31.幕間・ダンスの特訓と楽しい未来
「ステップはもう少し足を大きく開いて大胆に、だが優雅にだ。左に引かれたときは顔の向きと目線は右だ。ターンが入ったら上体は軽く後ろに倒す。支えて絶対に転ばせたりしないから、遠慮なく体重を掛けろ。それ以外はずっと相手の顔を見るんだ。パートナーへの信頼感がそこに出る」
「うう……」
そうは言うけれど、この眩く整った顔をじっと凝視する身にもなってほしい。視線に気を取られればステップは疎かになるし、気が散漫になっているときに後ろに体が傾けば転ぶんじゃないかって余計な力が入る。結果動きがぎくしゃくとなってしまい、ダンスの授業の時より惨憺たる結果になった。
でも、エイドリアンはヘンリーとはタイプが違うけれど、大変に顔立ちが整っている。ヘンリーが満月のような人なら、エヴァやエイドリアンは輝く太陽が連想されるような眩しい美形だ。ヘンリーで目が眩んでいるようではエイドリアンとのダンスなど目が潰れるのではないだろうか。
「ち、ちょっと休憩させてください」
視界の暴力はともかく、ダンスそのものも結構体力を使う。体に変な力が入っているという理由もあるかもしれないけれど、ヘンリーとの練習は特に消耗する気がする。
ひらひらと裾が翻る、見ただけで高価だと分かるドレスは先日エヴァの侍女として身に着けたものよりグレードが高く、実際の夜会に着ていけばどこかの令嬢だと思ってもらえるだろう。
練習は制服では駄目なのかと聞くと、毎回ドレスの準備を手伝ってくれるシャーリーにはきっぱりと駄目だと言われてしまった。
「実際に踊った時にどのような布の動き方をするかは、その人の癖によって変わってきます。その癖を優雅に矯正することも大切ですが、癖は個性でもありますから、ドレスの方を調整することもあるので。スカートの揺れやストールの垂れる角度なども気に掛けますよ」
どう考えてもドレスをダンスに合わせる領域に達する前に、エイドリアンの「歯車」を壊すのが先だ。そのシャーリーに出してもらったアイスティーを啜りながら、ヒールでステップを踏んで痛んだ足をさすさすと摩る。
「ヘンリー様に付き合ってもらうのも悪いですし、やっぱり、ある程度踊れればそれでいいですよ。ダンスのパートナーになった時点で「歯車」を壊すのに支障はありませんし、別に私、恥かくの平気ですし」
そう言うと、向かいのソファで同じようにアイスティを飲んでいたヘンリーは、むっと眉間に皺を寄せる。
ヘンリーは真面目だし、完璧主義者の部分がある。ダンス自体は本筋ではないのだから中途半端でもいいという私の意見は受け入れがたいものらしい。
「……君は、ダンスが自分の将来にはなんら関係がないと思っているだろう」
「え、それはまあ」
「だから練習に身が入らないし、上手く踊れるようになりたいとも思わない。明確なビジョンがないから上達しないし、上達しないから練習しても楽しくないの悪循環だ」
「………」
ヘンリーは何かと口うるさいところはあるけれど、かといって厳しくお説教をしてくるようなタイプでもない。大体は私の令嬢らしくないところに呆れを見せるくらいで、その本質について指摘することは今まで一度もなかった。
ヘンリーの言うことは、その通りだ。
エイドリアンの「歯車」さえ壊してしまえば、聖プロのシナリオから解放されて、私は自由になれる。
自由というのは、この見知らぬ世界でシナリオという指標がない状態で生きていかなければならないということだ。
ソニアの記憶があるとはいえ、私にとっては生まれ育った世界とは違う場所で、貴族の保護のない平民として暮らしていく。働き口にどんなものがあるのかまだ完全に分かったわけではないし、平民の女性の平均的な一生なんて分からない。
スリが当たり前に出るくらいだから治安だって日本ほどは良くないだろうし、何かのトラブルに巻き込まれたらどこを頼ればいいかとか、暮らす部屋を借りるのに保証人がいるかどうかとか、日常の細々と困ることにもたくさん直面するんだろう。
自分の身を守り、ある程度安全に、そして幸せに暮らすために覚えること、やるべきことは、本当にたくさんあるはずなのだ。
