4. エヴァリーン・アンジェリカ公爵令嬢
私は前世も今も根が庶民なので、案内された応接室の調度品があまりにも豪華で、ソファもふかふかすぎて、居心地が悪かった。
カフェの密談から一時間ほど過ぎて、私はヘンリーの手引きによりモンターギュ公爵家の客間に招かれていた。メイドさんが出してくれた紅茶はシュレジンガー子爵家で飲むお茶の何倍も香り豊かで、味わい深く、それでいて渋みは一切ない、お茶に造詣が深くなくてもこれはいいお茶だなって飲んだだけで分からせられるものだった。
ダージリンが紅茶のシャンパンって言われるの、こんなにいい香りがするからなんだぁとしみじみと感動する。流麗なラインに金の縁取りがされているカップは、ぶつけて欠けさせたら、しがない子爵令嬢には絶対弁償できない金額だろう。
おっかなびっくりの私と違って、当たり前だけれどヘンリーの態度は堂に入ったものだった。なんならカフェの個室のほうがよほど動揺しっぱなしでオロオロとしていたような気がする。
「色々と考えたのだが」
「はい」
「姉上には、君を、呪い師として紹介する」
「はい!?」
思いもよらない言葉に、思わず声がひっくり返った。
聖女と呼べとは言わないけれど、ここで呪い師が出て来るとは思わなかった。
呪い師は、生来の能力や後天的に学んだ呪法を用いて文字通り呪いを行う職業だ。前世のおまじないとは違って明確な効果を求められるし、その効果に対してお金が発生する。
字面は呪いと何だかおどろおどろしい感じがするけれど、この世界ではれっきとした職業のひとつである。
厄除けから病気の治療、安産の相談なんかも呪い師の仕事に含まれるらしい。ただし、聖女や聖魔法で治療を行う治療師と比べると民間療法の色合いが強くて、それらが貴族御用達なら呪い師は安価な庶民のための医療技術者という扱いだ。
庶民育ちのソニアの記憶にも、熱を出した時に呪い師に薬草を煎じてもらったものがある。
「そんなに大きな声を出すな。はしたない」
「すみませんね、平民育ちなものなので礼儀がなってなくて」
「……いや、そういう意図での発言じゃない」
紳士のヘンリーはマナーには厳しくても、出自で人を差別するような振る舞いをしていると思われるのには抵抗があるらしい。
とにかく顔がいいし、身分も高くて公明正大ときては、軽薄な態度を取らなくても一種の沼のように女子の恋心と憧れを一身に集めるのだろうなと思わせる。
私にとっては絵に描いた高級パフェのようなものなので、すごいなあ、美味しそうだなぁと思うに留めておくのが安心安全というものだ。
「それで、呪い師って、どういう意味ですか」
とっとと話を元に戻すと、ヘンリーはごほん、とわざとらしく咳払いをする。
「幸い、というのもおかしいが、姉上は最近気欝の病に囚われている。父上が手配した王宮勤めの治療師にも診せたが、改善の傾向が表れないままだ。君はその快癒を祈願するために、私が用意した呪い師としよう」
ヘンリーが説明したのは、こうだった。
「歯車」を壊すには、その対象と接触する必要がある。そして彼の姉であるエヴァリーンはヘンリー同様、この一年半ほど様子がおかしい状態が続いている。
ヘンリーが頼った呪い師のお祓いがよく効いたので姉上にも、という形で私を紹介する。そして呪いを使うのに抱擁をしなければならないという設定で押し通すのだという。
「うええ、マジですか」
話を聞いているだけでも怪しいことこの上ない。私に弟がいたとして、最近行った呪い師のお祓いがよく効いたんだ、姉さんも最近調子悪そうだしどう? あ、お祓いをするにはハグしなきゃいけないんだけどよろしくね、と言われて信用する気になるだろうか?
弟の頭がおかしくなった、もしくはその呪い師という名の詐欺師に騙されていると疑うのが順当な判断ではないか?
