな獣臭さと命を懸けた生き物の覚悟のようなものが伝わってくる。
ダーク・ボアの前には、一人の青年が立ちはだかっていた。片手に剣を握っているけれど、遠目にも巨大な猪の魔物と立ち向かうにはあまりに頼りない武器に見える。
赤っぽい茶色の短髪に緋色のジャケットの襟の。間違いなくエドワード・ヴィクター・ブラックウッドだ。
「うぉおおおお!!」
魔物にも負けないほどの気迫を纏いながら、エドワードは両手で剣を握り、地を蹴って自分の倍以上も体高のあるダーク・ボアに跳躍する。
「す、すご……」
魔法の力なのかこの世界の攻略対象はそれだけの身体能力があるのか、優に五メートルは飛んだと思う。
ゲームの中では作中屈指の脳筋キャラとして扱われていて、ファンの中でもその暑苦しいまでの熱血さはもはやギャグ枠だとまで言われていたけれど、圧倒的なサイズのダーク・ボアに雄々しく立ち向かっていくのを自分の目で見ると、さすがに胸にくるものがあった。
「ちょっと、かっこいいかも……」
「そんなことを言っている場合か」
ごもっともすぎるヘンリーの声に返事はせず、息を呑んでエドワードとダーク・ボアの戦闘を注視する。
「まずいな……」
「えっ、エドワード様が押していませんか?」
「確かにあいつの剣はダーク・ボアに勝るものだ。だがいかんせん、その剣がエドワードの力量についていっていない」
二度、三度と剣戟を叩きこみ、ダーク・ボアが数歩後退する。
エドワードが押しているのは明らかだけれど、決定打には欠けるというところだろうか。
「あっ」
そうして、エドワードの剣が振り下ろされた刹那、半ばほどから折れてその先がくるくると回転しながら宙を舞う。ざくっ、と地面に突き刺さったその音が、いやに大きく響いた。
学園に通う前の家庭教師による詰め込み教育の中で、魔物は悪意の塊なのだと学んだのを思い出す。野生の獣にはない人間に対する悪意と害意の塊なのだと。
なんでそんなことを今思い出したかというと、武器を失ったエドワードに対してダーク・ボアがニヤリ……と笑みを浮かべたように見えたからだ。
禍々しい殺意に満ちた笑みだった。自分にそうされたわけでもないのに足ががくがくと笑っている。
「加勢に入る。君はここにいろ」
短くそう言って走り出そうとするヘンリーの背中にしがみついたのは、我ながらファインプレイだった。おい、と咎めるような声のヘンリーに、首を横に振る。
「「歯車」が、動いています」
エドワードの背負う大きな「歯車」が、この状況をシナリオに沿わせるよう、慌ただしく回転している。
エドワードも、それに対峙するダーク・ボアだって命がけで戦っているはずなのに、カチッ、カチッ、カチッ、カチッと規則的に響く音は、聞いていてあまり気分のいいものじゃない。
ダーク・ボアがエドワードに向かって突進する。対するエドワードは折れた剣を放り捨てると、両手を広げてそれに向かい合った。
「あの馬鹿! 真正面からいくつもりか!」
死ぬぞ、という言葉は小さかったけれど、弾き飛ばされたエドワードの末路を確信するようなものだった。
ガチンッ! と歯車が噛み合う音が一際大きく響き、それをかき消すようにエドワードの絶叫が、広場に響き渡った。
「うおおぉぉぉぉぉおおお!」
エドワードは突進してくるダーク・ボアの頭をひらりと躱すと、そのまま太い首にしがみつく。それを振り落とさんと首を大きく回転させていたダーク・ボアが動きを止め、その口から白い泡を吹き始めた。
「うおぉおおおおおおおおおおおおお!!!!」
「……は?」
妙に間の抜けたヘンリーの声のすぐ後に、青空に噴水のように血しぶきが舞い、どさり、とダーク・ボアの首が地面に落ちた。
その巨大な体躯が倒れる音は、少し遅れて響く。
「く、首を、ねじ切った? ダーク・ボアの?」
愕然としたその声からして、やっぱりこの世界でもそれは普通のことではないんだろう。
ダーク・ボアが倒れてすぐに、エドワードがぐらりと体を傾がせて、そのままどさっ、とその場に倒れる。慌ててもう一度ベールがずれてないかしっかり確認して、走り出す。
「おい、ソ……ッ」
名前を呼ぶのを途中でやめて、ヘンリーも追ってくるのが分かる。全身をダーク・ボアの血で真っ赤に染めているのには流石に怯む。
倒れたエドワードは意識があって、両目から滂沱の涙を流していた。
「くそっ、立て! まだ魔物はいる! 皆を守らねば!!」
熱血で情熱的で暑苦しくて、けれど真摯で一途なキャラだ。自分だって限界のはずなのに、今も戦っているだろう学生や警備の兵士たちのために駆け付けようとしている。
辺りに人はいない。エドワードをここまで運んだ人たちも、襲ってきたダーク・ボアに恐れをなして逃げ出したんだろう。……エドワードを置き去りにして。
エドワードの行動のどこまでが「歯車」のさせたことで、どこからが彼の意思なのかは私には分からないけれど、この人を解放してあげなきゃいけないって思う。
「じっとして、すぐに回復します」
「……あなたは」
魔物の血が目にも入っていて、それが悪い影響を与えているのだろう。エドワードは視点が定まらないように目をきょろきょろとさせている。
「私は癒し手です。あなたの傷を治します」
安心させるように声をかけて、血でべちょべちょになっているエドワードを見下ろして……覚悟を決める。
ええい! ヒロインは愛嬌! そして女は度胸!
