32. 皇太子・エイドリアン・ヴァレンティン・ラヴェンステッド8
初夏を寿ぐ王宮のパーティは華やかの一言だった。
貴族学園の卒業式も間近で、卒業と同時に領地に戻ったり結婚をする人も多いので、これが独身最後のパーティになる若い貴族も少なからずいて、少し羽目が外れたような浮かれた空気もあった。
前回のパーティと同じようにモンターギュ公爵家は一番に呼ばれる。貴族の一人として参加するならシュレジンガー家はずっと後なのだけれど、今回は入場の間はモンターギュ家の控室で待ち、パーティの開始が宣言された後でヘンリーに迎えに来てもらってこっそり会場に入る方法が取られた。
こうしたパーティの場では、男性の身分がしっかりしていればエスコートされている女性はそれほど立場を明確に求められないというシステムの穴を突いた方法である。実際これでお忍びの他国の貴族の女性や、貴族の愛人なんかもこっそり紛れ込んでいるらしい。
王家主催、それも全ての貴族が招かれる初夏の祝いのパーティなので、前回の若手だけ集められたパーティよりずっと大きく、正式なものだ。流石に今回はエイドリアンも王族席に姿を見せたし、婚約者であるエヴァのエスコートを務めている。
「失礼、レディ」
「はい?」
今日も今日とて積極的に社交をしているエヴァの後ろでチャンスが来るのを待っていると、背の高い男性に声を掛けられた。顔を上げるとにこっ、と実に爽やかな笑みを向けられる。
「お飲み物が空になっているようですね。こちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
差し出されたグラスを受け取ると、さりげなくそれまで手にしていたグラスを取られてぽん、とタイミングよく通りかかった給仕の盆に載せる。その手つきは鮮やかで、まるで背中に目が付いているみたいだった。
「あなたのような美しい方がおひとりでいたので、気になって声をかけてしまいました」
「あ、連れは今、ちょっとお話をしているところで」
「では、そのタイミングに感謝ですね。私も可憐な花のようなあなたと、お話をする機会を得られたのですから」
歯の浮くような言葉がどんどん出てくるけれど、実はパーティでこんな風に声を掛けられるのは、これが初めてではない。
ヘンリーに連れられてエヴァの傍にいると、私みたいなちんちくりんでも少しは目立つらしくて時々男性から声を掛けられることがあった。
大体はダンスのお誘いだけれど、テラスで少し話をしないかと誘われることもある。今回もその類だったようで、人が多いから少し風に当たりませんかと言われてしまう。
エヴァとヘンリーには、そういう誘いには絶対に付いていくなときつく言われているし、まあなんとなく私もよくないなと思うので断ることにしている。相手も貴族なので断られればしつこくされることはなかったけれど、今回の爽やかさんはちょっとしつこい人のようだった。
「これを逃せば、二度とお話をする機会はないかもしれません。どうか私にその幸運を与えていただけないでしょうか」
「いえ、エスコートしてくださっている方に申し訳ありませんし」
「僅かな時間でいいのです。ほんの少し、二人きりで語らう時間が与えられれば、それで」
「ええと……」
あまり面と向かって強い言葉で断るのは、相手の面子を潰すことになってしまう。騒ぎになれば今日の目的を達成するのに支障が出るかもしれないし、トラブルは避けたい。
「レディ、どうか……」
どう断れば穏やかに諦めてくれるかなぁと考えていると、手を握られてしまった。お互い手袋越しとはいえ、中々大胆だ。
テラスは無理だけどダンス一曲ならと言えばあきらめてくれるだろうか。ヘンリーに付き合ってもらって最近は大分マシになってきたとはいえ、いまだに三回に一回くらいは足を踏んでしまうけど、足が痛くなったら諦めてくれるかもしれないし。
今日の趣旨は夏を寿ぐダンスパーティなので、よほど踊り続けて疲れているという以外では誘いを断ったりはしないものだ。こちらから水を向ければ一曲踊って済むなら、それでいい。
「あのう――」
よしそうしよう。そう思って口を開きかけたところで、周囲の雰囲気がざぁっ、と波が伝わるように変わっていった。
「どうかしたのか? ソニア」
その声にはものすごく聞き覚えがある。具体的にいうと毎日午後から放課後に掛けて聞いている声だ。声を掛けていた爽やかさんも顔を上げるとギョッとしたように目を見開き、凍り付いていた。
「え、エイドリアン殿下」
爽やかさんが固い声で言ったあと、紳士の礼を執る。「エディ」が「エイドリアン殿下」であると知らなかった、ことになっている私は一拍遅れて淑女の礼を執った。
エイドリアンの隣には感情を抑えている時の顔のエヴァ、その後ろには、汗をだらだらとかいているトリスタンと、興奮気味に顔を赤らめているエドワードも控えている。
「ランステッド君、後輩にしつこく声を掛けて困らせるのは、よくないな」
「いえ、少し話をしようと誘っていただけで、決してしつこくは」
「ソニア、大丈夫か?」