ゲームの中のエヴァリーンは将来王妃になるべく教育を受けており、規律に厳しく、風紀が乱れることにはもっと厳しいキャラクターだった。
女生徒を堂々と侍らせている弟のことも毛嫌いしていて、ヘンリーとエヴァリーンの関係は最悪のはずだ。
そのヘンリーが連れて来た怪しげな女呪い師など、面会するどころか屈強な家人が乗り込んできて不審者として放り出されるのが関の山ではないだろうか。
「心配するな。姉上は対外的には厳しく振る舞っているが、決して偏屈な方ではない。私が紹介する相手を無下にはしないだろう」
「それは、ヘンリー様が女性を侍らせてあらぬ噂が立てられる前の話では?」
痛いところを突かれたのだろう、ヘンリーはうっ、と呻いたものの、そう何度も私の攻撃に致命傷を受けてばかりではないらしい。比較的短時間で立ち直ると、とにかく、と立ち上がった。
「姉上を連れて来る。いいか、他の使用人はさり気なく遠ざけておくから、紹介すると言って目の前に立ったら、その場でガバッといってしまえ。それが一番話が早い」
「エヴァリーン様って皇太子殿下の婚約者で、未来の王妃様ですよね? 身分が圧倒的に下の人間がガバッて、下手をしなくても不敬罪になりませんか?」
「「歯車」を壊した時の私と同じ状態になるなら、姉上も自分が何者かに操られていることには気が付くだろう。そうなれば、咎め立てはされないはずだ」
「はず、かあ」
「……何があっても私が責任をもって君を守る。それでいいか?」
「まあ、それなら」
紳士のヘンリーならば、口に出した約束は違えないだろう。頷くと、彼は話は決まったとばかりに颯爽と応接室から出て行った。
待っている間につまんだお茶の付け合わせとして出された焼き菓子は、バターとお砂糖がたっぷりと使われていて、しみじみと美味しい。上等のバターも砂糖もこちらでは高級品である。庶民に戻ったらこんな美味しいお菓子を食べる機会なんてそうないだろうから、今のうちにしっかり味わっておこう。
人払いは完璧らしく、ポットの中身もなくなったのにメイドがお替りを持ってくることもないまま、待つこと三十分。
ようやく応接室のドアが開いた時には、出て行った時より疲弊した様子のヘンリーは、同じ色の髪を長く伸ばした女性を伴っていた。
「……そちらが、あなたが連れて来た呪い師? 学園の制服を着ているようだけれど」
ツンツンとした声で、いかにも胡散臭そうにそう言ったのは、紛れもなく悪役令嬢、エヴァリーンである。
今は制服ではなく、シンプルだけれど一目で仕立てがいいと分かるすらっとしたワンピースに着替えていた。顔立ちはヘンリーによく似てやたらと整っている上に女性らしい華やかさがプラスされて、お世辞抜きで眩しいほどの美貌である。
波打つ黄金色の髪がその美しさに神々しさまで与えている。ほっそりとした体つきなのに胸は立派に張り出していて、なんともゴージャスである。
何もかも平均値で存在がぼやーっとしている私と並べられると、ボルゾイの前に出されたアヒルの子みたいだ。
「はい、姉上。貴族の義務で学園に通っていますが、学生をさせておくのが惜しいと思うほどにとても優秀な呪い師なのです」
「そう……あなたがそこまで言うのなら、そうなのかしらね」
マッチが五本くらいは載りそうな、バシバシとしたまつ毛に縁どられた緑の瞳がこちらに向けられる。
「わたくしはエヴァリーン・アンジェリカ・モンターギュ。直答を許しますわ」
「初めてお目にかかります、ソニア・メアリー・シュレジンガーです」
淑女の礼を執り、にこっと微笑む。さすが未来の王妃なだけあって、すごい迫力である。普通に対面していたらその迫力に気圧されてビクビクしていたかもしれない。
けれど今は、その後ろにそびえる「歯車」の大きさと複雑さに、実物のエヴァリーンがかすんで見える。
ヘンリーの「歯車」の倍近くもあるのは、おそらくエヴァリーンのソニアに関わるシナリオの分量ゆえだろう。
婚約者である皇太子マクシミリアンと実弟ヘンリー、どちらのルートでもかなり濃密に関わってくるし、それ以外でも平民育ちのソニアが自分と同じ制服を着ているというだけで、何かと毛嫌いしていたキャラクターだ。ゲームの中でもエヴァリーンは行動パターンも多ければ台詞も多い。
「気欝を和らげることが出来ると聞いたわ。わたくしがそのような症状があること自体、限られた者にしか知らせていないというのに、愚弟が余計なことを吹き込んだようね」
「ヘンリー様はとてもお姉様のエヴァリーン様を心配されていましたので」
「この子がねえ……」
「私とヘンリー様は、今日知り合ったのですが、私の呪いを受けた後で是非ともエヴァリーン様にも、とここまで連れてこられた次第です。本当にエヴァリーン様がご心配だったのですね」
「……そう?」
ぱさっ、と扇を開き、エヴァリーンは口元を隠す。それで誤魔化したつもりのようだけれど、目もとがひくひくと笑みの形になりかけていた。びっくりするくらい、喜んでいるのが隠せていない。
エヴァリーンの隣で、ヘンリーが早くしろ、とっととやれとジェスチャーしてくるのが台無しに思えるくらいだ。
分かってるよ。この「歯車」の大きさは、到底放っておけない。
ヘンリーの「歯車」が壊れた影響なのか、今は明確な敵意のようなものは感じないけれど、それだっていつまでそうであるかは分からない。
その敵意の矛先は私なのだ。エヴァリーンの「歯車」をどうにかするのは明確に私にメリットがある。
「あのっ、失礼します!」
「え?」
足を踏み出し、両腕を開いて一気にエヴァリーンに抱き着く。本日二度目の不意打ちハグだ。
――うわっ、細い!