「う、うわっ!?」
真っ白な癒し手の服で全身血液シャワーを浴びたようなエドワードに覆いかぶさり、抱き着く。
たちまちネチョッ、と生暖かい血が服に染みてくる感触と物凄い鉄さびの匂いに半泣きになりながら、ぎゅっと目を閉じて念じる。
――こんなことしなきゃいけないのも「歯車」のせいなんだからね!
――壊れろ!
先ほどまで目まぐるしく回転していた歯車が異物を挟みこまれたように異音を立て、軋み、ビキ、バキッと崩壊する音が響く。それに従ってじたばたと暴れるエドワードの力が段々強くなってきた。
あのダーク・ボアの首をねじ切る力から考えて、それでも全く本調子ではないのだろうけれど、しがみつくのが段々辛くなってきたところでヘンリーががしっ、とエドワードの腕を掴み、地面に押し付けてくれた。
顔を上げると、押さえつけるのが辛いのだろう、苦い表情のヘンリーがこくりと頷く。
やってしまえ。その目ははっきりと、そう言っていた。
――さっさと、壊れちゃえ!
そう強く念じたところで、一際大きな破裂音が響き、あとはガラガラと崩れ落ちる余韻を残し、すうっ、と歯車は空気に溶けるように消えていった。
素早く離れると「行け、後から追う」とヘンリーに唇で言われて、公爵家の天幕の方を指さされ、頷く。走り去る気配を感じたのか、エドワードが勢いよく起き上がった。
「今のはどなただ!?」
「誰の事だ? しっかりしろ。すぐに救護が来る」
「俺はもう大丈夫だ! それよりここに癒し手の方がいただろう!?」
「まあ待て、落ち着け。急に立ち上がったら転ぶぞ」
「俺に抱擁をした。女神のように美しい方だった! 礼をせねば騎士の名折れだ!」
叫ぶエドワードにヘンリーがのらりくらりと躱す声が背中にぶつかってくる。絶対見えていなかったのに、「歯車」も壊したのに、フラグが立ちそうになっているのに肝を冷やしながらそそくさと公爵家の天幕に向かう。
真っ白な服をべったりと血で汚している様子に護衛の人たちは一瞬ぎょっとしたようだったけれど、何も言わないのはさすがだ。天幕の中に逃げ込むとすぐにエヴァがソファから立ち上がって出迎えてくれた。
「エヴァ! やったよ! 「歯車」壊せた!」
「ソニア! まあ、まあ、ひどいことになって……あなたに怪我はないわね?」
ピースサインで答えると、エヴァはほっとしたように表情を綻ばせ、すぐに口元を扇で隠してしまう。
「ひどいナリだわ。すぐに私たちも撤収しましょう。シャーリー」
「はい。お着替えはここに」
さっ、と差し出されたのは制服ではなく、明らかに仕立てがよさそうなワンピースだった。シャーリーさんが衝立を用意して、すぐにお湯とタオルも揃えてくれる。
野外の天幕の中だから仕方がないけれど、いざ身支度を整えようとすると、本当にひどい有様だ。服に染みた血が肌に貼り付いて気持ち悪いし、濡れたタオルでごしごしと拭いても臭いまでは取れそうもない。
臭いし、ばっちぃし、「歯車」をぶち壊した高揚感が落ち着くと、気持ちがしおしおと萎えていく。
「着替えをしたら公爵家に行きましょう。お風呂を用意して、香りのいい最高級の石鹸で洗ってあげるわ」
「わぁい! エヴァ、大好き」
「あら、うふふ」
「それでいいのか……」
どうやら戻って来たらしいヘンリーの、疲れ果てた声が衝立の向こうから響く。
遮られているとはいえ、年頃の男の子と衝立一枚向こうで着替えをしているのが気恥ずかしく、そそくさと体を拭いて服に袖を通すことになった。