すっとヘンリーが傍に寄って来て、手を取り爽やかさんから引き離してくれた。エイドリアンはそれにちらりと視線を向けると、太陽のように輝く笑みを爽やかさん……ランステッドに向ける。
「ランステッド先輩。私が席を外している間、パートナーの無聊を慰めてくださってありがとうございます。彼女はパーティに不慣れですので、心強かったと思います」
「あ、ああ! こんな可愛らしい方を一人にしていては、どんな悪い虫が付かないとも限らないからね。君が戻って来てくれてよかったよヘンリー。殿下、私もパートナーの元に戻らねばなりませんので、御前を失礼いたします」
「ああ、よいパーティを」
エイドリアンが鷹揚に言うと、ランステッドはそそくさとその場を立ち去ってしまう。話しかけられただけで何をされたわけでもないのに何だか可哀想だなと思っていると、エヴァがほっと息を吐いた。
「ソニア、おかしな男に絡まれないよう気を付けなさいと言ったでしょう」
「ごめんなさい。と言っても、ちょっとお話していただけなんですけど」
「貴女は小さくて可愛らしいのだから、油断しては駄目よ。ひょいと持ち上げられて連れ去られてしまったらどうするの」
エヴァはそう言うし、実際背は高いほうではないけれど、かといって羽のように軽いかといったら悲しいかなそうでもない。特にここしばらくはエヴァがたくさん美味しいものをくれるので、いつ制服がきつくなるかヒヤヒヤしているくらいだ。
「エヴァリーン。そんなふうにきつく言うものではない。彼女が泣きそうになっているではないか」
「え」
「君は、ただでさえ威圧感があるのだ。下の者にはもう少し、優しく接したらどうだ」
天下の公爵令嬢、エヴァにこんなことが言えるのは王国内でもそう多くはないだろう。エイドリアンのその言葉にエヴァはさっと視線を落としたけれど、隣のヘンリーはやや反感を隠しきれない表情だった。
「申し訳ありません、殿下」
「謝罪するのは私に対してではないだろう?」
「ソニア、きつく言ってしまってごめんなさいね」
「え、いえ……あのっ」
「あなたが心配だったの。分かってくれるわね?」
ヘンリーに握られたままの手とは逆の手をそっと握られる。そのささやかな力の伝わり方から、今はそのようにして、というエヴァの声がきこえてくるようだった。
「いえ、私も軽率でした。ご心配いただき、ありがとうございます。――エヴァリーン様」
「では、話はここまでだな。――ソニア嬢、制服姿も素敵だが、そのドレスもよく似合っている。まるで月の下で咲く可憐な花のようだ」
「あ、ありがとうございます」
「君はとてもセンスが良いのだな。シンプルだがそれが君の素朴な可憐さを引き立てている。装飾品が最低限であるのも、却って上品だ」
まるで、隣に立つ大輪の薔薇のようなエヴァと比較して、当てこするネタにされているみたいだ。
こういう立場になっていい気分になれる人もいるのかもしれないけれど、私としては居心地が悪いばっかりだった。万が一、エヴァとの関係がこれで悪くなってしまったら、腹が立つのはエヴァではなくエイドリアンに対してだろう。
けれど何も言えない。エイドリアンは次期国王だ。この中では最も身分が高いし、卒業したら平民になるソニアと違って皆はいずれエイドリアンの臣下になる人たちなのだから、私が物申して迷惑をかけるわけにもいかない。
「ソニア、よければダンスを」
「で、ででで、殿下! まだレディエヴァリーンとの一曲が終わっていません!」
「エヴァリーンとはこれまでも散々踊ってきただろう。今更彼女も、私とファーストダンスなど飽きているのではないか?」
「殿下、序列は大事ですよ。エヴァリーン殿もそう言うはずです」
エドワードも流石にトリスタンの肩を持つ。その2人にエイドリアンは、これまで廃温室では一度も見たことのない、疎むような視線を向けていた。
ガチリ、と歯車が噛み合う音が響き、はっとする。
「わたくしは構いませんわ。ソニアは可憐な花のような子ですもの。ダンスパーティも今日が初めての参加ですの。殿下にファーストダンスを踊っていただければ、よい思い出になるでしょう」
「エヴァ……リーン様」
「わたくしに遠慮はいらないわ。ソニア、いってらっしゃい」
エヴァは笑っている。綺麗に。よく手入れされて大事に育てられた大輪の花みたいに。
だから、余計にそれを粗末に扱うような振る舞いをするエイドリアンが、憎たらしく感じてしまう。
「……はい、エヴァリーン様」
言いたいことは山ほどある。でも、エヴァが我慢しているならば、私だって今は我慢する。
「エイドリアン殿下、もしよろしければ、私と一曲、お願いします」
女性の方からダンスに誘うのは少しはしたない行為だ。けれどエイドリアンは軽く膝を曲げて紳士の礼を執ると、白い手袋に包まれた手を差し出してくる。
「勿論喜んで、レディソニア。お手をどうぞ」
その手に手を重ねると、まるで見計らっていたように音楽が鳴り響き。
エスコートされるまま、私はエヴァやヘンリーたちと離れて、広間の中心に進んでいた。