ヘンリーは細身に見えてもそれなりにがっしりしていたけれど、対するエヴァリーンはその尊大な態度とは裏腹に、抱きしめると回した手が肘まで回り、文字通り折れそうなほどに細かった。
「ちょっ、何なの!? いきなり! ぶ、無礼者っ」
ジタバタともがくのは淑女らしくない、かといってこんな不意打ちはされたことがないのだろう、どうしていいのか分からないというように硬直したまま、怒りと困惑の声だけが耳元で響く。
「姉上、どうか気をお鎮めになってください。これは呪いです。ほんの少し、ご辛抱を」
「そうは言っても、あなた、ヘンリー!」
「おい、早くしろ!」
「うわぁ、めちゃくちゃいい匂いする……」
「!? ヘンリー!?」
思わず率直な感想が声に出てしまった。だって花というか、蜜というか、とにかく甘くて、ものすごくいい匂いがするのだ。
髪はつやつや、お肌はすべすべ、これぞ極上のレディ! という感じである。
これではただの痴女だ。役目を果たすべく目を閉じて、「歯車」に対して壊れろ! と思い切り念じる。
先ほどヘンリーで成功していたため、すでにコツは掴んでいた。すぐにビシッ、と深く亀裂が入る音が、響く。
歯車は回り続けているので一か所に亀裂を入れれば、後はそれぞれが噛み合わなくなってギシギシと軋みを上げ始め、小さな歯車から連鎖しながら、大きな歯車に影響し、やがて全体が不協和音を立てるようになる。
耳障りな音はしばらく続き、腕の中のエヴァリーンの体からくたり、と力が抜けた。
ガラガラと崩壊した歯車が床に砕け散り、すうっ、とその輪郭が空気に溶けるように消える。
「……大丈夫ですか?」
エヴァリーンは心あらずという様子ではあったけれど、意識ははっきりしているようだ。何度か首を横に振ったけれど、気持ちが安定しないのだろう、綺麗な顔を顰めている。
「ええ……。ヘンリー、わたくしを、ソファに座らせてちょうだい」
すぐに近づいてきたヘンリーに場所を譲ると、その細い手に手を重ね、ソファまでエスコートした。姉を案ずる様子のヘンリーに、ほんのりやつれた様子の姉という姉弟の絵面は、まさに目が潰れそうなほど美しかった。
「……わたくし、これまで、何をしていたのかしら」
「姉上」
「いえ、覚えてはいるの。でも、この一年と少しの間、まるでわたくしがわたくしではなかった気がするわ」
白い手を額に当てて、エヴァリーンがよろり、と体勢を崩す。それから私を見て、あなた、こちらに、とソファの隣に呼んだ。
「そこに座って、わたくしを支えなさい」
「あ、はい」
うん、今はヘンリーが人払いしているけど高位貴族には専属の侍女がついていて、文字通り令嬢を支えているもんね。突然のハグには驚いていたけれど、そういうノリで触れられること自体には慣れているんだろう。
未来の王妃ってすごいなぁと思いながらエヴァリーンの肩を支えると、遠慮なくもたれかかってくる。さしずめ私はクッション。あの人をダメにする、大きくて細長くてビビットな色合いのアレだ。
それにしてもエヴァリーンは本当にいい匂いがする。何の香水を使えばこんな匂いがするんだろう。そんな場合でもないのに変にドキドキしてしまう。
「……長い、悪い夢を見ていた気がするわ」
「私もです、姉上。この一年半ほど、ずっと自分が自分ではなかったような心地でした」
「そう……。確かに、あなたも突然ふしだらに堕落するようになったわね。あれは、あなたの本意ではなかったのね」
「ふし……いえ、はい、お恥ずかしいところを、お見せして」
エヴァリーンはいいえ、と静かに言った。
「わたくしも、ひどい有様だったわ。己の自尊心ばかりを守ろうとして、周りに対して寛容ではない振る舞いばかりをするようになっていたの。それなのに自分に自信を持てなくて、自らを浅ましくゴテゴテと飾り立てようと腐心して、なんと醜いことを」
「姉上……」
「エイドリアン殿下が、わたくしを見限るのも、当たり前だわ」
ほろり、と涙をこぼすと、エヴァリーンは私の肩に顔を埋めて、震えていた。美女の涙でしっとりと肩や胸が生暖かくなるけれど、肩を優しくさすって宥めるに留める。
普段は気丈な姿しか見たことがないのだろう、ヘンリーは目に見えてオロオロとしているけれど、こういう時はたとえハリボテでも、周りが落ち着いて振る舞った方がいいと思う。
悲しみに暮れている時は、ただ自分の心に向き合うのがいいのだ。
他人の言葉は落ち着いてちゃんと判断力が戻ってきたら、その時に聞けばいい。