エヴァはいざとなったら女官として王宮に連れて行ってくれるというけれど、きちんとした教育を受けていない私がエヴァの女官になれば、きっと仲のいい相手を贔屓しているだけだと言われてエヴァに恥をかかせてしまうだろうし、それは嫌だ。
現実的には、やっぱり最初の予定通り学園を卒業したら私は平民として生きていくのが順当である。
その中で貴族の社交やそのための手段としてのダンスなど、これっぽっちも必要になるわけがない。エヴァのために頑張るのは全くやぶさかではないけれど、ダンスパーティで自分が恥をかいたからどうだっていうんだろうという気持ちが根底にある。
そういう意識があるから身が入らないし、面白いとも思わない。ヘンリーの言うことは全部合っているけど、仕方がないじゃないという気持ちもあった。
「そうだな、たとえば」
ヘンリーが立ち上がり、手を差し伸べてくる。どうやら休憩は終わりらしいとその手に手を重ねると、ぐいっと引っ張られた。
「わっ」
「こうやって急にバランスを崩したとき、どんなにとっさでも、私は君をこうして支える。それは子供の頃から紳士とはそういうものだと教えられ、心身に染み付いているからだ」
高いヒールを履いていたのであっさり転びそうになったところを、腰を掴まれて支えられ、軽くターンする。ダンスを踊っているように、というより完全にダンスの動きだった。
「今のはヘンリー様が引っ張ったのに」
「君が放り投げられた時もそうだっただろう? 咄嗟に動けないということは、私にはない。それが必要だと思ったら体が動く。そういう教育を受けている」
それを言われるとぐうの音も出ない。確かにあの時は助かったし、ヘンリーに助けられた。
顔面から床に滑って転んでも、自分を助けてくれたのはそうした教育のたまものということらしい。
「教えられて身に付けたものだが、私はそういう自分を気に入っているよ。積み重ねたことは単なる技術だ。だがその技術を利用すれば、私はやりたいときにやりたいことができる」
「つまり、ダンスは単なる技術で、私のやりたいことのためにいつか利用できるってことですか?」
「ダンスだけじゃないさ。こうして会話をする。リズムに乗って動くことができる。相手の視線で次はどう動くのか予想する。観察して、考えて、動く」
「わ、わっ、わ」
くるりと回って、上体を後ろに傾ける。放り投げられた時にヘンリーが助けてくれたのを思い出したら、これくらい傾いてもちゃんと支えてくれるだろうと思えたせいか、さっきほどは怖くない。
「ほら、相手を知れば、どれくらい任せてもいいかもわかるだろう? 私が他のレディをエスコートしても大丈夫だと君が思えたら、私以外のダンスのパートナーも私と同様に信頼して、同じ動きができるようになる」
「初めて踊る相手でもですか?」
「貴族の男というのは、そういうものだ。パートナーを支えきれない男はそもそも踊らない。誇りと意地を掛けて支えるとも」
「ははは、貴族って大変なんですね」
「……ああ、大変なんだよ」
くるり、くるりとヘンリーのエスコートで広間を回る。話しているうちに気が抜けたのか、気が付けばステップも大きく取れるようになっていた。
「それに、こうした技術は他にも役に立つぞ。人と気さくに話ができるのは君の長所だ。少々調子に乗りやすいきらいはあるが、それを嫌味に感じさせない。君と話すのが楽しいと思われればいい仕事を回してやろうと思う者もいるだろうし、そうしているうちにより良い仕事に就けたりもするだろう」
「私、あんまり自信ないんですけど」
そんなものがあるなら学園でぼっちになるものだろうか。まあ、それは色んな条件が重なった結果かもしれないけれど。
「私が雇用主なら、君には是非うちで働いてくれと望むぞ」
「えー、ヘンリー様がそう言ってくれるなら、ちょっと自信持てそうですね」
「ああ、自信を持つといい。条件のいい場所で働いて、君の望むように生きていけるさ。私が保証しよう」
「それは、すごくいいですね!」
働いて楽しく暮らして、そうしていたらいつかはこの世界に生まれてよかったと思える日がくるかもしれない。
くるといいな。
音楽に合わせてくるくると回る。
いつかそんな日が来るかもしれないと思うと楽しい気持ちになって、ヘンリーの顔を見るのも、少しは平気になっていた。




